第5話

 アルテミス神殿の前はいつもよりにぎやかだった。実際の祭りは夜行われるのだが、まだ明るい今からかがり火や楽器が用意されていた。祭り客を目当てにした露店もすでに準備を始めている。

 今頃、近隣の家々では各々の家の息子や娘たちが祭りの装いを着つけているのだろう。アルテミスが守護するのは子供たち。今日は彼らが主役になる。それはテュンダレオスの屋敷も例外ではなかった。

 テュンダレオスはそれぞれの部屋から着替えを済ませて来た子供たちを見て、傍らの妻を振り返った。

「レダ、わしは今お前に心から感謝したい。よくぞこれほど素晴らしい子供たちを産んでくれた。ポリュデウケスとカストルのたくましさを見るがいい。そしてクリュタイムネストラとヘレネーの美しさを・・・」

「私にとっても子供たちは誇りです」

 レダはそう言って子供たちをひとりひとり抱きしめた。子供たちは皆、それを笑顔で受け入れた。

 他の3人の子供たちは心から祭りを楽しみにしていたが、クリュタイムネストラの心は少し沈んでいた。

 祭りのために装いをこらした結果、自分でも今日はいつもよりきれいだと思った。これなら少しはヘレネーに追いついたかもしれないと・・・。しかし、彼女の後に自分の部屋から出てきたヘレネーはもっと美しくなっていた。自分がいつもの2倍美しくなっていたら、ヘレネーはいつもの4倍、いや、それ以上に美しい。

 ヘレネーが妬ましく、自分がみじめに感じたけれど、彼女はそれを表にはださなかった。こんな気持ちは結局いつものことで慣れっこだったし、表に出せばヘレネーの方が気を使うだろう。姉妹はお互いを深く愛していた。

 テュンダレオスの一家がアルテミス神殿にやってきたときはすでに暗くなっており、かがり火が焚かれていた。娘たちはその周りにたたずんでいたが、踊りはまだ始まっていなかった。この地を支配する王がやってくるのを待って、アルテミスに使える巫女がよく通る声で言った。

「偉大なるアルテミスよ。今よりあなた様に生贄と、若者たちの踊りをささげ、その貴き御名を讃えまする。野獣らを統べる女神よ、願わくばあなた様の僕が我らの家畜を襲うことが無きよう、我らの家畜を守りたまえ。狩猟の女神よ、狩人たちにあなた様の僕を分け与えたまえ。産みの女神よ、娘が母となるのを助けたまえ。そして産まれ来た子らを守りたまえ。

 生贄を捧げよ」

 一頭の立派な角を持った鹿が、長い間使われてきた生贄の祭壇に四肢を縛られたまま乗せられた。二人の巫女がよく研いだ剣を運んできて、祭壇の傍らに立っていた男に差し出した。男はそれを受け、一撃で鹿の命を絶った。こうして生贄が捧げられた。

「若者たちよ!」

 最初の巫女が呼びかけた。

「今日まで無事そなた達を守ってくださった女神に感謝の舞を捧げよ」

 音楽が始まった。楽器は息子たちが奏で、それに娘たちの歌声が加わった。かがり火を取り巻いていた娘たちは舞を舞い始めた。

 クリュタイムネストラのヘレネーは家族に一礼すると踊りの輪に加わった。

 続いて起こることを予想できたものは誰もいなかった。どこからともなく現れた人影が娘たちの輪に突進し、一人の娘を抱え上げ、そのまま走った。

 一瞬誰も、連れ去られようとしている当のヘレネーさえ、なんの反応もできなかった。誘拐はそれほど素早く行われた。

 ヘレネーの悲鳴が上がり、その声で皆、何かが起こったことを理解した。と言っても、周りの娘たちは悲鳴を上げて逃げ去っただけだったし、男たちの方でも後を追うという行動に出られたものはごく僅かだった。

 ヘレネーの二人の兄は後を追った者の中に入っていた。

「ヘレネー」

彼らは視覚から消え去った妹の名を呼んだ。

「兄さま!」

答えからするとまだ遠くには行っていない。だが、安心する暇はなかった。馬のいななきが聞こえ、蹄の音と馬車の音が続いた。

「馬車を用意していやがった」

 叫んだポリュデウケスの声には悔しさが滲んでいた。あたりには使えそうな馬車も馬もない。ほとんどの者はその時点で追跡を断念したが、ヘレネーの兄弟だけはそれでも諦めなかった。神殿から続く道から大通りに出ると馬車の背中を見ることはできたが、それも遠くなっていき、やがては馬車の音さえ聞こえなくなってしまった。荒い息遣いで、とうとう兄弟も足を止めた。

「ヘレネー」

 最後に叫んで、二人はがっくりと膝を落とした。

 一方、ヘレネーは自由になろうと必死にもがいていた。背後からしっかりと抱きすくめられて、腕一本動かせない。

 馬車は別の人間が御している。二人は共にかをに布を巻いて顔を隠していた。

「あなたたちはいったい誰?」

「もういいだろう」

 布越しにくぐもっていたが、聞き覚えのある声がした。二人は布を取った。

「テセウス・・・」

 そう、ヘレネーと馬車の荷台にいるのはテセウスだった。御者台にいるのはペイリトオスだった。相手が顔見知りであることはヘレネーを少し安堵させた。

「これはどういうことなんですか?」

 穏やかに尋ねた。

「あなたが欲しかった。それだけです」

 テセウスは右手でヘレネーの顎をつかんだ。ヘレネーはそれを振り払って言った。

「お断りしたはずです」

「それがどうしたと言うのかね。君はこうして僕の手の内にいる」

 ヘレネーは危険を承知で馬車から飛び降りようとした。テセウスはそれを予想しており、あっさりと彼女を捕らえた。

「話して!」

 そう言ったヘレネーの唇をテセウスの唇が塞いだ。

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