第六話「諦めは現実の妥協なのか?」 5
部屋の隅にいる祈を見る。
サミジーナを失った祈は膝を抱え、両手で耳を塞ぎ、小さくなって震えている。
燐が自身を貫いたあと、バエルが飲み込んでいたデリートされたすべてのグリモアが吐き出され、誰の管理下でもなくなったのか、ふよふよと空間内に浮かんでいた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
彼女は懇願するように、小さく呟きを繰り返すだけだ。
彩花は近づき、祈の頭に手を置く。
「誰も怒っていないよ」
「許して、許して、許して、許して」
グリモアのない彼女は、ただの女の子だった。ただ、世界に絶望して、逃げ道を探していただけの女の子だった。
「私は、私は、道連れが欲しかった」
「うん、わかるよ」
「彩花なら、きっとわかると思ってた」
「わかるよ。ただ、私とあなたはちょっと違っただけ」
祈が顔を上げる。
顔を涙でぐしゃぐしゃにしていた。
「もしも、違う形で出会っていたら、友達になれたかもしれない」
「彩花……」
「あとすべきことはわかりますね」
ミチルが最後の確認を彩花にした。
「うん」
祈に背を向けて、部屋の中央に向けて歩を進める。
「でも、どうしても、しなきゃダメかなあ」
彩花は横に立っていたミチルに目を向けた。ミチルは表情を変えず、頷きもせず、言葉では肯定も否定もしなかった。
それは肯定を意味する。
ニーナと別れるときに彼女が言っていた。
夢から醒めたいなら決断をしろ、と。
「そうだよね」
一歩、倒れている燐に近づく。
彼女が自身を貫いた日傘はすでに消失していた。穴どころか傷もなく、当然血も流れていない。仰向けに眠っているだけのように見えた。
「本当は、嫌だけど、私が選んだんだ」
選択の自由。
この世界で、リアルでもヴァーチャルでももっとも尊ばれる概念だ。
そして、彩花は選択をすることにした。
眠っているのはただの少女だ。
祈や彩花と同じく、どこにでもいる、少女だ。
ただ生きることを願っただけの。
この世界にいることが、生きていることになるのか、彩花にはわからない。
ただこの先の結末は、燐にとっては喜ばしいことではないだろう。
「サミジーナ、剣を」
右手を広げ、一番近くにいたサミジーナに向ける。
その意図を理解したかのように、サミジーナの構えている剣が彩花の手のひらの中へと移る。
「だから、せめて、私が、自分で」
片手で包み込めるほどの大きさだった剣は、彩花の体格に合わせて大きくなり、彼女の身長と同じくらいになった。重さのない剣は、それでもこれからすることを思うとずっしりと感じた。
「ごめんね、私は」
もう聞こえないだろう燐に、彩花が謝る。
「帰らなくちゃ」
剣の重みを乗せて、自身の力も込めて、垂直に下ろす。彩花の手に、仮想の世界で、確かに肉を貫く生々しい感覚がフィードバックされる。
「おやすみなさい」
剣が燐に突き刺さった一瞬、燐の身体が僅かに仰け反った。その姿を彩花はきちんと見ていた。目を逸らさなかった。
ビクビクと動いていた燐の身体は、次第に大人しくなる。
「終わりましたね」
燐に突き刺さった剣は、砂になって崩れるように霧散していった。
「うん、終わった、でも」
「祈の身体はもうだめです、アップロードが完了しているのですから。この世界が残っているとすれば、永遠にここに留まるでしょう。あるいは、研究が進めば」
「そう、ミチルは」
ミチルは肩をすくめて、さあ、というジェスチャーをする。
「私もアップロードが完了しています。それに責任の一端は私にもあるでしょう。私は、無実ではない。それより今はあなたのことを心配してください」
「えっ」
ミチルが天井を指さす。
「崩れます」
部屋の天井がチカチカと明滅を繰り返す。
遠くで地震でも起こったように、ドシンドシンと鳴り、天井の破片が粒になって降り注いでいる。
彩花は天井に注意しながら、一歩一歩ドアへと後ずさりする。ドアと部屋の境目に指が触れた。
「ミチル」
「はい」
二人の間には粒がヴェールを作り、遥かに遠く感じられた。それでも彩花には、ミチルが穏やかな顔をしているのがわかった。
「私たち、友達かな?」
「ええ、そうだと思います。もちろん、定義次第ですが」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「……さようなら」
「さようなら、お元気で。彼女のことは私がいますので、安心してください」
祈はまだ部屋の隅で震えている。
「祈!」
彩花の声に祈はビクついて、顔を上げる。
「さようなら、もっと仲良くなれたらよかった!」
祈の返した表情は見ずに、彩花はノブを回して、ドアを開ける。
廊下に出て、頭の中で自分が歩いた研究所の地図を思い出そうとする。
それからすぐに、この世界が仮想世界だと気づく。
「出口を、お願い」
強く念じて、ぐにゃぐにゃに廊下をねじ曲げて、出口を作り出そうとする。
世界が書き換えられて、目の前に出口ができた。
「うっ」
そのとき、激しい頭痛が彩花を襲った。
そこで視界もブラックアウトした。
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