傾いていくのは

「彼、ひとり暮らしだからさ」

 そう誰かが言ったのを、お酒の席でぼんやりと聞いていた。社会に出て私は一年も経っていないけれど、友人たちは二年目で、それなりにまわりを見回す余裕ができている。

「今時車もないし、クリスマスも彼の部屋だったんだよ」

 愚痴めいた言葉でも、彼女の顔は不満そうじゃない。

「バレンタインもさ、私がホテル予約しようとしたら、もったいないから止めとけっていうの」

「え? 彼女のお金までそう言うの?」

 本題はそこからだったらしく、会話の中で彼女は顔を輝かせた。

「結婚したあとのために、貯金しといてくれって。当分共稼ぎになるけど、ごめんなって」

 一度話を切って、彼女は同席した仲間たちの顔を見回した。

「宣言! 私、ビンボー人の妻になります! 来週、彼が家に来るの!」

 うわーっと盛り上がった中、彼女の幸福そうな顔は、私の内に強く印象づけられた。


「友恵が一番乗りするとは、思ってなかったなあ」

 お酒を飲んだあとに寄った喫茶店で、寛子が私の顔を見ながら言った。

「一番先は真弓かと思ってた。ご両親、どう?」

「今、会社辞めろってヒステリックになってる」

「いいんじゃない? 働かなくてもいい立場なら、そうしたいって人もいっぱいいるし。真弓もそうだと思ってた、ごめん」

 学生時代からのつきあいの寛子は、私が甘ったれで親の言いなりのお嬢さんであることを、よく知っていた。

「働きはじめたら、私が何にも知らないことが、よくわかった。外に出て、良かったよ」

「真弓は、なーんにも知らないところが可愛いのに。私みたいに生意気だと、男が寄ってこない」

 寄ってこないなんて言いながら、寛子の足になる男はたくさんいる。身体を代償にしているわけでもないのに、嬉々として送り迎えを買って出て、振り向いてもらえるのを待っている。その現実的な性格が良いのだと、誰かが言っていた。



「五十嵐さん、会社閉めるよ。明日にして、無理だったら誰かに手伝ってもらって」

 10時を過ぎていた。振り向くと、フロアには私と専務だけだ。ムキになって電卓を叩いていたので、最後になったことに気がつかなかった。

「すみません、今片付けます」

 慌ててデスクを片付け、ロッカールームに向かった。夕食を摂ることも忘れていたので、急に背中が痛くなる。

「フロア、消すよー」

 専務の声にパンプスを履く。社内にふたりだけなのだと思うと、やけにドキドキした。ロッカールームの前で待っていた専務に頭を下げ、一緒に会社を出る。

「やっぱり、仕事のバランスが悪いよなぁ。五十嵐さんが伸び盛りで、やる気になってくれてるのはわかるけど、他の人との兼ね合いもあるから」

 施錠しながら、専務が言う。皮のコートの背中が、広く見えた。

「ラーメン食ってく? 腹減ったろ」

「あ、はい」

 歩き出した人の背を追って、私も歩く。専務とふたりで食事するのは、2回目だ。他の人も同じように誘っているのかも知れないけれど、女の子同士のランチの席では聞いたことがない。


 何故、離婚なんてしたんだろう。性格も生活も、破綻しているわけではないだろうに。子供までいて、その子供は父親と暮らしたがっているのに。それを訊ねるのは失礼なことだし、よしんば答えが戻ったところで、私に何かの影響があるわけじゃない。

「あ、俺、広東麺とギョーザ。五十嵐さんは?」

 気さくに笑う専務の顔は上司のままだから、私もプライベートな話はしないことにしよう。仕事の振り分けを明日もう一度考えると言っている専務に、私に任せてくれと言い張ることしかできない。


 言い張っても減らされた残業時間の代わりに考えたのは、宅地建物取引主任者の資格を目指すことだった。家でリビングに顔を出さない理由のための勉強が、ますます両親の不興を買ったのは言うまでもない。写真も見ずに断るお見合いは、持ち込まれる数が減っていて、母だけが諦めきれずにそれを吟味する。

「ねえ、この人ならいいんじゃない? 片桐さんほどインテリ臭くないわよ」

「そういう問題じゃないって言ったじゃない」

「一生結婚しないつもり?」

「そんなこと、言ってないでしょ。自分のことなんだから、自分で考えたいの」

「考えてるうちに、相手なんかいなくなるわよ」

 両親の望み通りの若くて可愛いお嫁さんなんて、私には魅力のないものになっているということが、どうして理解してもらえないのだろう。それまで培ってきた価値観は、容易なことでは返らない。



 バレンタインデイに専務に渡したチョコレートは、他の男性社員に渡したものと差をつけていた。その場で開ける筈がないと考えていたし、私にとってそれは義理としてではないからだ。何人もの女子社員から受け取ったものを一まとめにして、専務は紙袋で持ち帰る。取り紛れてしまっても、それが専務の口に入るのなら満足だと思った。だから翌日、専務が改めて礼を言ってくれたとき、机の下で喜びの拳を握り締めた。

「あれ、五十嵐さんだよね。子供が来たときに食べさせようと思って冷蔵庫に入れたんだけどさ、五十嵐さんがくれたやつは、自分で食うわ。幼稚園児には贅沢すぎるもんな、ずいぶん張り込んでくれちゃって」

「いろいろなことで、お世話になってるお礼です。ご馳走にもなってますし」

「社員を気にかけるのは、管理職の義務だよ。でも、サンキューな」

 義務だけではなく気にかけてもらうために、私は何ができるんだろう?外見に気を配ることと、専務の期待通りに仕事をすること以外に、何が必要だろうか。

 ホワイトデイを待たずに女子社員全員に渡された菓子は、可愛らしいラッピングが施されていた。解いてしまうのが惜しくて、ベッドのサイドテーブルに置いた。眠る前にそれを眺めて、手渡してくれた専務の笑顔を思う。他の人と同じものでも、嬉しかった。それを用意したのが、社長婦人だったとしても。



「五十嵐さん、ちょっといい?」

 営業さんに呼び止められて指示を仰いでいると、専務が通りかかった。単純な図面の青焼きは誰が頼まれても良い類のもので、複雑な作業を必要としていない。

「それ終わったら、ちょっと声かけてくれる?会議室にいるから」

 会議室に呼ばれるのは、大抵こっそりと注意を受けるときか、何かトラブルがあるときだ。緊張しながら複写機を動かし、乾くのを待って畳んだ。指示通りのファイル折りにして表紙をつけ、営業さんに渡してしまうまでに、何度も最近何か失敗をしたか自分に問いかける。小さな失敗はいくつかあっても、会議室に呼ばれるようなことはしていないと、びくびくしながらドアをノックした。

「そこ、閉めて。ちょっと確認したいことがあるから」

 表情が硬くないことに安心しながら、ドアを閉めた。


「再確認しておくけど、退職する意思はないんだね?」

 専務の質問はそれだけだったが、そこに父の思惑が絡んでいることは、訊かなくても理解できる。

「父から、また何か」

「いや、今年度いっぱいで終わりとかなんとか、聞いたような気がしただけ。五十嵐さんが辞める気がないんなら、気にしなくていい」

 その頃、父の勤め先は河埜不動産とはもう、直接の取引をしていなかった筈だ。つまり、電話にせよ呼びつけたにせよ、仕事上ではなくプライベートな件で、専務に手を煩わせているのだ。湧き上がる父への怒りと専務への申し訳なさで、唇が震えた。

「家庭の事情なのに、申し訳ありません」

「そんなに恐縮しなくていいよ。お父さんも、五十嵐さんが可愛いだけなんだから」



 帰宅した父が夕食を終えるのを待って、リビングに入った。母は洗い物をしていて、父はソファで新聞を広げていた。

「専務に、私が今年度で退職するって言ったの?」

 はじめから喧嘩腰なのは、冷静でいられないほど腹が立っていた証拠だ。私の勢いに怯んだように父は口籠もったけれども、否定はしなかった。

「昨日電話した時に、社会勉強なら一年もすれば充分だとは言ったな」

「今、パパの会社と仕事は関係ないよね。なんで電話なんかするの?」

「次の仕事の件で、取引先に電話して情報を聞くことは……」

 適当に誤魔化そうとする父に、ますます腹が立った。父の勤め先のような大会社ならともかく、河埜不動産の規模で社員のまるで与り知らぬ物件なんて、ありえない。賃貸アパートの管理ならいざ知らず、ゼネコンが絡むような仕事であれば、社員全員が何らかの情報を持っているような大きさなのだ。

「今、パパの会社とおつきあいの予定なんて、ないでしょう」

「下っ端に何がわかる」

 ああ、この人もある意味で世間知らずなのだと、その時に気がついた。大会社しか知らず、今まで自分の言い分の通る場所にしかいなかったのだ。

「辞めない。専務にも、そう言ったから。これ以上、専務に迷惑かけないで」

「迷惑がかからないように、家でおとなしく料理でも習え。資格なんか取ったって、役に立たない」


「余計なお世話!うるさい!」

 親にこんなに荒い言葉を使ったのは、はじめてだ。

「そんなことして、何になるっていうの?パパみたいに、洗濯機の使い方も知らない旦那様と暮らすの?そんな人、私はいらない!」

 驚いた母が、必死に窘める声を背中に聞いた。

「私のことに、構わないで!」

 止まらない言葉は絶叫めいている。これ以上専務を巻き込めば、専務は私を疎ましく感じて遠ざけるのではないかと、それが一番の恐怖だった。見て欲しい人が遠ざかってしまったら、私の指針はどこに持って行けば良いのだ。


 自己主張が強いなんて、思ったことはなかった。他人と争おうと思ったことも、少なかった。それは、それまで必要のないことだったのだ。声高に主張しなくとも、自分の意思は通ってきた。他人と争わなくとも、自分の進む先は開けていた。自分の中に生まれた感情を通すために、あれこれ画策するような知恵は、持ち合わせていない。譲歩してはいけないと、自分の中で声がする。

「こんな我儘な娘に育てたなんて」

 父の非難がましい目が、母に向く。それにすら我慢ができない。

「ママは私じゃないのよ!私もママじゃない」

 決裂した先には、母のうろたえた顔だけが残った。



 母の溜息が増えた原因は、明らかに私だ。父からの言葉と私の強い抵抗の均衡をとろうと、母が疲れているのは知っていた。

「何がいやなの?好きな人でもいるの?」

 これについて正直に答える娘は、いるのだろうか。離婚経験のある、ひとまわり以上年上の男なんて、両親に言えるわけがない。まして、相手は私の気持ちなんて知りもしないのだ。

「ママは、パパで満足してる?」

 質問に質問で返事する。

「そりゃあ、大変なことだってあるわ。頑固だし、細かい人だし。だけど、真面目だから。パパがいるから、真弓だって苦労しないで育ってきたのよ」

 それについてはもちろん、感謝しなくてはいけないだろう。

「ママの幸せって、何?」

「真弓が幸せになって、人並みの生活を送ってくれること。だから、意地にならないで」

「意地になってるわけじゃないのよ。ママと同じ生活は、私にできないだけ」


 価値観の違いは、どうしようもないのだ。説得して覆るものなら言葉を尽くすけれども、相手の思い込みを否定したって、反感が残るだけ。言い負かすのは勝ちじゃない。部屋でテキストを広げながら、春からスクールに行けば本格的に対立することになるのだと気が重い。かと言って残業と友人との暇潰しではもう、遣り過ごしきれない時間を持て余してしまう。

「宅建の資格を取れば、役に立つでしょうか」

「ああ、資格手当も出すけど……大変だよ?」

「チャレンジしてみようと思って。せっかく仕事してるんですから、何か結果を残そうかと」

「頑張るなあ。期待してるよ」

 専務の笑顔で、資格取得を決意する。受かったら、もっと褒めてもらえるだろうか。



 いつか誘ってもらった割烹料理屋で専務と並んで座っているのは、少し遅めに会社を出ようとしたところで、専務に会ったからだ。どこかで打ち合わせをしていたらしい専務は、作業ジャンパーではなく皮のコートを羽織っていた。

「酒の相手がいたな。メシに行こうか」

「私と、ですか」

「ああ、バレンタインにチョコ張り込んで貰ったから。他の子には、内緒な」

 内緒という言葉が特別に聞こえて、いそいそと横を歩いた。専務の話し相手になれるほどオトナではないけれど、私にだけ語りかけてくれるのが嬉しい。買ったばかりの靴が痛いのに、踵の靴擦れを忘れるほど足が軽い。夕食は要らないと母に電話すると、ひどく不機嫌な返事が戻った。家で夕食を摂ることは減っているのに、私の夕食は必ず用意されていたのだ。

「もうちょっと若向けの店のほうが、好きかな」

「ここも好きです。でも、高いんじゃないですか」

「高いところなんて、申し訳ないけど連れて行けないよ。ここは魚が旨いから、気に入ってるんだ」

 小さな猪口に注される日本酒は、すっきりと後口の良いものだ。


「お料理とか、自分でしないんですか」

「ぜんぜんしないね。掃除も、ときどきお袋がしてる」

 私の父は洗濯機の使い方どころか、多分電子レンジの使い方も知らないし、休みの日ですら掃除の手伝いもしないので、男の人のひとり暮らしは大変だろうなと思う。

「息子さんが遊びに来るんですよね」

「その時は張り切って、朝から掃除して料理してる。二週間に一回は、泊まらせる約束だから」

「楽しみなんですね」

 専務はふうっと溜息をついた。

「まあ、いろいろあるから。子供には心底、申し訳ないと思ってるよ。落ち着かないだろうな」

 もう一杯と注がれる日本酒を、一息に飲んだ。

「五十嵐さん、けっこうイケる口だよな。若い女の子って、どこで飲んでるの?」

「カフェバーとか、ですね。最近は焼き鳥屋なんかで飲む子もいるみたいですけど、私はちょっと」

「オヤジギャルってやつか。ウチの会社には、いないな」

 微妙に逸らされた話題で、家庭に触れられたくないのだと思う。どうして離婚して、どんな生活をしているのか、もっと訊きたいのに。


「宅建取るって、本気?」

「本気ですよ。いろいろ勉強したいんです」

 専務は私の頭にぽんと手を置いた。

「嬉しいよ、そんな風に仕事に取り組んでくれて。言っちゃ悪いけど、腰掛前提だったからぜんぜん期待してなかったのに、今は一番期待してる。ありがとうな」

 この手が私の髪に触れた。それだけで報われた気がするのは、触れて欲しかったからだ。私を私として認めてくれる専務に、もっと認めて欲しい。私には価値があるのだと言って欲しい。そこに、理屈は存在しないのだ。

 専務は私以外の女子社員とも、同じように酒を飲んだり頭に手を置いたりしているのだろうか。私だけが特別扱いされているわけなんて、ない。少なくとも河合さんは、私より近かっただろう。嫉妬は空想の中からも、やってくる。

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