第3話
暖かな春の日差しを浴びて、二人の少女が駆けていた。どうやら前を行く少女がもう一人の少女の手を引っ張っているようだ。
「まだなの?」
手を引かれている少女が言った。少し息を弾ませ、不機嫌な顔をしている。まだ幼さが残っているが、なかなか美しい娘である。茶色がかった髪は念入りに編み上げられており、上品なドレスをまとっているが、今や髪型は崩れ始め、まとわりつくドレスの裾が彼女を転ばせようとしていた。
「もうすぐよ。姉さま」
姉さまとは言っているが、むしろ彼女の方が年長にみえる。彼女は姉よりもさらに美しかった。もちろん姉妹のことゆえ、顔立ちはどことなく似ていなくもない。しかし、姉があくまでも人間の域を出ない美しさであるのに対して、神々に見まごうばかりの美しさである。姉と違って純粋な黄金の髪には手の入ったふうもなく、長い裾も彼女の脚の動きを妨げるに至っていなかった。
姉娘は妹の手を振りほどいた。
「いったいどこへ連れて行くのよ」
「もう少し。ほら、あそこに丘が見えるでしょ? 私の見つけたお花畑はそのすぐ向こうにあるの」
「じゃあ本当にもう少しね。それなら行くわ。でも、走るのは嫌よ」
妹は頷いた。姉娘が自分の髪を直してから、二人は歩いて丘を越えた。
「なんて素敵なんでしょう」
姉娘は思わず声を上げた。二人の前には広々とした花園が広がっていた。赤、青、白、色とりどりの花が咲き乱れるそこには、人間が入った気配を微塵も感じなかった。
「ここなら好きなだけお花を集められるでしょう?」
「そうね。文句なしだわ」
「でもやっぱり、あまり採り過ぎても女神様は喜ばれないと思うわ」
「同感だわ。両方の手いっぱいに採ることにしましょう。綺麗な花を選ぶのよ」
「ええ」
二人はしばらく花を集めることに専念した。二人はスパルタの王テュンダレオスとレダの娘、クリュタイムネストラとヘレネーであった。やがて口を開いたのは姉の方が先であった。
「ヘレネー、もう十分じゃない?」
「そうね、姉さま。それでは戻りましょう」
二人は我が家へ向かって歩き出した。最初二人の話しは弾んだが、だんだんとヘレネーの口数が少なくなってきた。いつしか表情も暗く沈んでいた。クリュタイムネストラは心配になった。
「どうしたの、ヘレネー」
「なんでもないわ。少し疲れただけ」
「あなたが疲れたですって? それなら私はもうとっくに死んでるわ。何を考え込んでいるのか、正直におっしゃい」
「兄さまたち、大丈夫かしら」
囁くようにヘレネーは言った。
「だからこの花をアテーナー様に捧げて兄様たちの無事を祈るんじゃない」
クリュタイムネストラは腹立たし気に言った。
「そうね」
ヘレネーの声には少し力が戻っていた。
「納得したのなら、もっと元気を出して」
ヘレネーは頷いた。
屋敷が見えた時、姉妹は当の兄たちの姿を同時に見出した。彼らの隣には見知らぬ二人の男たちが共にあったが、姉妹は彼らに気づきもせずに兄たちに駆け寄った。
「兄様」
二組の腕が二人の娘を温かく受け入れた。
「元気だったかい?」
ヘレネーを抱いたポリュデウケスが言った。
「もちろん。兄様こそよくご無事で・・・」
嬉しさのあまりヘレネーの眼に涙が込み上げてくる。
カストルの方がふと妹たちの持つ花束に気が付いた。
「その花は?」
「私たち、アテーナー様にこれを捧げて、兄様たちの無事をお願いしようとしていたの」
クリュタイムネストラが言った。
「でも、無駄になっちゃったみたいね」
「そんなことはないさ」
カストルはクリュタイムネストラの花を取った。
「これは僕たちが無事戻ったお礼として女神様に捧げればいい。実際にアテーナー様のおかげで――もちろん他の神々のご加護もあったけど――無事に帰ることができたのだから。
そうそう、旅先で出会った新しい友人たちを紹介しないと」
娘たちは初めて兄たちの傍らの男たちを見た。二人はすでに中年と言ってよかったが、日に焼けた逞しい体は年齢を感じさせなかった。顔立ちは整っていたが、どことなく粗暴な雰囲気を漂わせていた。
「こちらはアテナイの王テセウスとその親友のペイリトオス。二人とも名前くらいは聞いているだろう」
二人は黙って頷く。カストルはテーセウス達の方に向き直って妹たちを紹介した。
「これが僕たちの妹たちだ。と言っても生まれた日は僕たちと同じだけど・・・。こっちがクリュタイムネストラ、こっちがヘレネーだ」
姉妹は優雅に礼をした。テセウスとペイリトオスは礼儀正しく礼を返した。
「お二人の噂はアテナイにも届いております」
テセウスは言った。
「しかし、噂は真実ではない。お二人とも噂などより遥かに美しい」
「お上手ですこと」
クリュタイムネストラは笑いながら言った。
「でも、アテナイに届いている噂はヘレネーについてだけではないですか?」
「姉さま・・・」
ヘレネーはショックを受けたようだ。
「いいのよ、ヘレネー。自分でもよく分かっているのだから」
実際、彼女がヘレネーに嫉妬を覚えることはしょっちゅうだった。ヘレネーのことは大好きだったが、それでもやはり辛い思いをすることに変わりはない。せめてもう少しだけでもヘレネーと似ていたら・・・。
「そうだ、早く父上にも挨拶しないと」
気まずくなりかけた雰囲気を破ろうと、陽気な声でカストルが言った。彼は花束を妹に返すと、先に立って屋敷の中に入っていった。
その夜は二人の皇子の無事な帰還を祝して、盛大な宴が開かれた。一族のものが集まり、アテナイから来た友人たちも快く招かれた。酒も食事もふんだんに振る舞われた。
人々に酒が十分に入り、宴が盛り上がってくると、客たちは数々の冒険の旅から帰ってきた4人の男たちに武勇伝を要求した。
立ち上がったのは話し好きなカストルだった。
「では僕が代表して話すことにしよう。ことの起こりは一月前のことだ。
一月前カリュドンに不意に大猪が現れた。そいつはカリュドンの畑という畑を荒らしまくった。カリュドンの王オイネウスは祭りの時に女神アルテミスにだけ生贄を忘れたことを思い出した。やむを得ずオイネウスは猪を退治してくれる英雄を求める御触れを出した。オイネウスの呼びかけに多くの英雄が集まった。我々兄弟やここにいるテセウス、ペイリトオス――すでにアルゴ号の航海で面識があったのだが――お二方もその中にいた。
英雄たちは皆強かったが、女神アルテミスに守られた猪には傷1つ付けられなかった。そうした中、あの娘がやってきた」
「あの娘?」
誰かが尋ねた。
「名をアタランテという。彼女もアルゴ号で共に戦った仲間だ。彼女に初めて会ったときは、本当は女神アルテミスその人なのではないかと疑ったものだ。だからカリュドンで再会したときには、とても頼もしく感じたよ。しかし多くの英雄は狩りに女を加えることに反対した。その時メレアグロスが彼らを説得し、彼女も狩りの仲間に加わることができた。
実際、彼女の働きは素晴らしいものだった。猪に負けないくらい速く走り、立て続けに矢を射た。そいつは全て命中し、猪は初めて傷を受けた。出血で弱ったところを、メレアグロスが槍で止めを刺した」
「おいおい、それではお前たちは何をしたのだ?」
呆れたようにテュンダレオスは言った。
「残念ながら何も・・・」
おどけたようにカストルが言った。
「あの女狩人には完全に負けましたよ」
他の三人も賛成した。4人の英雄を慰める声と、アタランテを讃える声が上がった。
そうした喧騒の中、ヘレネーがそっと場を抜け出したことに気づいた者は誰もいなかった。
自分がなぜ宴の行われている場から抜け出したのか、ヘレネー自身にもわからなかった。どこか心の奥から込み上げてくる感情が彼女を衝き動かしていた。人のいないところにやってくるとその感情は一層強まった。それがピークに達した時、彼女はアルテミスとしての記憶と力を取り戻していた。アルテミスは鳥に姿を変え、闇夜もものともせずに飛んだ。
カリュドンの野に降り立った女神は虚空に向かって声をかけた。人間の眼であればそこは確かに虚空であったが、彼女の眼にははっきりと猪の魂が見えていた。
「やはりまだここにいたのね。なぜ
悔しいんです。猪の魂は言った。この辺りは私が治めておりました。それを人間が木を倒し、土地を耕して畑にしたのです。あまつさえ、その時に巣穴に残っていた私の子供たちも殺されました。私は畑の作物を食べましたが、それがだめならば私は何を食べたらいいのでしょう? 私はこの一帯の土地神であるとはいえ、普通に食べなければ生きてはいけません。
カリュドンに現れた猪はオイネウスが生贄を忘れたこととはなんの関係もなかった。人間のエゴで土地神が殺されただけであった。
「
アルテミスは微笑んで見せたが、目には悲しみが宿っていた。猪の魂は地上から消え去った。アルテミスはしばらくそのまま佇んでいた。
(このままでは人間のために犠牲になる生命が増える。私は、人間だけの女神ではない)
カリュドンの野から一羽の鳥が飛び立った。後には荒々しい風だけが残されていた。
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