褒められたくて

 最初に感じたのは、強烈な違和感だった。病室で専務と向かい合わせで座っていたのは私だったのに、何故河合さんがあの場所に座っているのだろう。私が座っている筈の場所に、河合さんが座っている、そんな風に思った。そしてそう思った途端に襲ってきたのは、あろうことか強烈な嫉妬だ。

 専務に大切な人材だと言われて、私が座るべき場所に座って、感謝されている女がいる。毎日病室に通って伝言を持って帰って、私を一番励ましてくれている人を、持って行かれてしまう。

 あの時、それを嫉妬だと自覚したのかどうかは定かでない。ただ悔しくて妬ましくて、けれどそれが理不尽だとも理解していて、仕事が一人前でない私が何を言う資格もないのだと、唇を噛み締めただけだ。


 結婚するまでと父から条件がつけられ、縁談が進んでいるのだという情報のある私を、会社が本気で期待するわけなんてない。今のままだと専務の記憶に残るのは、若くて可愛いだけで何もできない女になる。それはいやだ。空っぽな女が空っぽなまま嫁に行ったのだと、そんな風に記憶されるのは、いや。せめて戦力になったと言ってくれた専務が、惜しがってくれてから辞めたい。

 仕事をもっと覚えて、商談の連絡に他人の倍耳を傾けよう。仕事ができる女ぶっているのは可愛くないと父は言ったけれど、そんな風にするつもりはない。そして社会の垢を身につける前にと言った仲人には、今まで通りに接すれば良いのだ。とにかく、専務の記憶を修正しなくてはならない。他の誰でもない、少なくとも専務に認められなければ。

 その考えがどこか偏ったものだとは、自分自身まだ気がつかなかった。



「お見合い相手と上手くいってんの?」

「まあまあってとこかな。いいとこの息子だし、ケチじゃないよ」

「ふうん。その人とセックスするのに抵抗ない? それが分かれ目じゃない?」

 友人との会話で、結婚とはそういうことなのかと、目から鱗が落ちた気がした。新しいマンションやイタリア製の食器と引き換えに性を提供するような、おかしな気持ちになる。セックス自体は未体験でなくとも、片桐さんとそんな雰囲気になったことはない。あくまでも結婚前提で親が期待しているとしても、彼自身が私に期待しているものや、私が彼に期待しているものは何なのだろうと考えたことすらなかったのだ。



「たまには、女の子たちもおいで」

 夕食に行こうという専務の言葉に、みんな一斉に机の上を片付けはじめる。大抵は会社の近所の焼き鳥屋か居酒屋で、専務よりも年齢が下の社員たちだ。専務とは言ってもまだ三十代半ばなのだし、社長の下についているたたき上げの社員から見れば、ただの若造に過ぎない。彼は彼で、いろいろなことと戦っていたのだと思う。

「あれ? 五十嵐さんもいるの? 意外だね」

 声をかけてきた営業さんが、私のコップに瓶ビールを注ぐ。

「煤けた焼き鳥屋なんて、ニオイがつきそうでイヤとか言うのかと思ってた」

「え、ニオイついちゃうんですか?」

「焼き鳥屋で飲んだこと、ないの? 焼肉屋は?」

「最近のところは、無煙ロースターが……」

 何故笑われるのか、ちっともわからない。


「おい、五十嵐さんはまだ、成人式から一年半しか経ってないんだぞ。まして勤めに出てから半年なんだから」

 専務が私の頭に手を置いてから、世間知らずぶりを笑われたのだと自覚した。女の子好みの洒落た店や、男のエスコートつきの我儘の言える店じゃなくて、仕事帰りの社員同士が誘い合うような場所は種類が違うのだ。安価で気安くて、瓶ビールがテーブルの上に何本も並ぶような店は、まだ馴れていない。

「仕事帰りのつきあいってのも勉強しとけば、ダンナの帰りが遅くても、何してるか余計な疑い抱かないんじゃない?」

「ああ、遅くなっただけで浮気浮気って騒ぐ女も、いるみたいですねえ」

 専務と営業さんの話が逸れたのを聞きながら、片桐さんの顔を思い浮かべた。デートのランチはレストランで、コーヒー一杯が私の平日のランチ代の金額相当の彼に、こんな生活はあるのだろうか?いくら資産家の家でも、彼自身の所得は同年代と大差ない筈だ。だから当然、平日は普通に会社員生活を送っている筈で――


 片桐さんの私生活が、まるっきり見えないし想像もできない。後ろにある資産とか、目に見える仕立てのよいスーツの他に、何もないのだろうか?いや、ないわけがない。

 なんてことだろう。私、結婚する当本人に興味がない。良い縁談だからと言われて半分くらいその気になって、でも相手にまったく興味を惹かれてない。こんなことがあって良いのだろうか。そんな相手とセックスすることが、できるんだろうか。

 焼き鳥を箸で外しながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。



 専務と目が合うことが増えたと思ったのは、いつ頃だろう。私が専務の席を振り返ることが増えたのか、専務が私を見ることが増えたのか。拡大し続ける消費に反して事業内容を引き締め始めた河埜不動産は、仕事の量にも拘わらず雇用を抑えだしていた。それに伴って社員ひとりひとりの仕事量は増え、不満を訴えて辞めていく人間がいる。社長や古株の社員は、人事については専務に任せていたから、社内の人間をどう動かすかは、彼の手腕だ。

 何故事業を引き締めることが必要だったのかは、その数年後に知ることになった。つまり、その判断がバブル経済が破綻した後に、河埜不動産を地元の優良企業に押し上げることになるのである。


 片桐さんが車の中で私にキスを求めたのも、その頃だ。お行儀の良いデートを繰り返し、映画に舞台に美術館にと、気取った場所でしか会わない人の私生活は、相変わらず見えないままだった。

「そろそろ、先に進みましょうか」

 そんな風に片桐さんは、私の肩を抱いた。秋が深くなり、友人たちとクリスマスをどこで過ごすかと、話題にしていた時期だ。ステディな関係の彼がいる人は、どんな一流ホテルでどんなディナーにするのか、半年前から決めていた。プレゼントはパリのヴァンドーム広場にある店の腕時計ね、なんてことを贅沢とも思わず、二十代前半の男に要求する。異様な価値観が当然に思えたのは、社会全体が浮かれていたからだ。

「クリスマスに、六本木のイタリアンレストランを予約してあります。泊まるホテルは……」

 海外のVIPも使うホテルは、昨日今日の予約は取れない筈だ。私のためにとは思えなかったが、それによって得られる優越感があるのも、確かだ。

「嬉しいです。楽しみにしています」

 片桐さんと過ごすクリスマスではなく、老舗のイタリアンレストランと一流ホテルに気を惹かれた。そのために提供するのは――



「五十嵐さん、帰りに一杯」

「今日は友達と待ち合わせてるんです」

「ああ、普段よりおしゃれしてるもんな。キャピキャピギャルの集団か」

「今時、キャピキャピなんてしてませんよ。気に入ってるカフェバーがあるんです」

 営業さんとのやりとりに、同僚が加わる。

「結婚を控えてる人が、最後に一遊びしようっていうのよね。家に入ったら、そんなに自由に遊べないもの」

 結局私は、あくまでも結婚までの腰掛扱いなのだ。ワープロ検定も通り、ビジネス用語を使い慣れて、公式に出せる契約文書を一から作ることができるようになっても。

 その時、ばたばたと帰社した専務が何枚かのメモを私に差し出した。

「着替えちゃったところ悪いけど、急ぎでこれ打てないかな」

 私が、と手を出した同僚を、専務が手で制した。

「超特急で、間違いがあると困るんだ。五十嵐さんが一番確実だから」

 驚いた顔で私と専務の顔を見較べる同僚に頭を下げて、それを受け取った。遊びに行くより仕事が重要に見えたのはそれがはじめてで、そんな自分に自分が満足する。30分程度で書類を仕上げた私は、専務の笑顔の感謝が嬉しくて、高揚した気分のまま友達との待ち合わせに遅れたのだった。


「私、やります」

 同僚が専務に頼まれた仕事に、横から手を出した。

「五十嵐さん、さっき松田さんから何か計算頼まれてなかった?」

「急ぎじゃありませんし、大した量じゃないですから。田添さんは今日残業できないって言ってましたよね。私は予定ありませんし」

 微妙な顔で見積書の走り書きを差し出され、自分でも少しおかしいなと思う。松田さんから頼まれた計算は、急ぎじゃないけど時間に余裕があるものでもない。ただ、専務が私以外の人に仕事を渡すのが、ちょっと癪だっただけだ。病院でふたりきりで仕事をしていた親密さが、もう一度欲しかった。私が訪れるのを楽しみだと言い、戦力になっているからと慰めてくれた専務と、もう一度会いたい。事務所の中を見回して、他の人を見るように私を見るのは、物足りない。

「見積書、できました」

「ああ、ありがとう。田添さんに頼んだヤツだよね」

「田添さんが忙しそうなので、貰いました」

 仕事が早くなったと褒められ、専務が私の顔を見てくれるのが嬉しい。作業着の上着だけを羽織った専務は、パジャマを着ている時よりも遠い人に見えるから、目の前にいてもあんな親密感は得られない。

「ここ、ちょっと直してくれる?」

 そう席に呼ばれることがまた嬉しくて、専務の仕事ばかりを引き受けたくなる。


「五十嵐さんの長所は、素直なところだよね」

 何回目かの仕事帰りの焼き鳥屋で、専務が私に向かって言った。

「間違ってるって指摘すると、すぐに方向転換できる柔軟性があるね。頑固じゃない」

 生活に信念がないことを、そうやって言い換えてくれるのは、人を見る目が優しいのだと思う。専務の横に陣取って座ることも、距離感を縮めたいと思うことも、自分にとって不自然なことだとは思わなかった。

 二十代前半の私から見れば、三十代半ばの専務はあくまでも大人であって、プライベートで共通な話題があると思えなかったし、一緒に何かできるものだとも思ってはいなかった。自覚が遅かったのは、多分そんな思い込みから来ているものと、自分の中に頑迷にしがみついている価値観が邪魔していたからだ。

 良い縁談の末に旦那様に可愛がられて、一生懸命にならなくても安定した生活を得ること。それを与えてくれる夫が良い夫であり、その人の価値観に沿って生活するのが一番幸福であると。

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