第6話

 アイトラはいつものように朝食を持って息子の花嫁の部屋へと向かった。息子が彼女を連れてきてから半年以上たつが、彼女を初めて見た時の驚きは今でも覚えている。噂に名高いヘレネーは真にこれほど美しかったのか、そう思った。目の前の娘の美しさに、とても現実のものとは信じられず、目を疑ったものだ。同時に、息子がこれほど素晴らしい妻を手に入れたことが嬉しかった。

 しかし、その息子も今はいない。花嫁とは一晩過ごしただけで、ペイリトオスと共に再びどこかへ旅立った。ヘレネーを厳重に見張るように言い残して。

 ヘレネーはすでに目を覚ましていて、いつも食事をとっているテーブルに座っていた。ヘレネーの美しさは相変わらずだったが、以前の子供っぽさはすでにない。彼女の腹部は隠しようもなく大きくなっており、その状態が自然と彼女を少女から女性にと、身も心も変えていた。

「ヘレネー、朝食を持って来たわ」

 テーブルの上に二人分の朝食を置きながらアイトラは言った。

「ありがとうございます、アイトラ様」

 ヘレネーの口調はそっけなかった。ヘレネーはずっとその調子だった。アイトラが自ら朝食を持ってくるようになったのは、そんな頑なな彼女の心を少しでも溶かそうと思ったからだ。残念ながら彼女の努力は報われていない。

 アイトラはヘレナーと向かい合って座った。

「ねえヘレネー、わたしはあなたを本当の娘と思っているのよ」

 それは心の底から出たことばだった。さすがにヘレネーにもそれは伝わり、表情が微かに緩んだ。

「アイトラ様、あなたは優しいお方です。私もアイトラ様には好意を持っております。

 しかし私は、決してテセウス殿を許しません。もちろんあの方を夫とは認めません。」

 アイトラは言葉に詰まった。彼女自身、息子のやり方に納得したわけではない。しかし、子供も生まれることだし・・・、そう、子供のことがあった。

「でもあなたのおなかにはテセウスの子がいるのよ」

「この子は私の子です。私が育てます!」

 ヘレネーは叫んだ。その剣幕に押され、アイトラはそれ以上何も言えなかった。気まずい雰囲気のまま、その日の朝食は終わった。

 アイトラが食器をもって去ると、ヘレネーは物思いに沈んだ。アイトラの言うことはわからないでもない。怒りを持ち続けるには長すぎる日々がたってしまったのかもしれない。それに、たとえテセウスにさらわれることがなかったとしても、またほかの誰かが結婚を望むだろう。いずれにしろ今の世の中、男性の方に主導権がある。どうせいつかは嫁がなければならないなら、それがテセウスでなぜ悪い。

 しかし、そのテセウスはどこにいうというのだろう。彼女を誘拐する矢いなや旅に出たきりではないか。

 ヘレネーは解決できない悩みを抱えたまま窓の傍に立って外を見た。トロイゼンに連れてこられてから、一度も外に出ることをゆるされなかった。だから見ることのできた景色は、ここから見えるトロイゼンの街だけだった。

 街はまだ静かだった。いつものように賑わうには、あと一時間ほどは必要だろう。その賑わいを当てにして、商人たちは店を開き始めている。

 ふと、ある家の窓に注意を引かれた。その中に見覚えのある顔を見たような気がしたのだ。忘れようにも忘れられない顔、兄の一人カストルの顔だった。しかし改めて見ると誰もいない。ヘレネー自身、さっきの兄の顔が気のせいに過ぎないという考えを否定することができなかった。

(さっきのが本当に兄さまだったらいいのに)

 残念ながら彼女には確かめる術さえなかった。

 一方、ここはヘレネーがカストルの顔を見た窓を持つ部屋である。そこにいたのは果たしてカストルであった。顔をしかめて部屋を行ったり来たりしている。

 やがて、扉が開いてポリュデウケスが現れた。

「兄さん、どうだった?」

 カストルは期待を込めて尋ねた。

「間違いない。ヘレネーはここにいる」

 カストルは歓声を上げた。

「よし、早く助けにいこう!」

 飛び出していこうとするカストルをポリュデウケスが制した。

「まあ、待てよ」

 カストルは振り返った。

「なぜだよ。ヘレネーはいるんだろう? テセウスを殴り倒してでも連れて帰るんだろ?」

「そのテセウスのことなんだが、どうやらかなり前から行方不明らしいんだ」

「なんだって! 本当かい?」

 ポリュデウケスは頷いた。

「それと、ピッテウスも今日は出かけているそうだ。しかし、ヘレネーは兵士に交代で守られている」

「それがどうだっていうんだい? そんな奴らならなおのこと、僕たちの敵じゃない。僕たちがが負けるとでも思っているのか?」

「僕たちはいい。しかしヘレネーがいる。危険は冒さない方が得策だろう。テセウスがいないなら、いい手がある」

「一体なんだい?」

 ポリュデウケスはカストルに何やら耳打ちをした。

「なるほど。それならうまくいくだろう」

 ポリュデウケスは頷いた。

「じゃあさっそく準備を始めよう」

 二人は着替えを始めた。今まで来ていた動きやすいものを脱ぎ、一番上等な服を着て、短剣を懐に忍ばせた。それから日がだいぶ傾くのを待ち、二人は急遽買い入れた馬車でトロイゼンの主、ピッテウスの屋敷へと向かった。

 二人はたまたま屋敷に入ろうとしていた娘に声をかけた。

「あなたはこのお屋敷のかたですか?」

 ポリュデウケスが聞いた。

「はい。私はアイトラ様 ―この屋敷のご主人の娘さんですけど― のお世話をしています」

「おお、ではここがテセウス殿の母上の屋敷なのですね」

 彼の演技はいささかオーバーだった。

「そうです。テセウス様のお知り合いでいらっしゃいますか?」

「はい。テセウス殿から言伝を頼まれたのです。どうかお取次ぎを・・・」

「もちろんですわ。アイトラ様もずっと心配されていたんですよ。少々お待ちください」

 娘は慌てて中に駆け込んだ。それを見送った二人は、互いを見て頷きあった。

 娘はすぐにもどってきた。

「どうぞ、お入りください」

 娘の後に従っていくと、一人の婦人の待つ部屋に案内された。おそらく彼女がアイトラだろう。彼女の髪はすでにほとんど真っ白になっていたが、若いころからの美しさと、年相応の落ち着きで、会うだけで心が休まるような印象を受けた。その印象とは不釣り合いのいかめしい武装した護衛が二人、彼女の後ろに控えていた。

「ようこそいらっしゃいました。私がテセウスの母です」

 二人は丁寧に礼を返した。

「息子からの言伝を頼まれたそうですね?」

「はい」

 ポリュデウケスは言うと、きょろきょろとあたりを見回した。

「あのう、テセウス殿の奥様は? 奥様にも言伝を頼まれたのですが」

「嫁はなるべく動かしたくないのですが・・・」

「と言うと?」

「まもなく子供が生まれるのです」

 二人の客の顔は微かに強張ったが、アイトラはそれを見逃した。ポリュデウケスは動揺を押し殺して話を続けた。

「限度さえ超えなければ運動は親にとっても子供にとってもいいはずです。しかし、ご心配なら我々が奥方様のお部屋へ伺いましょう。テセウス殿から、直接伝えるようにと念を押されているのです」

「そういうことでしたら、ご案内しますわ」

 アイトラが二人を導いた。二人の客が従い、さらにその後ろから護衛がついていく。辿りついた扉のは、もう一組の屈強な男が二人、しっかりと護衛についていた。

「大げさとお思いですか? 少々わけがありまして」

 二人の客が不思議に思うだろうと考え、アイトラはそう言い訳した。

「そうですか・・・」

 護衛の理由は百も承知だったがポリュデウケスはとぼけた。

 部屋に入ると、カストルとポリュデウケスは行動を起こした。カストルはすぐさま扉を閉め、ポリュデウケスは短剣をアイトラに突き付けた。

「いったいこれは・・・」

 恐怖のため、アイトラの顔はみるみる青ざめた。

「声を出すな」

 迫力のこもったポリュデウケスの声にアイトラは息を飲んだ。

 二人の兄弟はここで初めて、部屋の中を見た。ヘレネーは窓の傍にたたずんでこちらを見ていた。その顔には最初当惑しかなかったが、侵入者が兄たちであることに気づくとぱっと喜びが浮かんだ。

「兄さま!」

「ヘレネー」

 再会を喜びあう兄弟を見ながら、アイトラはおのれの運命を悟った。

「二人とも、さあ、逃げるぞ」

 ポリュデウケスが言った。カストルは頷くと、扉を蹴り開け、不意を突かれた兵士をあっという間に昏倒させた。

 4人はそれほど困難もなく屋敷を出ることができた。人質の存在と、兄弟の武勇がそれを可能にさせた。英雄の力がいかんなく発揮されたのだ。

 ポリュデウケスはアイトラに短剣を突き付けたまま、馬車の後ろに乗り込んだ。カストルはヘレネーとともに御者台に乗り、自ら手綱をとった。

 馬車は静かに出発した。ヘレネーの体のことを慮ってのことであった。

 何人かの兵士が弓をもって屋敷から飛び出してきたが、アイトラのために射ることはできず、ただ見送るしかなかった。

 トロイゼンを離れると、暗くなってから馬車は通常の街道から離れた。最初は反対の方に逃げ、そこから大きく遠回りをして、街の反対側に出る計画だ。夜通し馬車を走らせるわけにはいかないが、最初はなるべく街道から離れておきたいところだ。

 しかし、途中でヘレネーが馬車を止めるように頼んだ。

「どうしたんだ? 気分が悪いのか?」

 馬車を止めるとカストルが尋ねた。ヘレネーは馬車の後ろを振り返った。

「ポリュデウケス兄さま、アイトラ様を放してあげて。今ならばまだ、十分にトロイゼンに戻れるわ」

 アイトラの瞳に希望が輝いたが、ポリュデウケスは首を振った。

「なぜ? アイトラ様は私に精いっぱいのことはしてくれたわ。これ以上酷いことはしたくないの」

「返すことはできない。もしここで彼女をトロイゼンに返したら、ピッテウスはすぐにスパルタへ攻めてくるだろう。人質としての彼女が必要なのは、むしろこれからなんだ」

 ヘレネーは何も言い返せないまま、アイトラに向き直った。

「すいません」

 がっくりと肩を落とすアイトラにかける言葉を、ヘレネーは他に見つけることはできなかった。言葉は何の慰めにもならないことも、ヘレネーにはわかっていた。

 気まずい雰囲気を残したまま、馬車は再び出発した。

 数日が経過し、一行はスパルタに辿り着いた。ヘレネーは故郷の空気を思いきり吸い込んだ。

「帰ってこれるなんて思ってもみなかったわ」

「おいおい、俺たちを信じていなかったのか?」

 咎めるようにカストルが言う。

「だって、待つには長い時間が経ったのよ」

「そのことについては謝るよ。俺たちはてっきり、テセウスがお前をアテナイに連れて込んだと思い込んでいたんだ。それでアテナイ周辺を隅から隅まで調べていたんだ」

「そうだったの。大変だったのね。私のためにそんなに苦労させてしまって・・・。ごめんなさい」

「お前が謝ることじゃない。すべてはテセウスが・・・」

 そう言ってカストルはアイトラを睨んだ。それを見てヘレネーは話題を変えることに決めた。

「そうそう、父様や母様、それに姉様は元気なのかしら?」

「もちろんだよ」

「早く会いたいわ」

「父様や母様にはすぐに会えるさ。ただ、クリュタイムネストラには会えないよ」

「なぜ? 姉様、どうかしたの?」

「クリュタイムネストラはタンタロスという男と結婚したんだ。お前が連れられてすぐに出会った。端から見てもお似合いだったよ。タンタロスが結婚を申し込むまでそれほどかからなかった。

 クリュタイムネストラは最初は断ったんだ。お前が心配だと言って。しかし、とうとう説得されて承知したんだ」

 ヘレネーの顔がぱっと輝いた。

「姉さまが結婚! 素晴らしいわ」

「タンタロスとはうまくいってるらしいよ」

 ヘレネーは頷いた。

「もちろんよ。姉様はきっと幸せに違いないわ」

 姉の笑顔が心に浮かんできた。姉の幸せが自分のことのように嬉しかった。

「さあ、我が家に着いたぞ」

 カストルの声でヘレネーは我に返った。目の前にあるのは懐かしい我が家だった。 

 彼女はとうとう帰って来たのだ。

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