第4話

 翌日、ヘレネーはテュンダレオスに呼び出された。父のところにはテセウスとペイリトオスがいた。

「ヘレネー、昨夜はどうしたのだ? いつの間にか消えてしまいおって」

「少し気分が悪くなったものですから・・・」

 この言葉は真実ではなかったが、彼女は真実だと思い込んでいた。ヘレネーに戻った瞬間に、昨夜のカリュドンでの出来事も、自分がアルテミスであることも忘れていたのだ。彼女はあくまでも人間として生きている。

「それにしても、一言断っても良かったのではないか?」

「宴に水を差すのは心苦しかったのです」

「大層心配したのだぞ」

「申し訳ありません、お父様」

 テュンダレオスは最後に思い切り顔をしかめて見せてから、急に笑顔になった。

「愛しい娘よ」

 そう言ってヘレネーを抱きしめた。

 テュンダレオスは娘を放すと言った。

「昨夜お前がいなくなった後、わしは殿から重大なことを頼まれた。テセウス殿はお前を妻に欲しいそうだ」

「え?」

 ヘレネーは信じられないという顔でテセウスを見た。テセウスは進み出てヘレネーの手を取った。

「あなたの美しさは噂以上でした。一目見ただけで私の心は奪われてしまいました。女神のごときあなたの美しさに見合う夫など、そうはおりますまい。海神ポセイドンの血を引く私はこそがあなたの夫となるのにふさわしい。どうか、我が妻となっていただきたい」

「テセウスが信頼に足る男であることは私が保証します」ペイリトオスが言った。

 ヘレネーは父親の顔を見た。

「どうじゃ? ヘレネー。わしに異存はない。お前の気持ち次第だ」

「あまりに、突然で・・・」

 ヘレネーは混乱していた。年齢も離れているし、テセウスとの結婚など、ほとんど現実として感じられなかった。

「無理もない。しばらく考えてみるがいい」

 ヘレネーはかろうじてお辞儀をして、ふらふらと退出した。部屋の外にはクリュタイムネストラが待っていた。

「ヘレネー。テセウス様のお話、承知したの?」

「いえ、だってあまりに突然で・・・。お父様が少し考えてみろって。でも、どうしたらいいのか・・・」

 クリュタイムネストラは頷いた。

「わかるわ。でも、あなたは今、とても考えられる状態じゃなさそうだわ。いいわ、ちょっといらっしゃい」

 クリュタイムネストラは歩きだした。ヘレネーは黙ってついて行った。

 クリュタイムネストラが妹を連れてきたのは、テュンダレオスの屋敷に近いアルテミス神殿であった。そこには近隣の娘たちが大勢集まっていた。娘たちは二つのグループに分かれており、ひとつのグループは神が人間に与えた最初の楽器、声を使って音楽を奏でていた。もう一つのグループは、その音楽に合わせて輪舞をしていた。その踊りは優雅さと力強さを併せ持ち、アルテミスの前で披露するにふさわしいものであった。

 クリュタイムネストラは楽しそうに笑った。

「忘れてるの? 明日はアルテミス様のお祭りでしょ? みんな明日のために練習しているの。さぁ、私たちも入りましょう」

 そう言って妹の手を引いて踊りの輪に加わった。

 ヘレネーは踊ることが好きだった。大好きな踊りは彼女の心をウキウキさせて、しばしの間テセウスとの結婚話のことを忘れさせてくれた。ようやくそれを思い出した時には、それについて落ち着いて考える余裕ができていた。

 心が決まった時、踊りを続けながら姉が話しかけてきた。

「ヘレネー、どう? 気分は晴れた?」

「ええ。ありがとう。ここに連れてきてくれて」

 ヘレネーの顔には微笑みが戻っていた。

「わたし、決めたわ。テセウス様とは結婚しない。まだ、そんなことは考えられない」

「そう、それがいいかもしれないわね」

 それからしばらくは踊り続けていたが、皆が疲れて踊りの練習は終わった。

 屋敷に帰った二人はテセウスとペイリトオスが出かけようとしているところに行き当たった。

「テセウス様、どちらへ?」

 クリュタイムネストラが訪ねた。

「この近くに住む友人を訪ねようと思いまして。ところでヘレネー殿、お心は決まりましたか?」

 ヘレネーはどう切り出すべきか一瞬悩んだが、とにかく話し始めた。

「テセウス様、申し訳ありません。今はまだお話をお受けする気はありません。私はまだ乙女でいたいのです」

「そうですか」

 沈んだ表情でテセウスは言った。

「それでは仕方がありません。もう我々がここにお邪魔する必要もないでしょう。我々は友人を訪ねたらそのままアテナイへ帰ります。お父上や兄上にはお二人の方からご挨拶をしておいてください。」

「わかりました」

 テセウスは思ったよりあっさりと引き下がり、ヘレネーはほっと胸をなでおろした。屋敷に入ろうとすると、今度は兄たちに出くわした。

「ヘレネー探してたんだ」

 ポリュデウケスが言った。

「テセウスに結婚を申し込まれたんだって?」

「ええ。お兄様はご存じなかったの? てっきりテセウス様が先にお話ししてたんだと思っていたんですが」

「僕たちも今朝聞かされたんだ。それで、どうするつもりだ?」

「今、ヘレネーがお断りしたところなんです」

 クリュタイムネストラがヘレネーに代わって言った。

「そいつは良かった」

「え?」

 ヘレネーは聞き返した。

「僕たちも反対でね。お前が奴のところへ行くのは。友人として、あるいは英雄としてならいい男だけれど、自分の妹をやりたいような男じゃない。それで、テセウスはなんて言った?」

「何も。ただ、それならばアテナイへ帰ると。兄さま達には挨拶して欲しいって」

「そんな馬鹿な!」

 カストルが叫んだ。

「馬鹿なってどういうこと?」

「なんでもないよ」

 カストルが答える前にポリュデウケスが言った。カストルは何か言いたそうに兄を見たが、何も言わなかった。

「それより、父上にテセウスのことを伝えてくれないか?」

「え、ええ。わかったわ」

 兄の態度をいぶかしく思いながらも、姉妹はその場を去った。

「なぜだい?」

 二人の姿が消えたのを見届けて、カストルがポリュデウケスに尋ねた。

「何が?」

「僕が答えるのを止めただろう? そのことさ」

「あの二人に余計な心配祖させた方がよかったのか?」

 その答えにカストルは溜め息をついた。

「いいや、やっぱりあれでよかったんだろうな。テセウスはそんなにあっさり引き下がるような奴じゃないなんていうことは、言わない方がいい。」

「そうだろう。これからはヘレネーに気を付けてやらないと。」

 カストルは頷いた。そして、二人の考えは正しかった。

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