第2話②

 そして家の前に来た。


 家は改築する前の、俺が生まれた頃の古いままだった。


 玄関のガラス戸に裸電球の明かりが写っている。


 開くのだろうか?と思いながら俺は玄関に手をかけて横に引いた。


 玄関は開き、その瞬間にこの家に住んでいた俺たちの記憶が、突風のように俺の中に流れ込んできた。


 俺の頭の中を様々なことが駆け巡り、俺はしばらく立ち尽くした。


 ようやくそれが収まって俺は中に入った。


 三和土に靴が並んでいた。


 その中に、女物の靴があるのを見た俺は、ある予感がして、急いで座敷へ上がった。


 その座敷は客が来た時に迎え入れる部屋で、年中火鉢が置いてあった。


 そしてその右手の部屋が居間だった。


 俺は火鉢を横目に見ながら右のガラス戸を開けた。


 そこには、霞がかかったような部屋の中に丸い卓袱台が浮かび、それを囲んで俺の家族全員がいた。


 その中に母がいた。


「あれっ?お母ちゃん、どうしたん?」


「信一、久しぶりやなぁ」


 母は家を出てから俺が小学校1年と2年の運動会の時にこっそり会いに来た。


 しかしそれ以来会うことはなく、48歳で死んだ事を後で知ったのだった。


 そして今見る母は、小学生の時に会いに来た若いままの母だった。


「信一、そんなとこに突っ立ってんと座りぃ」


 親父が言った。


 親父は75歳で死んだ時の親父だった。


 俺は母の隣に座った。


 懐かしい母の香りがした。


 母がいなくなった3歳までの記憶が心の中に湧き上がってきた。


「お母ちゃん…」


 俺は、知らないうちに涙を流していた。


「なんやこの子は。うちの顔じっと見て」


「そやかてお母ちゃん『私はお母ちゃんちゃうで』って言えへんの?いつも『お母ちゃんと呼んだらあかん、お姉ちゃんと呼び』って言うてたやんか」


「今日はかまへんねん。お前が嫌いやったんちゃうで。あの時は訳の分からんうちにこの人に抱かれて、あんたを産まされたんや。17歳やったわ。そやから、子供がいてると思われたなかったんや」


「まぁ、正子も辛かったんや。許したりや信ちゃん」


 母の叔父が言った。


 この人は、最後まで僕と同居していて68歳で亡くなった。


「松本さんの人生も奔放やったなぁ。韓国からこっちに来て小さい頃から育てた女の子を、自分の物にしたんやから」


「なに言うてんねん、その代わり年取るまで働いて孫の顔も見せてもらわんと寂しく死んだやないか」


「松本さんは家庭の事は考えんと稼いだ金を田舎に送ってたやろ?そらしゃあないわ。わしなんか一生女っ気なしやったんやで」


「おっちゃんは若い時から文学にかぶれて、のらりくらり生きてたからやんか」


 母の兄が言った。


 この人は病気で寝た切りになり、小学校3年の時に亡くなった。


 俺を一番可愛く思っていたらしくいつも目を細めて見ながら、おっちゃんには内緒やで、と言ってお小遣いをくれたものだった。


「わしはナマケモノみたいに生きていこ、思てたからな」


 そう言って母の叔父は笑った。


「俺の人生は脇役やった。嫁さんもろたけど、病気になって若い時に死んでしもうたしな。そやけど信ちゃん……」


 母の兄が不思議そうに俺を見ながらそう言い、みんなも俺を見た。


「あぁ、この子はええねん。独りぼっちになって、あんまり寂しそうやったから、私がな……」


 母がそう言って今まで見たことのない笑顔で俺を見ながら言った。


「さぁ、今度は人間に生まれるられるんかなぁ?」


 母の叔父が言った。


「大丈夫やろ?そんなに極悪非道な事はしてへんやろし」


 そう言ったのは母の兄だった。


「それやったらええけどな。前に蝉に生まれた時はせわしなかったでぇ。2年間暗い土の中におってやっと外に出られたと思うたら2週間の寿命や。慌てて嫁さん探してガシガシ鳴きまくったわ」


 みんな一斉に笑った。


 何か訳の分からないことを言ってはいるが、みんな楽しそうに話しているのを見て、俺はとても幸福だった。


 血のつながりのある存在がそばにいる事がこんなにもの安心出来るのだとも思った。


 ふと気が付くとちゃぶ台がいやに高くなっている。


 いや、ちゃぶ台が高くなったのではなく、俺が低くなっていたのだった。


 立ち上がると、座っている母の頭までの背丈になっていた。


 俺はこれ幸いと母の背中におぶさった。


「お母ちゃん……」


「なんやのんこの子は、えらい甘えてきてからに」


 母の髪の匂いがした。


「膝に座ってもいい……?」


「あぁ、ええよ。おいで」


 俺は喜んで母の膝に座った。


 そして体をひねって顔を母の胸に埋めた。


 小さい頃のままの母の匂いがした。


 俺は母の乳房をまさぐった。


 気が付くと、俺の体はどんどん小さくなって赤子になり、短い手で母の乳房を求めていた。


「おっぱいが欲しいんか?」


 母は微笑むと、胸をはだけて乳首を俺の口に含ませた。


「いっぱい飲んで大きくなるんやでぇ」


 母の手に抱かれながら、俺はありったけの力で乳首を吸った。


 喉を、暖かい甘い液体が通っていき、飢えが満たされていった。


「よっぽどお腹が空いてたんやなぁ。よう飲みよるわ」


 親父が言った。


 みんなが、俺を覗き込んでいた。


 俺は嬉しくて、手足をバタバタさせながら思い切り笑った。


「笑うとる。子供は無邪気でええなぁ」


 俺は、お腹がふくれると急に眠くなってきた。


「お腹がふくれたら眠たなったみたいやな」


 誰かが俺の頬を指で突付きながら言った。


「そやけどこの子も子供を3人作って嫁さんの家族と一緒に住んでやれやれと思うてたら、やっぱり一人になりよったなぁ」


「そら、うちの子やからな」


「うむ……わしらは家族縁の薄いもんばっかりの集まりやったからな。そやけど、こいつは何とかしよるんかな?思うて見てたんやけどな」


「まぁ、うちらは次の時に頑張らんとしゃあないけど、この子はまだ生きとるんや。なんとでも出来るわ」


 俺はとても目を開けていられず、薄れていく意識の中でみんなの話し声を聞いていた。


「まぁ、信ちゃん次第やな。ほな、お開きにしょうか」


 母の叔父の話し声を最後に聞いて、俺は意識がなくなった。


 何か頬に冷たいものが当たり俺は目が覚めた。


 明るい光と青い空と、目の前に木の枝があった。


葉っぱから雫がぽとりとまた落ちてきた。


 俺は立ち上がって周りを見回した。


 どうやら、霊園の墓石のない草地で寝ていたようだった。


 夢だったのか……


 しかし、目覚めた今でも一部始終をはっきりと思い出せた。


 また幸せな気持ちが湧き上がってきた。


 俺は歩きながら、この気持ちのまま死ねたら幸せだろうなと思った。

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不思議な夢 柊 潤一 @jyunichi

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