温度差が大きい

 正月一番の出社は、冷えきったビルの空調が効ききらぬうちに、全員でコートを着て、近所の神社に初詣することからはじまった。普段ならば作業着の人も、この日ばかりは背広姿で、会社に帰れば社長婦人が朝から仕込んだ甘酒と、やはり近所の鮨屋から届けられた巻寿司が社員を迎えた。その間、専務の横を片時も離れなかったのは、小さな子供だ。公私混同と責めたてられるような大きな会社ではないし、株式の体裁ではあっても、どちらかと言えば個人企業だから、別に違和感はない。

「おなまえは?」

「こうのなおき。ごさいです」

 胸を張って答える子供の頭を、専務が愛しげに撫でる。その手つきに、胸が小さく痛んだ。これは、大切な物を包もうとする手だ。


「なおくん、お鮨は?」

 社長婦人が世話を焼こうとしても、子供はするりと専務の横に戻ってしまう。そして机に寄りかかっては、つまらなそうな顔をしている。

「なお、パパは仕事だから。お昼食べたら、ママが迎えに来るんだろう?」

「うん」

 下唇を突き出した子供が、不満気な顔で素直に頷くのがいじらしく、女子社員同士で昼食を囲みながら、私の神経は専務の席のほうを向く。

「次の次の日曜日も、パパのところにお泊りに来るんだろ?」

「いつ? あさって?」

とんちんかんなやりとりが、子供と大人の会話の温度差を感じる。少なくとも、この子供は父親と一緒に生活したいのだと思う。


「和則、そろそろ圭子さんが迎えに来る時間よ」

「ああ、そうだな。なお、おばあちゃんちでママのこと、待ってなさい」

「パパと」

「ごめんな、パパは仕事なんだよ」

 聞き分けの良い子供は、社長夫人に連れられて会社を出て行った。その小さな背中を見送る専務の目は痛々しくせつなく、そして私の胸にも痛い。

 私だけじゃない。いろいろなことを抱えて、みんな生きているんだ。自分の意思を通した私は、まだ救われている。あんな小さな子供では、親の都合に従うしかないじゃないか。座っているのが針の筵の上でも、頭を押さえつけられているわけじゃない。

 振り向いて見た専務は、既に机の上に図面を広げて、営業と話をはじめていた。



 会社の裏の喫茶店に呼ばれたのは、社員に少しでも聞かせないようにしようという心配りだったのだと思う。専務は朝から年始まわりに出ていて、その中に当然父の勤め先もあったのだろう。定時が過ぎてから、ちょっとおいでと声をかけられた。勤めはじめたばかりの時、ここで泣き言を言った記憶がある。

「ごめん。プライバシーにかかわる問題だからね、聞いたらいけないのかも知れないけど」

 その言葉で、話題が何に関するものか、理解できてしまう。

「縁談なら、取りやめになりました。退社時期は明確にしていませんでしたけど、辞めなくてはいけませんか?」

 声が震えた。非公式にせよ年内に結婚退社予定だった社員の後人事を、専務は考えているかも知れないという危惧はあった。好景気の中で、何故かギリギリの人数でまわしている会社だ。ひとりひとりの負担は、結構大きい。

「いや、それを五十嵐さんに確認したかったんだ。五十嵐部長が辞めさせるようなことを言ってたから」

 ハンマーが頭に落ちてくる漫画があったが、その時の気分は正にそれだった。


「私が辞めたくないと言っても、父の意向如何でしょうか」

 コネ入社の私よりも、大きな利益の元である父の勤め先に、専務の視線が行くのは当然なのだ。

「いや、そんなことはしないよ。五十嵐さんは戦力になってるって言ったでしょう」

 返事にほっとしながら、専務の続けた言葉に首を傾げた。

「それにね、これから先、ゼネコン・サブコンと取引するような大仕事は、うちの規模の会社には来ないと思うよ。そういう意味では、五十嵐さんはもう、コネ入社だって言えない。いてくれると、助かるよ」

 何故好景気なのかは理解していないくせに浮かれていた人間は、意味が俄かには把握しにくい。戦力だからいて欲しいと言った専務の言葉だけが嬉しくて、私は何度も頷いた。

「辞めなくて、良いのですよね」

「そうしてもらいたいね」


「父は、辞めさせるつもりなんでしょうか」

「家でおとなしくさせておきたいって言ってたよ。若い娘が金を稼ぐと、余計なことを考えるって」

 父の会社にも、同年代の娘はたくさん働いているのに。私みたいにお嬢さん短大じゃなくて、大学の建築科を出て、自分で事務所を開けば「先生」と呼ばれる女の子も、使っているのに。



 父が私に求めているのは、多分母と同じものなのだ。社会に出たことのない、家庭のことしか知らない母は、外のことはすべて父に頼りきりで、父はそれが家庭においての男の価値だと思っている。それに添って生活する母を気に入っているのは結構なことだけれど、私が生活を共にしたいと思う相手が、そう望むとは限らない。

 友達と遊んで夜遅くにこっそりと帰宅すると、リビングに父がいた。なるべく顔を合わせないようにしていたのに、母が寝室に引き上げたあとまで、そこにいたらしい。見れば手元にはウィスキーの入ったグラスがある。

「いい加減にしなさい」

「何が?」

「いつまで好き勝手なことをしているつもりだ」

「おかしなことなんて、してないよ。他の人と同じじゃない。仕事して、気晴らしに遊んで」

「いい年の娘が、申し分のない縁談を蹴って遊んで歩いて、親にも相手にも失礼だと思わないのか」

 酔った父は、きっとそれが娘に対して失礼だなんて思っていない。気の乗らない縁談を受けることが失礼でないと言うなら、そもそも選ぶ必要なんかないのだ。

「聞いてるのか、真弓」

 返事をすれば、言い争いになることは目に見えている。両親がしてきた生活を否定するつもりはなくとも、継承する必要性は感じない。黙って自室に引き上げ、着ていた服をハンガーに掛けた。



 ずっと勤務し続けると思っていた河合さんが、結婚退職をすることになったのは、急な話だった。

「ごめんなさい。先に妊娠しちゃったの。おなかが目立つ前に結婚式しなくちゃならなくて、大変」

 内勤の女子社員だけでなく、店舗のカウンター勤務までが、退職するまでのスケジュールを聞こうとする。河合さんは在社年数分のキャリアと気遣いで、仕事量は群を抜いている。社員の人数を絞っている今、これ以上仕事が増えてしまうと浮き足立つのは、ある意味当然かも知れない。

 専務が引継先を振り分けはじめ、残業は増えていく。河合さんは丁寧に教えてくれるけれども、それを彼女と同じスピードでこなすことは、できない。

「補充の人は考えていないんですか」

 誰かが専務に、そう質問したらしい。

「悪いけど、しばらくこの体制で仕事してくれって。会社が儲かってるんなら、人を入れてくれればいいのに。ケチすぎるわ」

 忙しさの苛立ちが、専務に向く。縮小体制でも人間が余る事態になることは、その時には誰も予測していなかった。


 家に帰りたくない私と、オーバーフロー気味の事務の引き受け手が欲しい会社側とのバランスは、お誂え向きに合致した。自分の仕事を増やしたくない人の中、河合さんからの引継ぎで中堅が持て余した仕事は、一番下である私に打診が来る。それを余さず引き受け、事務職の中で誰よりも遅くまで仕事する。気を遣った先輩が、業務内容を調整してくれようとするたびに、馴れればこなせますと言い張ってファイルを抱える。そう言ってしまえば、仕事量が増えることを喜ばない人たちは、無理矢理私から取り上げたりはしない。


「断っちゃったのー?もったいなーい」

 ショッピング途中で入った小さな喫茶店で、ティーカップを前にした友達の手元には、メンソールの煙草がある。綺麗に塗った爪とピンク色のライターは、アクセサリーそのものだ。女性の喫煙率が上がり、細巻の煙草が流行していた。

「なんかね、気が乗らなくて」

「あー、でも真弓の話聞いてたら、私じゃ無理だなーって思ったことはあるな。ランチにナイフとフォーク使うような店が日常なんて、肩凝りそう。映画の前の腹拵えなら、ハンバーガーで充分だもん」

「実は、私もそうだわ」

 経済力と家庭への考え方の違いに馴染めなかったのだと気がついたのは、残業中だった。私の家は父こそエリートではあっても、資産家というわけでもなく、旧家なわけでもない。あくまでも一般家庭の中でクラスが多少上であるだけで、家風がどうのなんて考え方は、持っていないのだ。

「でもさ、マンション買ってもらえる筈だったんじゃないの?」

「うん。でも、それは付加価値だけだもん」

 憑き物が落ちたみたいに、良い縁談への執着が消えたのは、私だけかも知れない。



「真弓の残業が多すぎるって言っておいた」

 リビングで両親が話していたのは、私のことだ。リビングのドアは開いており、私は入浴後に部屋に戻るところだった。

「そうしたら、それは真弓さんが苦痛だと言ってるのかと来たんだよ。本人が引き受けたいって言った仕事だから任せてる、社外の人は口を出すなってわけだ。預けるところを、本当に間違えた」

 母の声が低く相槌を打つのを、足を止めて聞いていた。

「辞めるように言いましょうか。このままじゃ、次の縁談が来ても……」

 聞かないふりなんて、できなかった。娘の仕事を何だと思っているのだ。そして何より、そんな面倒なクレームのある娘だと迷惑を掛けたことで、専務が私を疎ましく感じたりしたら――

 リビングのドアの前に立ち、パジャマ姿のまま声を出した。

「何で邪魔するの!選ばせてよ、私にも!」


「片桐さんは、見合いで気に入った相手だったんだろう。それまで断ってきたんだ、自分で選んだんだろう」

 父の声は、冷たかった。

「途中で気が変わったのは、自分が一人前に見えたからなんだろう?外に出たことのない娘が、ちょっと仕事してみただけで、社会を知った気になって」

 過たずに直線の矢が飛んでくる。それに対しては、言い返せない。悔しくて、涙がこぼれた。

「おまえみたいに甘えた娘に、何ができるっていうんだ。そこがいい気になってるって言ってるんだ」

「仕事は辞めない!お見合いも、もうしない!」

 反論ではなく、自分の主張だけの情けなさ。私には何の武器もない。甘えた娘は、それまでのツケが大きすぎる。

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