第2話
逞しく鍛え上げられた体を持つ男が、そわそわと落ち着きなく行ったり来たりしていた。彼の名をペーレウスという。一応一国の領主であるのだが、今の彼の態度にはそんな様子は欠片もない。それを見ていた一人の美女が彼を優しくたしなめた。
「少しは落ち着きなさい。ペーレウス」
ペーレウスは困惑した顔で彼女を見た。
「しかし、これから多くの神々がここにやってくるのだよ。あなたにとってはいつものことかもしれないが、私には初めての経験なのだ」
「何も心配することはありませんよ。準備は私の姉妹達が整えてくれます」
ペーレウスはかいがいしく料理や酒の用意をしている美しい娘たちを見た。彼女たちは人間ではない。海の老人ネーレウスの娘たち、ネーレイデスである。ネーレイデスは50人の大所帯であり、彼女たちの最初の仕事はペーリオン山中に宴の会場を用意することだった。ほとんどの神々をもてなすために用意されたテーブルに載っているのはネクタルとアンブロシアだ。その外見も鼻をくすぐる香りも、ペーレウスが今まで出会った料理を遥かにしのぐものであった。
テティスはそれらを満足そうに見つめ、続けた。
「あなたは何もする必要はないわ。ただ、神々を怒らせないようにしてね」
「それが一番心配なんだよ」
祝宴の用意が終わるのとほとんど同時に、空から別の娘が舞い降りてきた。
「今来た翼ある女神はどなたですか」
ペーレウスは小声で妻に尋ねた。
「
テティスも小声で答えた。
イーリスはネーレイデスの一人に何か話しかけた後、二人の方にやって来て一礼した。
「間もなく神々が到着します」
「先触れご苦労様。イーリス。どうぞ休んでください」
イーリスは頷いて部屋の隅に下がった。テティスは夫に向き直ると少し厳しい声で言った。
「心の準備をしてください」
「さっきからそうしようとして緊張しているんだが・・・」
ペーレウスは不貞腐れたようにそう言ったものの、顔は真剣だった。
イーリスの言葉通り、それからすぐに神々が到着した。
他の神々を先導して最初に現れたのはヘルメスだった。
次にゼウスとヘーラー、神々の頂点に立つ夫婦が続いた。彼らはテティスとペーレウスの結婚において、言わば仲人を務める。
テティスの父母、海の老人ネーレウスとその妻ドリスが続いた。彼らは、花嫁の両親の当然の権利として、神々の行列のこの位置を占めたのだ。
次はゼウスの兄とその妻たちであった。ポセイドーン、アンピトリーテーの夫婦が先で、その後がハーデース、ペルセポネーだ。この順序についてはポセイドーンとハーデースの間でひと悶着があったのだが、ゼウスが仲介して、アンピトリテーがテティスの姉妹であることを理由に、こういう順序に落ち着いた次第である。それでも不満が残るのか、ハーデースの顔はいささか不機嫌だった。
竈の女神ヘスティアーと豊穣の女神デーメーテールが続いた。二人は新たな夫婦に穏やかで優しい笑みを送った。
レートーは二人の子供たち、アルテミスとアポロンを従えてきた。それからはゼウスの子らが続く。アテーナーとアレースが並び、その後からヘーパイストスが妻のアプロディーテと息子のエロースを従えてやってきた。へーベーとエイレイテュイアがその次で、以下様々な神が後から後からやってきた。
しかし、主な神々の顔を知っている者なら、やってきた神々の中にただ一人、不和の女神エリスの姿がないことに気づいたろう。それは、結婚の祝いに、不和を持ち込むわけにはいかないという配慮からだ。
かつてこれほど多くの神々が一度に人間のもとに姿を現したことはなかった。ペーレウスの胸には名誉な気持ちと不安が同時にやってきた。
これならば変身を繰り返すテティスを捕まえていたときの方がよっぽど気が楽だった。彼は無我夢中で彼女にしがみつき、最後には彼女も結婚を承諾したのだった。その時はそもそも彼女が女神であることを考える余裕すらなかった。
テティスに小突かれてペーレウスは我に返った。いつの間にか、ゼウスが祝福の言葉を述べようとしていた。
「テティスとペーレウスに神々よりの心からの祝福を贈る。
ペーレウスよ、これほど多くの神々に祝福される結婚をした人間はかつてなかった。
テティスよ、そなたはこの結婚によって一層人間たちからの敬意を受けるであろう。
そして二人にこれだけは約束をしよう。二人の間には偉大な息子が、世界中に名を轟かす英雄となる息子が生まれるだろう」
最後の部分をほとんどの神々は礼儀正しく聞き流したが、ヘルメスだけは愉快そうに顔をほころばせた。ゼウスとポセイドーンがまさにその偉大な息子、父さえも凌ぐ息子のためにテティスへの求愛を諦め、ペーレウスに押し付けたことは神々の間では周知の事実だ。それを考えると、ゼウスがここで言ったことは皮肉にも聞こえる。しかし、死すべき人間は神々と違って、子供が後を引き継ぐことになる。したがって息子が父を超えることは一般的にはむしろ好ましいことだ。ヘルメスとて、その違いがわからなかったわけではないのだろうが、単に性分から皮肉ととる方が面白いと思ったのだろう。
それから、神々は順に祝福をしていった。最後の一人の祝福が丁度終わったその時、窓から何かが投げ込まれた。それは、宴の席のほぼ中央に落ちた。
「それが私からの贈り物よ」
そういう女の声が外から聞こえてきた。
「誰だ?」
ペーレウスが窓に駆け寄ろうとするとテティスが止めた。
「今のはエリスの声、彼女は呼ばなかったはずなのに・・・」
ペーレウスは妻の顔をじっと見てから、飛び込んできた物に目をやった。それは金色に輝くリンゴで、表面になにやら文字が刻んである。
アポロンがリンゴを手に取り、文字を読み上げた。
「
一瞬、その場は静まり返った。男神たちはただ成り行きを見守っており、女神たちの多くは互いの様子を伺いあった。
やがてヘーラーが一歩前に出た。
「そのリンゴは間違いなく私のもの。ゼウスの妃として女神たちの頂点に立つ私、当然のことながら美しさの面でも私に適う女神はおりますまい」
その言葉を聞いて、甲冑を纏ったアテーナーが目に炎を燃やして一歩前に出た。
「何をおっしゃいます、ヘーラー様。あなたが女神のうちで最も権力を持っていることは認めましょう。しかし、最も美しいのはわたくしです」
次に前に出たのはアプロディーテーであった。
「お二人とも何か勘違いをなさっているようですね」
アプロディーテ―の口調は穏やかだったが、顔は自信に溢れていた。
「美を司る私こそがカリステーの名にふさわしい」
三人の女神は睨み合った。アテーナーとヘーラーは敵意を剥き出しにして。アプロディーテーは表面的には微笑を浮かべながら。
もはや結婚の祝いどころではなかった。一触即発の雰囲気に耐えかね、ヘスティアーがゼウスに向かって言った。
「全能なるゼウスよ、婚姻の祝いの席でこのような争いがあってはなりませぬ。どうかこの場を収めてください」
ゼウスは彼女に頷いて見せ、立ち上がった。全員の眼が彼に注がれた。
「アポロン、リンゴをわしに貸せ」
アポロンは言われたとおりにした。
「ヘーラー、アテーナー、アプロディーテー。とにかくこの場はリンゴのことは忘れてくれ。わしはある男に3人の中で誰が一番美しいか判断させようと思う。すまないがあと10年待ってくれ」
「なぜ10年も待つのですか?」
アテーナーが尋ねた。
「その男はまだ一人前ではない。その男が判断ができるようになるまで待ってくれ」
「他の者に任せた方がよいのではないでしょうか?」
「アテーナー、意識を集中して運命を見るがよい。今やそれは明らかになっている。誰が三人のうちから最も美しい女を選び出す分かるはずだ。誰を選ぶかまでは分からないであろうが」
アテーナーはしばらく遠くを見るような目つきをした。ヘーラーとアプロディーテーもそれに倣った。
「分かりました」
アテーナーは言った。
「トロイアの王子パリス、彼が選ぶのですね」
ゼウスは頷いた。
「さあ、これでこの話は終わりだ。ペーレウス、テティス、騒がせてすまなかった。エリスは呼ばれなかったために腹を立てたのだろう。あいつも許してやって欲しい。
さあ、皆の者、宴を続けよう」
それからは平和に宴は進行し、夜遅くまで続いた。宴が終わると、神々はそれぞれ思い思いの場所へ帰って行った。
アルテミスは、まだ幼いヘレネーの姿に戻るためスパルタへと飛んだ。が、すぐに誰かが追ってきたことに気づいて待ち受けた。
「姉上」
アポロンであった。
「どうしたの? いったい」
「ひとつお聞きしたいことがあったのです」
「何?」
「なぜ姉上は黄金のリンゴの権利を主張されなかったのですか?」
アポロンの顔は真剣だった。アルテミスは弟の顔をマジマジと見たが、急に笑い出した。
「姉上!」
アポロンは咎めるように叫んだ。
「ごめんなさい。あなたがあまりに真剣なものだから、却って可笑しくなったの。
簡単なことよ、アポロン。私には興味がなかっただけ」
「しかし、カリステーは姉上の称号ですよ」
「まあ、そう言われることは悪い気はしないわ。けれど、そんな称号はいくらでも他の女神にあげるわ。」
アポロンはまだ納得できないようだった。
「心配してくれてありがとう」
輝くような笑顔を浮かべてアルテミスは言った。アポロンはその笑顔をやっぱり美しいと思った。まさしくカリステーの名にふさわしく。
「もう行くわね」
アルテミスは飛び去った。アポロンはもう、追わなかった。
スパルタへ着いてアルテミスは、4つの小さな寝台が並んだ部屋に入った。寝台のうち3つには、まだ幼い子供たちが眠っていたが、一つは空だった。
女神は音もたてずに空いている寝台の傍らに立つと、ふっと姿を消した。寝台の中では、いつの間にかもう一人の子供が安らかな寝息を立てていた。
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