反逆者になる

 夜を過ごすような間柄になるのなら、結納を急ぐべきだと母が言う。片桐さんが30歳になってしまう前に式を挙げるべきだと、仲人との意見は一致しているようだ。自分の話なのに、他人の話のようなそれを聞き、部屋に閉じこもる。日曜日はまた片桐さんと会い、義務のように興味のない映画につきあって、帰り際にキスするのだ。クリスマスには一晩一緒に過ごし、セックスする――片桐さんとセックスするの?本当に?

 未体験じゃない。学生時代にも恋人はいて、好きな人の肌に触れるのが幸せなのは知っている。けれど私は、片桐さんの肌に触れることなんて、望んではいない。他人よりも経済的に恵まれた生活を手に入れるために、性を提供しようとしているに過ぎない。まるで高級娼婦のように。

 いや。このままなんて、結婚したくない。私自身を望んでもいない人となんて、セックスしたくない。気がつくのがあまりにも遅い拒否の感情が、私を鬱屈させていく。友達からの誘いの電話にも出ず、会社の往復以外は部屋に閉じ篭る私を、両親がおかしいと思う程度に。


「真弓はずいぶん疲れてるみたいね。仕事が辛いなら、もう辞めればいいって、パパも言ってるのよ」

 母の言葉に、噛み付く。

「どんな仕事してるかも知らないのに、そういうこと言わないで!そんなに簡単な仕事はしてない!」

「お勤めに出したのは、失敗だったわね。お料理教室とか英会話とかを習っておけば」

「それよりも重要な勉強、したのよ。外に出たことのないママに、何がわかるって言うの」

「家に入るための勉強も、重要なのよ。何もできなければ、結婚してから苦労するわ」

 社会人としての常識を知らなくても、人生に問題はないと言うのか。可愛いお嫁さんは、相手の希望とやり方を学びさえすれば、他人の生活など知らなくても良いと。

 私は空っぽの人形じゃない。若くて可愛いだけなんて価値観は、もういや。



「クリスマスの約束を、キャンセルさせてください」

 仲人を通さずに、片桐さんに直接断りを入れた。仲人から出た話じゃなくて、片桐さんから直接持ちかけられた話だからだ。

「何か他に、急用が入ったんですか?時間を変更できますよ」

「そうじゃなくて、予定自体を取りやめていただきたいんです」

 片桐さんは、眉根を寄せた。

「意味がわからないな。何かプランに不服?それとも、僕に不服なの?」

 コーヒーの乗ったテーブルを挟んで、片桐さんの不機嫌な顔がある。結婚の話が進んでいる女から、こんなことを言われるなんて予測もしなかったろう。当然のことなのだ。

「私には過ぎたお話だと思います。だけど、気が進まないんです」

「結婚するんだから、当然の手順でしょう?気が進むの進まないのって、子供みたいなことを言われても」

 これは子供みたいな我儘なのだろうか?

「片桐さんは、私を好きだと思ってくれていますか」

 こんなこと、訊く必要なんかない。彼の条件と私の条件が合致していただけの話だと、自分で理解しているのだ。

「好きですよ。申し分の無い縁談でしょう。どうしたんですか、真弓さん、おかしいですね」

 おかしくなんかない。欲しいと思っていない男とベッドを共にできる神経のほうが、現在の私にとっておかしいことだと思う。


「キャンセルさせてください。行きたくないんです」

 片桐さんの顔に、怒りの表情が浮かんだ。

「どういうこと?何が不満なんだ」

「プランにも片桐さん自身にも、不満はありません。ごめんなさい、行きません」

 頭を下げて、席から立った。とても倫理に適わないことをしていて、けれど自分自身がどうしても納得できないのだ。慌てて勘定書きを掴んだ片桐さんが追いつく前に、早足で店を出た。


 片桐さんからの電話に、居留守を使った。何を言って良いかわからないし、私からの話はない。曇りのないエリートのプライドを踏みつけたのだけは確かで、それに詫びるべき言葉は見つからなかった。さっさと破談にすれば良いのに、間に立つ仲人や互いの両親が、修復しようとする。

 叱りつけられたり宥められたりで、ヘトヘトに疲れる日々を過ごす。早目に帰宅すると母から質問攻めにあい、遅くに帰ると父の怒りの表情が待っていた。クリスマスの3日前に、仲人からの連絡を受けた母が、私の部屋をノックする。

「先方は、結婚前の不安定な期間だからって言ってくださってるのよ。せっかくだから、今からお誘いを受けたら」

「行きたくないって言ったのよ!なんで蒸し返すの?」

「真弓のために、あちらも準備して……」

「頼んでない!大体、行くとも言わないうちから用意してたんじゃないの!」

 平行線の言い合いは、母も疲れさせていく。



「破談にして」

「意味がわかって、言ってるのか」

 父の顔は厳しかった。クリスマスを逃げ切った翌日、自分でももうダメだと覚悟を決めた。

「まだ結納は交わしてないから、慰謝料は発生しないでしょ?片桐さんと結婚する気になれません」

 母は薄々諦めていて、それでも一縷の望みを持っていたようだった。

「片桐さんに何か、不満があるの?仲人さんだって、これ以上の縁談はないって言ってくださってるのよ」

 大それたことをしようとしているのだと、自分でも足が震える。そのままでいれば、描いていた理想の生活を手に入れることができるのに、それを捨てようとしているのだ。惜しむ気持ちが湧き上がり、自分の感情は板ばさみになる。身体の脇で手を握り締めて、自分を励ました。

「不満なんて、ない。でも、片桐さんのことが好きじゃないの」


 そんな子供じみたことを主張するなと言ったのは、父のほうだったろうか。

「結婚相手なんて3年も生活すれば、誰でも変わらない。贅沢を言うな」

「そうよ、その後に苦労しなくて済むのよ」

 じゃあ、はじめの3年を、私にどう過ごせと言うのだろう。はじめの何年かは幸せだったと、離婚した専務ですら言っていたじゃないか。私にその幸せを、放棄しろと言うのか。

「好きじゃない人を、大切になんてできない」

「一緒に生活するうちに、情は湧いてくるのよ。先様も可愛いお嬢さんだって気に入ってくれてるのに」

「可愛いしか、価値はないの?片桐さんだって、私のことなんて好きじゃないじゃない!」

 自分の口調が荒くなり、顔が紅潮しているのは、わかっていた。


「小さい会社なら、結婚までの暇潰しにちょうどいいと思ったのに。勤め先を間違ったみたいだな」

 父が冷ややかに言う。

「こんなに我儘を通そうとする娘なんか、恥ずかしくて片桐さんに出せないだろう。断ってしまいなさい」

 でも、と言い募ろうとする母を抑えて、父は立ち上がった。

「煙草を買いに行く。河埜君の会社で、真弓は素直じゃなくなった」

 捨て台詞のような言葉が、刺さる。親と同等な価値観を持っているはずの、素直で世間知らずの娘を嫁に出したかった両親に、反逆者の烙印を押された瞬間だった。



 居場所のない正月だった。結婚するつもりだったから、家族全員が揃う正月は最後だと、友達とスキーの予定も入れず、出かける相手もいない。母方の祖母の家は遠方だし、父方は両親とも鬼籍に入っているので、家族全員で出る予定もない。

 仲人を通さず、片桐さんから一度連絡があった。一度会って、ちゃんと話を聞きたいと言う。仲人さんからの断りは届いている筈だから、これは私的な申し出だ。気が滅入ったが、傷つけた責任は取らねばならない。


 あけましておめでとうございます、と頭を下げた。

「おめでたくもありませんけどね。恥を掻かされた理由くらい、聞かせてもらってもバチは当たらないと思って」

 ごめんなさいと頭を下げた。問われてはっきりできる返事なんて、持っていない。強いて言えば、片桐さんとセックスしたいと思えなかったっていうことだけだ。豊かな生活と引き換えに性を提供するような気分に、耐えられなかったということを、説明することは難しい。

「多分、私と片桐さんの、結婚への心構えが違うんです。私、家のこととか将来のこととか、考えられなくて」

「そんなものは、夫が考えるものでしょう。真弓さんは、のんびりと家の中に居れば」

「それが、イヤなんです」

 片桐さんは、黙って眉を顰めた。

「私、まだ世間知らずで、他の人が普通にできることも頑張らないと追いつかなくて、いろいろ社会の常識とか、勉強しなくちゃならなくて」

「それは、僕の家庭には必要ありません。だからこそ、真弓さんなんです」

 悲鳴が出そうだった。家のことも将来のことも考える必要はなく、夫の望むものばかりを身につけた妻が欲しいなんて。そんな自分を望まれても、少しも嬉しくない。


「平行線、なんですね。無理強いできるものではないので、こちらからも仲人に承諾します。結婚前提でなければ意味のないおつきあいですから、仕方ないですが残念です。僕は真弓さんと家庭を築こうと思ってましたから」

「申し訳ありません」

 引き止めたくなる指先を、必死に押し留めた。私の価値観はこの人と共にはない、この人との幸福は望んでいないのだと、自分に言い聞かせながら、最敬礼する。もう、あとに引くことはできない。

 両親ばかりか、自分への反逆者だ。「良い縁談」なんて、仲人は二度と持ってこないだろう。家の価値も相手との繋がりもないがしろにした娘は、我儘ゆえに迷惑を撒き散らした。そう受け取られても、仕方ない。

 正月のざわめいた街を、俯いて帰った。帰ってから座る場所には、針の筵が敷かれている。

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