秋風

梟ノ助

秋風

 雲一つないぬけるような空の下、公園に歓声が響く。日差しは夏の名残を残し、往く夏を押しとどめようとしているように強い。一方で風は冷たく、秋の雰囲気を運び始めている。まだ夏の名残を残す緑の公園には写生する学生たちがいる。中には二人イーゼルを並べ、同じような方向を向き一心不乱にキャンバスに向かう男女学生もいる。公園には学生たちの眩い躍動があった。

 その公園の風景をベンチに座り、寂しげな雰囲気で眩しそうに見つめるやさぐれた男がいる。目の前の風景は彼にとって昔の自分のものだった。かつて彼には思いを寄せた女性がいた。その女性は真夏の太陽のような女だった。そして彼にとってただ一人の太陽だった。しかし、彼はその太陽を見失った。それ以来、彼の時は止まっていた。ずっと彼女への思いを抱え込み、苦しんでいた。

 彼は公園にあふれる躍動に心引かれ、わずかな時間だが苦しさを忘れている自分に気づく。かつて自分が持っていた命の躍動ともいえるものに気づく。それは自分が生きていることを感じさせるものだった。その感覚を端緒にある思いが胸に去来する。それとともにやり残していることが心に浮かぶ。


「……もう立ち止まってちゃいけない……よな?」


 彼がそう呟くと、秋を思わせる涼風が彼のそばを通り抜けた。

 その風に促されるように彼は立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。やり残したことをやり終えるために。


***


 その男と女の出会いは彼らが高校生のときだった。二年生の彼が美術部の部長のときに、一年生だった彼女が入部してきた。明るい性格の彼女は周りを巻き込んで、女子部員の中心になるまでそう時間はかからなかった。もともと女子比率の高い部だったので、女子の中心人物が実質的な部を主導する人物となることは必然だった。彼もその状態を受け入れ、むしろ積極的にサポートするようになる。一緒に企画を立て、その準備をしていく中で親密になっていくのは自然だった。

 ある休みの日、二人で美術館に行き、展示作品について時間が過ぎるのを忘れ何時間も語りあった。文化祭前には、喫茶店で文化祭の展示作品や企画について話し合った。部室でデッサンしているときも、彼女は何かと彼に相談した。彼も快く彼女の相談にのっていた。

 またある夏の日、二人で公園へ写生しに出かけた。同じ方向を向いて、ただ黙々とキャンバスに向かう二人の目の前には夏の日を受け、命が躍動する光あふれる公園の風景が広がる。木漏れ日がきらめくその風景を二人して写しとっていた。しばし二人の時間が流れる。その時間はほんのわずかな時間だったかもしれない。しかし二人にとって、永遠にも近い時間となった。二人の間には言葉はなかった。それでも二人は満足そうだった。

 しばらくして、彼がふと視線を感じた。彼女を見ると彼のほうを見て一心不乱に何かスケッチしている。あまりにも一心不乱にスケッチしているので、何を描いているのかとても気になり、彼がのぞき見ようとする。しかしそれに気づいた彼女は慌てて隠してしまう。しつこく見ようとすると、左手で胸にしっかりと小さなスケッチブックを抱え、右手でアッカンベーして、決して見せようとしなかった。どうしても気になった彼はスケッチブックに手を伸ばす。伸ばした手がスケッチブックを抱える手に触れた瞬間、彼女の顔は耳たぶの先まで一気に真っ赤に染まる。彼もそれにつられたのか、伝染したのか、同じように真っ赤になる。二人はしばらく見つめ合い、どちらともなく笑いあう。彼女の笑顔は屈託のないきらめきだった。彼にとって夏の木漏れ日だった。

 普段から仲の良いところをまわりには見せていたので、傍目からは高校生の恋人同士そのものに見えた。彼は次第に彼女に対し、部長と部員、先輩と後輩の関係以上の秘めた想いをその胸に抱き始める。部室でデッサンをしているときには、描いている静物を見るそぶりで、何気なく彼女の様子をうかがったり、アングルを決めるふりをして彼女が視界に入る位置にさりげなく移動したりした。ときにはまぶしそうに彼女のデッサンする姿を見つめることもあった。また、彼女が他の男子と話しているのを見つけると何となく聞き耳を立て、気にしていないようなそぶりでちらちらと様子をうかがった。

 ただ、彼女は部長と部員以上の関係を考えているような素振りを学内では彼にはあまり見せなかった。少しためらい、学内では少し距離をおきたがっているようにも見えた。彼が怪しげな行動をとっていても意に介さず、デッサンを続け、キャンバスに集中していた。部活の終了時間になり、一緒に下校しようと誘っても、一緒に帰ろうとしないことがしばしばあった。そんな対応に彼も一抹のもどかしさを感じつつも、彼女の気持ちを推し量り、それ以上の関係を求めようとはしなかった。

 彼にとって、彼女の気持ちは触ろうにも触れないあのスケッチブックだった。

 季節は過ぎ、そんな曖昧な関係も彼の卒業とともに終わりを告げる。彼には一抹のもどかしさを残した卒業となった。部室でささやかな卒業パーティーを行って、送り出された彼は何かもどかしく、寂しげだった。結局彼は彼女に自分の思いを告げることなく、高校を後にすることになった。


 彼は大学受験に失敗し、浪人生となった。敗北感と闘いながら、孤独な予備校通いの日々が続いていた。とある梅雨の日、たまたまそのときは梅雨の中休みで夕日がきれいに見えた。予備校帰り、高速道路の高架そばの予備校の校舎を見上げ、窓に反射する日の光をまぶしげに見上げる。一度つかみ損ねた光を手にするために、もう一度その光を自分のものにする決意を示すかのようにその日の光に手を伸ばし、手を握る。

 彼は結果がでた暁にはもう一度彼女に会おうと心に決めた。彼女の思いどうであれ、自分の思いは伝えようと。


 ――しかし悲劇とは常に人の思いもよらぬタイミングで訪れる――


 蒸し暑い梅雨の一日だった。その日はいつもの通り、家の自分の部屋で自習をしていた時、家の電話がいきなり鳴った。昔の部員からだった。

 その内容に彼は呆然とした。


 ――彼女が亡くなった――


 道を歩いていた時に暴走した単車に跳ね飛ばされ、彼女は意識不明に陥った。救急車で病院に運ばれたものの、数日の昏睡状態のあと、そのまま意識を取り戻すことなく逝ったと知らされた。しばらく彼は受話器を握ったまま固まる。彼にとって、その瞬間は悠久の時を経たような感覚になった。彼は呆然としながらも、葬式の日程などを聞いた。それは機械的な作業に近いものだった。

 式は蒼鉛色の空の下、開かれた。彼女の人柄を物語るように多くの参列者が彼女の死を悼む。参列者は時折嗚咽を漏らしながら、次々と最後の別れを済ませ彼女の冥福を祈る。その列のなかに彼もいた。

 彼は棺の中の彼女の顔を見る。頭には包帯をまかれ土気色した彼女の顔があった。太陽のような彼女はもうそこにはいなかった。生気を抜かれた抜け殻のような遺体が棺の中に横たわるだけであった。

 彼はなぜか泣かなかった。泣くほどの感情の高ぶりがなく、ただひたすら現実が彼の意識を通過しているだけのようにも見えた。あまりの衝撃の大きさに感情的に処理することを意識が拒否しているかのように、静かに彼女の遺体を見つめ、そして瞑目するだけだった。

 最後の別れが終わり、彼が帰ろうとすると彼女の両親に呼び止められた。何事だろうと彼が戸惑いながら、次の言葉を待った。少しの静寂の後、彼女の母親が何か取り出し渡そうとする。


「……あ、あの娘、あの娘の気持ち……です。どうぞ持ち帰って……ください」


 震える手で、少し涙声の彼女の母親から渡されたものは小さなスケッチブックだった。どこかで見覚えのあるスケッチブックだった。少し訝しながら受け取り、ゆっくり開く。そこには何の変哲もない公園の景色が描かれていた。

 そこで彼はハッと気づく。描かれていたその公園はいつか二人で写生に行ったあの公園だった。走馬灯のようにあの時景色が頭の中によみがえる。何枚かページをめくると公園で写生している彼が描かれていた。アングルを決め画面に向かって手を伸ばし、鉛筆を動かして真剣な顔で写生している姿があった。描かれた眼差しはまっすぐで純粋な光を宿しているようにも見えた。その後のページには、一心不乱に写生する彼の姿しか描かれていなかった。まるで、あのときの彼のすべて記録し、一挙手一投足を写し取ろうとしていると思うぐらいの枚数を費やしていた。後のほうは周りの景色は一切なく、彼だけが描かれていた。ページをめくる速度は次第に加速し、ついに最後のページとなった。


 最後のページに書かれた添え書きを見て、彼はがく然とする。


『あの夏の日、キミが私のそばにいたあの夏の日、まぶしいキミへ。私だけの太陽』


 スケッチブックの中身を見て、魂が抜かれたように立ち尽くす彼に、彼女の母親が訥々と語りだす。


「あの娘はいつもその絵を見ていました。本当にその絵がお気に入りだったみたいなんです。恥ずかしがって私たちに見せることがなかったんですが……貴方が卒業した日、あの娘泣いていました。そのスケッチブックを抱えて、電気もつけず暗い部屋の隅で。話を聞いたら、あの娘後悔していたみたい。自信がなくて貴方と距離を置いてしまったこと、貴方に自分の気持ちをちゃんと伝えられなかったことに……あの娘が初めて……本当に……好きに……」


 そのあとの母親の言葉は涙声になり聞き取れないほどか細いものになる。母親はそのまま話し続けることができず、父親の胸で嗚咽した。父親も声にこそ出さないが、わずかに両肩が震えていた。そしてやるせない思いを彼にたたきつけるように冷たい目で彼を見ている。

 彼の麻痺した感情が地下深くのマグマ溜まりから溶岩が競り上がるように意識の表面に溢れだす。


「ううっ……があぁ…… !」


 彼は湧き上がる感情を抑えきれず、獣のように言葉にならない悲しみの声をあげる。言葉にならない慟哭はだれにも止めようがなかった。彼はスケッチブックを抱きかかえ、ひざまずいて天を仰ぎ吼える。深く、くぐもった声はまさに彼の魂の底から発せられた声だった。腹の底から絞り出し、むせぶような声で手負いの獣のように泣いている。その声は彼を遠巻きに見守る以外できない参列者の涙をさらに誘う。ひとしきり、ありったけの声を出し切った彼はがっくりと肩を落としうなだれる。その時、梅雨時の陰鬱な雨が降りだし、彼を濡らす。彼は罰を受けるかのようにうなだれ、雨に打たれ続けた。スケッチブックを抱きかかえたまま……。

 

 彼の慟哭は大切な人を失った悲しみなのか、彼女に思いを伝えることができなかった後悔なのか、そのことを知るものは彼一人で、その他には誰もいない。ただ蒼鉛色の梅雨空の下、彼は嗚咽を上げるばかりだった。


***


 ――数年後――


 彼女の墓標に花を手向ける男がいる。やさぐれた雰囲気を醸し出していたが、その目には穏やかな光が宿る。

 彼だ。やり残したことを終えるためにここに来た。墓前に花を手向けたあと、静かに頭を下げる。


「久しぶり。待たせて、ごめん――」


 彼女の墓標を見つめている。それだけでなく、遠い目で彼女との日々も見つめているかのように、目を細める。


「……好きだよ」


 彼は言えなかった思いを告げる。そして――。


「出逢えて良かった……ありがとう」



 人はある特定の時だけを生きることは決してできない。流れ去る時の中で、過去と離別していかなければ、人は生きてはいけない。過去を思い出にして、未来へ進まなければならない。ある特定の時だけを生きる人間がいるとすれば、それは死者に他ならない。生者と死者は共に生きることはできない。生者の時は止まらず、死者の時は止まったままだからからである。

 彼は自分の時間を生きないといけないと決意する。そしてそれは彼女と違う時間を生きること――彼女との離別を選ぶことだった。彼が彼女にできることはそれ以外思いつかなかった。それが彼女への思いの答えだった。彼女を失い、悩み苦しんだ果ての答えだった。


「俺生きるよ、これからずっと。だから、もう同じ時間を生きることはできないんだ。これでさよならだ……」


 そのつぶやきに呼応するように風が吹く。新たな門出を優しく後押しするように。微かな寂寥感と共に。

 その瞬間、彼女は夏の太陽から秋風になった。

 そして、彼は新しい季節へ踏み出した。新たな時間を生きるために。終わる季節への寂寥感と共に。

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秋風 梟ノ助 @F-owl1

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