この期に及んで、と

 片桐さんのキスに違和感を感じたのは、何故だったのだろう。男の子ともそれなりに遊んできて、セックスも未経験じゃなくて、それなりに心構えはあったのに、何かが違った。片桐さんのリードはスマートだったし、生理的に受け付けないタイプじゃない。にも拘わらず、自分の中で「違う!」と叫んだものがある。

 後から考えれば、何が違ったのかは理解できる。選ぶ側であったことと選ばれる側であることには、隔たりがあるのだ。片桐さんの話から想像する限り、彼には一点の染みもない。有名私立の付属上がりで大学まで卒業し、一流の企業に勤めて、学生時代はサッカーに汗を流し、現在の趣味は映画鑑賞。

「お見合いで結婚相手を探すのは、イヤじゃありませんでしたか」

「合理的に相手を探す手段だと思いますよ。現に、真弓さんと会えたでしょう。女の人も年齢がいっちゃうと、自分の家の管理の仕方に固執しちゃうから、真弓さんみたいな人がいいんです」

 つまり片桐さんの家のやりかたを引き継げて、彼好みの外見であれば、誰でも良いことになるのではないだろうか?彼自身の私生活に私が興味を抱いていないように、私がどんな生活をしているのか、彼にも興味が無いのかも知れない。


 クリスマスの約束が結婚の確約になってしまう恐怖は、じわじわと訪れた。一流のサービスを受ける代償に性を提供することは、卑しい行為じゃないだろうか。キスですら感じる違和感は、多分セックスだともっと強い。回数を重ねたら消えるのかも知れないけれど、消えないどころか深くなっていっても、その時には結婚の話は進んでいそうな気がする。

 いやだ、と強く思う。そうして一生違和感を抱くのも、鈍化して生活に入ってしまうのも、いやだ。


 子供じみた夢だと笑っていたことについて、それが本当に子供じみていたのか、真剣に考えたことはなかった。豊かな生活でなくても、好きな人と一緒に朝ご飯を食べて、行ってらっしゃいと笑顔で手を振ること。帰宅した夫を心から労うこと。片桐さんにそれをしたいなんて、思ったことはない。安定した生活を約束され、一番手のかかる経済の部分に、苦労しなくて済む。お金に苦労して愛を失くしたなんて話は、聞いたことがある。けれどはじめから持っていない愛は、失くしようがない。

 幸福だったのにと言えるのは、幸福な記憶があるからだ。流された先にあるものが幸福だという保証はないのに、目に見える経済とか肩書きとかが、目を曇らせている。

 本当に、なんてことだろう。一生どうやって生活するのかを決めるのに、自分の意思も相手の思惑も、まったく確認していなかった。それについて、片桐さんは何の疑問も抱いていないのかしら。少なくとも私は、今のまま嫁いでしまうことが怖い。それを誰に、どう伝えたら良いんだろう。


「寝てみなくちゃ、わかんないじゃない。とりあえずクリスマスはイイ思いしといて、それから考えればぁ?」

 友人がものすごく簡単につけた結論に、心の中でそうじゃないと呟く。今回は遊ぶための男の子じゃなくて、結婚前提に考えられ、間に人が立っているのだ。意味合いが全然違う。指輪の話こそ出ていなくても、泊りで遊びにいく間柄になるということを親同士が承認することは、つまり順調におつきあいが進んでいるということになるのだ。今時処女で嫁に行く娘はそうそういないだろうが、表立ってのこととなれば「親公認の傷物」だ。

 クリスマスまでは一ヶ月を切った。ぐずぐずしているうちに、私の意思ではどうにもできなくなってしまう。



 遅くなって申し訳ないけど、と専務が夜の七時に書類の清書を持って来る。

「女の子が空になっちゃってるのに、悪いな。時間が大丈夫なら、終わってから何か奢るよ。腹減ったろう」

「ニンジンぶら下げられると、頑張れる性質なんです。美味しいもの食べさせてください」

 ワープロ操作は、もう社内の誰にも負けない。それだけでは技術しか頼られないと知っているから、他の人の電話の内容や、こぼれてくる会議の議題を耳で拾うことを心がける。河合さんのように社歴はないから、情報は耳から入ってくるものが、すべてだ。


「終わりましたー。ここのレイアウトが、ちょっと気に入らないんですけど、どうですか?」

 一時間ほどで終わったものを、専務に見せに行く。

「充分充分。これFAXして、あちらさんのOKが出れば郵送するから、封筒の表書きだけ書いといて」

 FAXを流して電話に頭を下げる専務を横目に、デスクの上を片付けた。今現在、誰も席を立とうとしている人はいない。夕食に連れて行ってくれるというのが本当ならば、もしかしたら私ひとりなのだろうか。

「五十嵐さん、大丈夫だから着替えておいで」

 ロッカールームで着替える時、自分のニットドレスのタグが目に入った。ニューヨークの新進デザイナーの黒を基調にしたデザイン。海の向こうでは確か、キャリアを積んだ女が着ている筈のもの。紅筆でリップラインをなおしティッシュでオフしてから、ロッカーについている小さな鏡で、顔を確認した。ふたりだけで食事なのかな、何を話したら良いのだろう。その感覚は、自覚ができる程度に浮ついたものだった。


 カウンターの割烹料理屋なんて入ったのははじめてで、突き出しの小さな鉢や冷たいお酒の入ったガラスの徳利や切子の猪口の美しさに見蕩れた。専務は時々使っている店のようで、慣れた手つきでメニューを広げる。

「他の方は、いらっしゃらないんですか?」

「まだ何人か残ってたなぁ。まあ、たまにはいいじゃない。五十嵐さんも、一生懸命やってくれてるし」

「ありがとうございます」

「五十嵐部長に帰りが遅いって、叱られてるんじゃない?」

「父の仕事じゃありませんから。学生じゃないんだから、放っておいて欲しいわ」

「娘が可愛くて、仕方ないんでしょう。仲人さんから、結納の打診が……」

 指で引っ掛けた猪口が倒れて、ほんの少し残っていた中身がこぼれた。そんな話は、聞いていない。そもそもプライベートなことを会社の上司に告げて、私が会社でどんな扱いになるのか、父は理解しているのか。


「結婚って、幸せですか?」

 こぼれた酒をおしぼりで拭きながら、専務に訊いてみる。

「現在の俺に、それを訊くか」

 苦笑した専務は、それでもちゃんと答えた。

「結婚したくてしたんだからさ、はじめの何年かは幸せだったさ。子供が生まれたら生まれたで、もの珍しくて楽しいし」

「結婚したいって、どういうことなんでしょう」

 そう口に出したら、自分ではっきりと自覚してしまった。私は片桐さんと結婚したいなんて、これっぽっちも思っていない。もしも望んでいるものがあるとすれば、彼の家の資産力と他人に自慢できる経歴、そして売れ残る前に望まれて嫁ぐ優越感か。そもそも売れ残りって、何を売るんだろう。

「結婚間近の娘がそんなこと言ったら、部長は驚くだろうな」

 冗談にしようとする専務に畳み掛けたのは、誰も理解しようとしてくれない不安を、理解してくれそうだと思ったからだろうか。

「このまま、結婚しちゃっていいんでしょうか?私、あの人のこと好きだと思ってないのに」


「俺が良くないって言うわけに、いかないでしょう。五十嵐さんの人生なんだから、五十嵐さんが考えるものだよ」

 冷酒の徳利を傾ける専務は、それ以上聞いてくれそうもない。入社から「結婚まで」が条件だった私を、専務はどう見ているんだろう。

「河埜不動産って、いい会社でしょう?」

 思い直したように、専務が言う。

「俺はね、社員が辞めちゃっってからも、役に立つことを覚えてもらおうと思ってる。この前のワープロ検定なんて、全員でチャレンジしてくれて、嬉しかったなあ。ウチを辞めても、違う職種で役立てられるじゃない。五十嵐さんだってもう、どこの会社に行っても恥かくこと、ないでしょ?」

 私もそう思う。無駄なことなんて、覚えたりしていない。片桐さんがどんな写真集を好きか研究するより、河合さんみたいに、会社で有用だと言われたい――専務に。


「会社員生活は、いらないって言われてるんです。社会の垢をつけるなって」

 私の声は、ずいぶん低かった。

「私が河埜不動産で学んだことが、無駄な知識だと思ってるような家なんです」

「言葉の綾ってものじゃないの?それとも、そんなに早くお嫁に来て欲しいとか」

 宥めるように肩をぽんぽんと叩く専務の手は、薄いニット越しに暖かくて優しい。その手で、髪に触って欲しい。一生懸命仕事を覚えて褒めて欲しくて、有用だと言われたかった理由は、肩に一瞬触れた手で、明らかになった。

 この期に及んで、と他人に責められるような最悪のタイミングで、私の恋は訪れた。



 自覚してしまった気持ちは、胸の中で膨れ上がっていく。自分の感情に囚われて、夜が長い。いつから専務に惹かれていたのだろう。

 日曜日に会った片桐さんの話は、いつもに増して上の空で聞いていた。12月に入り、街はクリスマス仕様だ。彼が予約した老舗のレストランは、ドレスアップしなくては入ることができない。そのための服装を考えなくてはならないのに、頭に浮かべることもできない。片桐さんのために用意しなくてはならない小さなプレゼントは、何が良いのだろうか。それすら、まだ何も考えられないのだ。

 家の前まで車で送ってもらって、最近の習慣で別れ際に近寄った唇に、瞬間触れたくないと思った。私は片桐さんとキスなんて、したくない。硬くなった私の肩を、片桐さんはどう受け止めただろう。


「クリスマスのホテルがとれなくってぇ」

 友達との長電話の中で、そんな話が出た。

「今の彼とつきあいはじめたのが、秋なんだもん。予約なんか間に合わなかったよー」

 私が片桐さんとお見合いしたのも、秋だ。深く考えたりしなかったのだが、片桐さんの用意したホテルは、友達が言っているホテルよりもハイクラスだ。いつ予約をしたのだろう? 秋より前、なんだろうか。なんだか腑に落ちない気分で電話を切り、それについて考えた。

 私がお見合いで片桐さんと会ったよりも先に、クリスマスの予定を組んでいたと仮定しないと、あのスケジュールは出来上がらない。他の人からキャンセルされて私を誘うほど、プライドのない人だとは考えられない。つまり、はじめから日程ありきなのだ。上手くいったお見合い相手を誘ってクリスマスを過ごすために、あらかじめ用意していた。女の子がそれを喜ぶと思っているから――

 ステロタイプの扱いで、確かに喜んでいたじゃないの。誰と過ごすかよりも、そのシーンの中にいる自分を見たかった。多分、片桐さんも同じだ。相手は私じゃなくても、同じように誘ったのだ。

 おかしいじゃないの。私たちは相手も見ずに結婚しようとしてる。



 出社して、専務の声を背中で聞きながら、仕事する。お茶を頼まれるのが嬉しくて、専務が席を立つ気配を窺う。少しでも綺麗に見えるように、社内で履いているサンダルのヒールの高さを変えた。

「誰か、これ頼める?」

「はい! 私がやります!」

 自分で少し無理目の仕事を引き受け、帰り時間が少しでも遅くなるようにした。僅かな時間でも、専務の傍にいることが大切に思える。それがますます自分を苦しくしていくのに、走り出した感情がエスカレートしていく。こんな風にしていても、片桐さんとの話は進んでしまうのに。


 悶々と考えながら12月の2週目に、会社の忘年会があった。近所の居酒屋の座敷を借りた宴会は、女の子が男性陣に酌をして歩くスタイルで、男女雇用機会均等法の後に徐々に減っていったものだ。中にはセクシュアルハラスメントめいて女の子をからかう男性もいたが、宴会は概ね和やかだ。人事は専務が握っているので、社長は私を「どこかのエライさんの娘」としか認識しておらず、私が酌に行っても、余計な話はない。

「和則が入院した時は、世話かけたね」

「とんでもない。普段お世話になっているのは、私のほうです」

 専務の席の近くに行きたいのに、専務は河合さんと話が弾んでいる。ベテランで女の子のまとめ役をしている河合さんを、専務が大切にするのは当然だし、社歴が長ければ共通の話題もある筈だ。そして最近知ったことだが、私の父の勤め先の系列ディベロッパーで修行をしていた専務と、河合さんの河埜不動産での社歴は同じなのだ。私の知らない時代の専務を、河合さんは知っている。それが身を食む嫉妬となり、私の視線はそちらのほうばかり向く。

 どうしようもないのに。今更片桐さんとの話を、なかったことになんてできないのに。両方の家が乗り気で、仲人を通して結納の話も出ているのだから、他の人を好きになったからと断ることは、もう倫理にもとることのような気がする。


 二次会に向かう道すがらで、専務の横を歩く。

「珍しいね、五十嵐さんが二次会までつきあうのは。五十嵐部長に叱られない?」

「友達と踊りに行くときは、もっと遅くなりますから。不機嫌にはなりますけどね」

「ディスコとか行って、お立ち台?」

「あんな下品なこと、しませんよ」

「下僕の男の子がいるんだろう? アッシー君とかミツグ君とか。そういう子に、結婚するって言った?」

 専務は多分、私をからかって言っているのだ。踊りに行くのに送り迎えしてくれる子は確かにいるけれど、その子たちは、恋人候補でもない。

「言いません。大体、男の子をそんなに自由に使ってません」

「可哀想だな、男は。もうちょっとで仲良くなれると思って、一生懸命使われた挙句に、黙って嫁に行かれちゃう」

「だから、そんな相手はいませんってば」

 からかい口調の専務にムキになって反発するのは、そんな女だと思われたくない一心だ。女の子同士では自慢になる、我儘を聞いてくれる男の子の数が、年上の男からははすっぱで小生意気に見えることを知っていた。


「五十嵐さんがウチで仕事をするのは、ずいぶん短い期間になるなあ」

 並んだまま専務はそう言い、二次会のカラオケの場所を後ろの人に聞く。

「せっかく仕事を覚えて、働きが期待できるのに。ま、はじめっからそういう約束だったから、仕方ないけど」

 私も、そのつもりだったのだ。結婚するまで適当に暇潰しができて、潤沢なお小遣いを手に入れるための手段で就職した。そんな人間を企業の一員に迎え入れ、一人前とは言えないまでも、社会人として扱ってくれた。

「結婚するまでなんて条件がなければ、私は必要な人間になれてますか」

 思わず足を止めて、専務のコートを掴んだ。後ろを歩いていた人が、おっとっとと避けて、私と専務の位置は最後列になった。

「いきなりそんな、真面目に聞かないでよ。どうしたの?」

 こちらに向き直った専務に、重ねて訊ねた。

「私は河埜不動産で、必要だと思ってもらえてますか」

 一瞬逡巡した顔の専務は、その後に破顔した。

「もちろん大切な社員だよ。初っ端の約束を反故できるんなら、是非そうして欲しいね」

 その言葉は上司としてのものだった。彼が私を必要としているのではなく、会社として必要だと言ったのだ。それでも、私を大切な社員だと言ってくれたのだ。身元を保証された適当で安全な相手としてではなく、私自身を。

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