第7話

 ヘレネーが帰還してきてしばらく時が流れた。このところテュンダレオスの屋敷では笑顔が絶えることがなかった。とりたて、ヘレネーの顔からは一瞬たりとも笑顔が去らないかと思われるくらいだった。その微笑みは、常に生まれたばかりの娘に向けられている。

 娘は、イーピゲネイアと名付けられていた。

 ヘレネーがいつものように娘を抱いて自分の乳房を吸わせていた。この時代、身分の高い女性は育児を乳母に任せることも普通だったが、ヘレネーは頑として譲らなかった。

 急に屋敷が慌ただしくなってきた。さすがに気になり、傍らのアイトラの方を向いた。

「いったいどうしたというのでしょう?」

 アイトラも首をかしげた。彼女はここに囚われて以来、ずっとヘレネーに仕えている。

「見て参ります」

 アイトラは出ていき、しばらくして青ざめた顔で戻ってきた。

「何があったのですか?」

 なかなか口を開かないアイトラをヘレネーは促した。

「タンタロス様が・・・・」

 アイトラの声は震えていた。

「タンタロス様がアルゴス王アガメムノンに殺されました」

「なんですって?」

 同様のあまりうっかり娘を落としそうになった。

「それで、姉さまは? 子供は?」

「お子様も残念ながら…。ですがクリュタイムネストラ様はご無事です」

「では、姉さまがこちらに逃げてきたの?」

 アイトラは首を振った。

「アガメムノンが無理やり連れ去ったそうです」

 ヘレネーはイーピゲネイアを寝台に乗せた。

「しばらくこのを見ていてください」

 そう言って部屋を出て行った。アイトラは孫と一緒に取り残された。

 そう、今アイトラを見ているのは幼いイーピゲネイアだけだ。今に限らず、ヘレネーの希望でアイトラを見張る者はいない。逃げようとすれば逃げられたのかもしれない。しかし、そうする気にはならなかった。

 ヘレネーが気になるのだ。ヘレネーは不思議な、決して外見の美しさではない魅力があった。

 鳥たちが彼女に警戒心を持たないことは、トロイゼンにいた頃から気づいていた。別に餌付けをしたわけでもない。毎朝異なった種類の鳥たちが、まるで順番に歌を聞かせに来たかのように、ヘレネーの部屋の窓辺で囀っていたのは、果たして偶然だろうか?

 時々ふっと自分より年上に見える。肉体的にではなく精神的に。

 近くに寄ってくるどんな生命にも、イーピゲネイアに向けるのと同じくらい優しい笑みを―――たぶん誰よりも優しい笑みを―――浮かべる。

 そうかと思えば、蜘蛛の巣にかかった蝶を冷徹な目でじっと見つめていたりする。

 「ゼウスの娘」、ヘレネーについての、そんな噂が思い出された。彼女は本当に人間ではないのだということが明らかになっても、おそらくすぐに納得してしまうだろう。卵から生まれたというあり得ない噂も、あながち嘘ではないのかもしれないと思えてしまう。そんなヘレネーの神秘的な存在感に、アイトラは魅かれるのだった。好奇心と言ってもいいのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、ヘレネーは戻ってきた。

「やっぱり詳しいことはまだわからないそうです。姉さま大丈夫かしら?」

 その日、二度とヘレネーの笑顔が見られることはなかった。

 翌日にはクリュタイムネストラについてのより詳しい情報がもたらされた。それによると、アガメムノンは彼女を正式な妻としたということだった。そしてさらに三日後、アガメムノンは新しい妻を連れてテュンダレオスの屋敷を訪れた。

 男たち、―――テュンダレオス、カストル、ポリュデウケスは一応丁寧に新たなクリュタイムネストラの夫を迎え入れた。

 ミュケーナイの王アガメムノンについては、噂だけは聞いていたが、会うのは初めてだった。容姿に関して言えば、噂はかなり正確だった。酷薄さと狡猾さがそのまま外見に表れている。クリュタイムネストラのことを想えば、中身は噂とたがえてほしいところだ。そうした思いが自然と表情に、敵意として表れていた。

 手を出すことは論外だった。アガメムノンではなくクリュタイムネストラの背後を守っている屈強な男たち、その意味することは明白だった。

「このような無礼な態度に出たことはご容赦いただきたい。テュンダレオス殿」

 アガメムノンは自らそのことを口にした。

「決してクリュタイムネストラを傷つけるつもりはありません。ただ、誤解を解くまでの時間は十分にいただきたいので」

「何が誤解だというのですかな?」

 テュンダレオスは穏やかな口調を装って尋ねた。

「私はあなたの娘御を手に入れたいがためにタンタロスを殺しました。最初はクリュタイムネストラも混乱しておりましたが、今では我が妻となれたことを喜んでおります。そうだろう? クリュタイムネストラ」

「嘘だ!」

 聞かれた当人が答えるのより早くカストルが叫んだが、妹はすぐに首を振った。

「いいえ、兄様。私はアガメムノン様を愛しております」

 その答えに満足げに頷いて、アガメムノンはテュンダレオスに言った。

「これでお判りいただけましたか?」

 高らかにアガメムノンは笑った。

 カストルは唇を噛んだ。クリュタイムネストラの表情には躊躇いも脅されている者の恐怖も浮かんでいない。とするとさっきの言葉は彼女の本心だろうか? しかし、彼の知っている限りは、あまりにも妹らしくない反応だった。

 テュンダレオスが一歩前に進み出た。一瞬、その場の者が緊張するが、テュンダレオスは害のない印に両手を上げて見せた。

「我が娘の婿を歓迎しよう」

 二人の息子も父親に倣って丁寧に挨拶をした。アガメムノンはそれを傲慢な態度で受け入れた。

 テュンダレオスに従っておくに案内されるアガメムノンに、クリュタイムネストラ

が声をかけた。

「もしよろしければ、私は妹に会いに行きたいのですが」

 アガメムノンの答えにはしばらくの間があった。

「好きにするがいい」

「ありがとうございます」

 クリュタイムネストラは感謝の言葉を述べ、ヘレネーの部屋へ向かった。護衛はアガメムノンを守り、彼女にはついてこなかった。クリュタイムネストラはそれを喜んだ。

 ヘレネーの部屋にいたのは、ヘレネーと揺り籠で眠る娘だけであった。

「姉さま」

ヘレネーはすぐに姉に気づき、駆け寄ってきた。二人は力強く抱き合った。

「元気だった?」

 妹に笑顔を向けながらクリュタイムネストラは言った。

「姉さまこそ。私、心配していたんですよ」

「ありがとう、ヘレネー。でも、私は大丈夫よ」

「いったいどうやってアガメムノンの元から逃げてきたのですか?」

 ヘレネーは完全に勘違いしていた。

「いいえ、逃げてきたわけではないのよ、アガメムノンと、父様に挨拶に来たのよ」

「姉さま・・・?」

 ヘレネーは怪訝そうに言った。ヘレネーには訳がわからなかった。姉はイーピゲネイアが生まれてすぐ、夫であるタンタロスとやはり生まれたばかりの息子を連れてやってきたことがある。その時の家族を見るクリュタイムネストラの表情かおには、あふれんばかりの愛情が浮かんでいた。それなのにこんなにあっさりと心変わりをするなんて、姉らしくない。

「それなら姉様は今、幸せなのですか? アガメムノン様を愛しているのですか?」

「幸福? ある意味ではそうかもしれない。アガメムノンのことは・・・、そう、あなたには行ってもいいわ。私は決してあの男を許さない」

 クリュタイムネストラの眼は怪しい輝きを帯びていた。ヘレネーはそれを見て心底ぞっとした。

「姉さま、いったい・・・?」

「復讐のしがいがあるということよ」

 輝きの正体が今はっきりと分かった。それは殺気だったのだ。ヘレネーはクリュタイムネストラに取りすがった。

「お願い。やめてください。そんな恐ろしいこと」

 突然、そう、まったく突然にクリュタイムネストラの顔に愛情が溢れだした。

「ヘレネー、私のかわいい妹。あなたもいずれわかるわ。本当に恋をしたら。でも、今のあなたでも半分くらいは私の気持ちがわかるのではなくて? イーピゲネイアが突然殺されたとしたら、あなたはどうするの?」

「そんなこと、考えたくもありません」

 ヘレネーは力なく言った。

「そう。でも、あなたが何と言っても私はやり遂げるわ。さあ、イーピゲネイアに会わせて」

 ヘレネーは素直に一歩下がって寝台の横を開けた。クリュタイムネストラは頷き、寝台にかがみこんだ。イーピゲネイアの寝顔をのぞき込んでいる姉を、ヘレネーは不安そうに見つめているしかなかった。

 その夜、ヘレネーは姉の夢を見た。それは不思議なほど鮮明な夢だった。

 クリュタイムネストラはかなり更けて見えた。見慣れぬ部屋で椅子に腰を掛けてぼんやりと外を見つめていた。

 と、侍女らしい娘が部屋に入ってきて来客を告げた。何を言っているのか詳しくはわからなかったが、何かの知らせを持った客のようだ。

 客はすぐに迎え入れられた。現れたのは二人の男でまだ若く、重そうな旅の荷物を背負っていた。

 クリュタイムネストラが何か言ったが、それは何かねぎらいの言葉だったようだ。

 男たちは礼を返し、要件を話し始めた。

 話が終わると、クリュタイムネストラは不思議な表情を見せた。何かから解放されたような、それでいて何か悲しそうな・・・。

 男たちが本性を現したのはその時だ。荷物から剣を取り出し、クリュタイムネストラに駆け寄った。

 青ざめたクリュタイムネストラに、剣を突き付けた男は一言だけ何かを告げた。

 クリュタイムネストラの驚愕、そして速やかな死。

 ヘレネーはそこで目を覚ました。

 ぐっしょりと汗をかいており、鼓動が激しくなっていた。

(今のはただの夢? それとも、これから起こることについて、いずれかの神が知らせてくださったの?)

 正夢だとしたら、なぜクリュタイムネストラが殺されるのだろう? 姉が恨まれているという心当たりなどはない。

 ヘレネーははっとした。一つだけ心当たりがある。姉が昨日の言葉通りアガメムノンに復讐するとしたら・・・。

 イーピゲネイアが身をよじった。本能的にヘレネーは娘を見た。イーピゲネイアは母親の深刻な表情とは裏腹に、幸せそうに寝息を立てていた。それを見てヘレネーは一瞬悩みを忘れ、微かに笑みを浮かべた。

 ふとある考えが頭に浮かんだ。その方法ならあるいは、姉を止められるかもしれない。でも・・・。ヘレネーはすぐにその考えを打ち消した。私にそんなことができるわけがない。

しかし、その考えはいつまでも頭から離れなかった。

 翌朝早く、ヘレネーはアガメムノンとクリュタイムネストラにあてがわれた部屋を訪ねた。腕にはイーピゲネイアが抱かれていた。

「朝早く失礼します。アガメムノン様」

 ヘレネーは最上級の敬意を払いつつ言った。

「よいよい。美しいご婦人ならば、いつでも歓迎しよう。ましてやそれが、愛すべき妻の妹とあれば当然のこと」

 アガメムノンは、近寄ってイーピゲネイアの顔を覗き込んだ。

「ほう、これがそなたの娘か。この年にして将来女神のごとき美しさを誇ることになるのが想像できるな。名だたる英雄、テセウスの子と聞いたが、名はなんと言ったか?」

「イーピゲネイアと申します」

「良い名じゃ」

 挨拶はここまでといった感じでアガメムノンは真顔になった。通常なら、突然訪問するような時間帯ではなかった。

「ところで、今日は何用じゃな?」

 ヘレネーはひとつ小さな深呼吸をした。

「ひとつお願いがあって参りました」

「ふむ、願いとな。そなたはすでに我が義理の妹。できることならなんなりと力になろう」

「有りがとうございます」

 そうは言ったものの、実際に願いをどう切り出そうか、ヘレネーは迷っていた。結局、単刀直入に言った。

「このイーピゲネイアを、私に代わって姉上に育てていただきたいのです」

「なんじゃと?」

「ヘレネー!」

 アガメムノンとクリュタイムネストラは同時に叫んだ。アガメムノンの反応は単に驚きを表していたが、クリュタイムネストラのそれは非難が籠っていた。

「いったいなぜだ?」

 平静を取り戻したアガメムノンが言った。

「理由は二つございます。一つには娘が、わたくしの正式な婚姻の前に生まれた娘であること。私はテセウスに無理やり連れさられて娘を産みました。だからといってイーピゲネイアを愛していないわけではありませんが、娘のためにも、父と母の間でくらさせたいのです。

 もうひとつは姉さまのためです」

「妻の?」

 ヘレネーは頷いた。

「姉さまは実の子を失いました」

 一瞬、アガメムノンの顔が強張った。なにしろ、その子を手にかけたのは他ならぬ彼自身なのだ。ヘレネーはそれに動じずに続けた。

「どんなに今はアガメムノン様を愛しているとしても、我が子を失った悲しみ、そう簡単に癒えるものではありません。殿方にはわからないかもしれませぬが。

 もちろん、イーピゲネイアが代わりになるとは思っていません。ですが、少しでも姉さまの慰めになれば・・・」

「なるほど。そなたの気持ちはわかった」

 アガメムノンは考えた末に言った。確かにアガメムノンとしても、クリュタイムネストラの気が休まればそれに越したことはない。それに、これを受け入れてスパルタ王家との縁をより確固たるものにしておくのも悪くはない。

「確かにそなたの言うことにも一理ある。私に異論はない。クリュタイムネストラ、お前はどう思う?」

 急に問いかけられて、クリュタイムネストラはすぐに返事ができなかった。彼女はヘレネーの意図を図りかねていた。

 ヘレネーは心の底から娘を愛していた。それは態度を見ればわかる。安易に手放すとは考えられない。彼女の言葉が本心からのものだとはとても思えない。

 不意に彼女はヘレネーの意図を悟った。もしクリュタイムネストラがイーピゲネイアに愛情を注いでくれたらひょっとして復讐のことなど忘れてくれるかもしれない、ヘレネーならそう考えたに違いない。

(ヘレネー、あなたの気持ちは嬉しいわ。でも、そうしたら、私のタンタロス様への想いはどうすればいいの?)

 それにもう一つ問題があった。

 アガメムノンが夫を殺し、彼女を捕らえた時、彼女はとっさに夫を憎んでいたふりをした。その時、子供も憎んでいたとは言わなかったが、アガメムノンはそう解釈したかもしれない。それなのにイーピゲネイアを引き取れば、アガメムノンは彼女を疑うのではないだろうか?

「どうした?クリュタイムネストラ」

 アガメムノンに催促されて、クリュタイムネストラは意を決した。

「ヘレネー。ありがとう。イーピゲネイアはきっと立派に育てて見せるわ。アガメムノン様、私は、息子のことは心から愛しておりました。あの子を奪ったことだけはお恨みします」

 クリュタイムネストラはあえてそこまで言った。ここはヘレネーの気持ちを汲んで、復讐のことはいったん忘れようと決めた。イーピゲネイアを育てるなら、アガメムノンにもイーピゲネイアの必要性を認識させる必要がある。アガメムノンが実の娘でもないイーピゲネイアに愛情を注ぐとは思えない。しかし自分のこころをつなぎとめるのに必要だと考えれば、それなりに庇護してくれるだろう。

 クリュタイムネストラがそんな風に考えているとは露とも思わず、アガメムノンはクリュタイムネストラに謝意を示した。

「そうか、すまなかった。だが許してほしい。すべてはお前への愛情のためだ。お前をどうしても手に入れたくてやったことだ」

 勝手なことを、クリュタイムネストラはそう思ったが表に出しはしなかった。

 ヘレネーはイーピゲネイアを姉に差し出した。

「イーピゲネイアを、よろしくお願いします」

 これはヘレネーの心からの想いだった。

「心配しないで、ヘレネー。この子は責任をもって育てるわ」

 クリュタイムネストラはイーピゲネイアを受け取った。

 イーピゲネイアは何も知らずに無邪気な笑い声をあげた。

 ヘレネーは曖昧な挨拶をして、すぐに退出した。もしこのままイーピゲネイアを見ていたら、きっと自分は娘を取り返してしまうだろう。それでは姉を救うことはできなくなる。イーピゲネイアから目を逸らすだけでも、強い意志を必要とした。

 ヘレネーはそのまま自室に駆け込み、イーピゲネイアの揺り籠に手をかけ、声を殺して泣いた。

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トロイアのヘレネ― M.FUKUSHIMA @shubniggurath

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