第3話「上梓仕る」
放課後。
都内の病院。
皐月が真の病室に赴くと、昨日と変わらぬ姿で横になる彼の姿があった。彼の家族の姿はなく、奥の病棟から照り返す未だ強い日差しに、彼の点滴を受ける腕が青白く浮き出ているように見えた。
部活動の最中に意識を失い、搬送、入院。それから目が覚めぬままに三日が経っている。
脳にも、身体にも異常はない。
ただ、深く眠っているだけ。
消耗が激しく、このまま続くようであれば点滴だけでは済まなくなる可能性もあるらしい。あの元気に満ちあふれた顔、肌は、この数日で生気を失いつつあり、異常がないとは思えないのが異常であることの証拠であると言わんばかりの、病人のそれになっている。
「鈴木くん」
今頃、彼の両親は忙しく駆け回っていることだろう。
ここにいないのは彼を軽んじているからではないのだ。
このような状況に於いてもなお、部活仲間という名分を背負ってなければ訪れる勇気がなかった皐月だったが、心の片隅に引っかかるのが、『桜子さんの噂』に他ならない。
誰に聞いたのか。
それ以上に、片思いの男の子に告白をしないままだと奪われてしまうと言う噂。
奪われてしまう、奪っていくという桜子さんとは誰なのか。
いや、何なのであろうか。
もしかしたら不吉なものなのではないだろうかという不安。
真の姿を見ると、このまま桜子さんとやらに命を吸い尽くされてしまうのではないかという、恐ろしくも漠然とした、そんな予感。
「鈴木さん」
と、これは一声かけて入ってきた看護師の声。
ボールペンのインクが染みた胸ポケットにつけられた名札には何と書かれていたか。
看護師が真の体の世話をしに来たのだと察した皐月は、慌てて立ち上がり鞄を手に頭を下げる。
「すみません、失礼します」
「いえいえ」
看護師は、名残惜しげに病室を出る皐月の背を見送りながら、小さく肩をすくめる。
「ごめんなさいね」
看護師。
いや、看護師に見えている彼女は、白髪陶磁器の肌に鮮烈な赤い着物姿の鬼、
「彼女が、片思いをしているが告白できないでいる少女かな?」
と、これは廊下で彼女を見送り、沙華が肩をすくめて苦笑する病室に入ってきた颯の言葉だ。
その手には、あの文庫、『春のあなたに』を持っている。
それをパラパラとめくりながら、読み終わったところまでを思い出しつつ、めくる。
「どうだ、沙華」
「いけませんね。かなりがっちりと囚われています。魂を引きはがすのは相当骨ですね。あちらが満足して手放さない限り、無傷とはいかないでしょうねえ」
沙華の言葉に、颯も彼の枕元の椅子に腰掛けて頷く。
未完の物語、『春のあなたに』の内容はこうだ――。
親友であると思い合っていた女子高生二人が、転校してきたあるひとりの男子生徒に、同時に恋をする。
主人公は彼に片思いし告白できぬまま恋心を隠し通し、親友の桜子に恋の道を譲った少女。
さて、桜子は果たして男子生徒に告白し、恋を成就することが出来るのであろうか。
そして主人公はそれを見て、何を思い何を決断するのか。
――そういう話である様子だった。
ねじ曲がってしまう前は、ここで未完となっていた様子である。
桜子が男子生徒に告白しようとする寸前で、作者の筆は置かれたらしい。
この『親友であると思い合っていた』らしいと読み解いたのは颯だ。含みを持たせた内容と描写で、この後の展開や三人の関係性がどう変わっていくのかが、肝なのだろうと思っていた。
引っ込み思案の主人公。
溌剌とした桜子。
格好いい運動の得意な男子生徒。
彼らがどんな答えを出していくのか、それが楽しみな話だった。
「ん、やはり書き換わってるな。もともとの男子生徒の名前が、彼と同じ名前になっている」
文庫本の随所に、赤黒く障気を放つ文字で、もともとの男子生徒の名前が書き換えられている。『鈴木真』と。
「もともとの男子生徒の名前は判別がつかないな」
「そらそうですよ、もう歪んだ物語ですもの」
何を今さらと、沙華は颯の脛を軽く蹴飛ばす。文句を言いたそうな彼に目配せをすると、ベッドに横たわったままの少年へと目を向けさせる。
「そうだな。まずは、彼の命をつなぎ止めないことには、な」
草臥れたジャケットの内ポケットから、あの万年筆を取り出す。
深紅のキャップを外し、その悪魔の爪を思わせる魔筆『なぐるふぁる』を持ち、ひとつ念を込める。
持ち手から赤黒い靄がずるりと筆に吸い込まれるや、爪の先がピシリと割れ、インクの滲みが見えてくる。
「僕が考える物語はこうだ。――彼は部活の怪我で入院し、二人はそれを心配して、入院から四日目、個別にお見舞いに行くことを決意する」
「妥当じゃないでしょうか」
この一言評価に颯の筆が一瞬、躊躇いを見せる。
「なんだよ、不服なのか?」
「陳腐というかありきたりな展開ですが、素直と言えば素直。その告白で二人の気持ちをはっきりさせた上で対立の構造と問題の着地点をはっきり意識させ印象づける。そこを面白く書くのは作家の腕かと」
血を吐きそうな颯の表情だった。
「なんでそんな編集みたいな言い方するんだよ」
「まだ優しい方じゃないですか」
「そりゃそうだけど」
彼はかつて一緒に仕事をした歴代の編集者の言葉を思い返すと、横たわる真以上に病人のそれになった顔をくしゃりと歪める。
「くそ、見てろよ――」
颯の指先から、どす黒い妄念という名の創作魂が靄となり、新たになぐるふぁるへと吸い込まれていく。
「そう、ここは――そうだ。そしてこの子はこういう反応をする子で。うん、彼はこう言う。うん、うん」
トリップ状態となった颯を見て、沙華は満足そうに頷く。
そのままウンウン唸りながら、三十分は筆に魂を注ぎ込んでいた颯が、フっと顔を上げる。
「よし、やるぞ」
「はい」
沙華は颯から『春のあなたに』を受け取ると、グイと着物の胸元を大きく開く。眩しいほどの白――形の良い胸の上半分が露わになる。
「なぐるふぁるッ!」
そして颯が立ち上がり筆を天に掲げるや、やにわに八畳ほどの病室が闇に覆われる。いや、闇ではない。赤黒い暗雲渦巻く荒涼たる岩場の大地へとその姿を変えたではないか。
その地平線の霞む異空間で、唯一存在する、沙華と颯。
渺々と吹きすさぶ風を聞き、颯はなぐるふぁるを真っ向一文字に振り下ろす。するとどうであろうか。ぶしゅりと吹き出したどす黒いインクが、虚空に奇妙奇天烈な文字列を描き出すではないか。
打ち振るう。続き、二行目。三行目。
衝動の赴くまま、縦に、横に、斜めに、円を描くように、がむしゃらに出鱈目な軌跡で、次々へ呪いの文字列を描き続ける。
「あってたまるか、こんな結末。僕はこんなの認められない。――沙華!」
「はい」
さらに胸元を広げ、両手を広げ、受け入れるように反る彼女のその心臓に狙いを定め、颯はなぐるふぁるを振りかぶる。
「上梓仕る」
ズン!
颯の裂帛の気合いと共に、
白い肌に、鮮血がほとばしる。
しかし、その赤は虚空に立体的に描かれたどす黒い文字列とともに、みるみると、みるみると彼女の中へと吸い込まれていく。耳を覆いたくなるような生々しい、肉を抉り咀嚼するような、湿り気を帯びたおぞましい何か。文末から文頭。その総てが、瞬く間に吸い込み尽くされる。
うっとりとした表情で上気した肌に、うっすらと汗を滲ませながら、沙華は腹の底からわき起こる歓喜の呻きを細く、長く、深く、挙げる。
「……ちょうだい……いたしまして……ございます」
空間が、荒涼たる岩場と空が、彼女を中心に収束、吸収されるように消失していく。
胸元を隠す彼女が『春のあなたに』を手に満足そうに微笑む頃には、そこはもう元の病室に戻っている。
横たわる少年も、何もかも、元のままである。
「歪んだ物語ですが、どうにか本道に戻せそうですわ」
沙華が差し出す『春のあなたに』を受け取りながら、颯は浮かない顔で肩をすくめる。
「他人の原稿を書き直す権利が、僕にあるのかなあ……」
「またそれですか」
沙華の呆れ声を横っ面に浴びながら、『春のあなたに』を確認する。
ページをペラペラとめくると、艶のある黒いインクで書かれた文章が所々に挿入され、歪な構造になった本文が露わになる。
「…………。うん、これでいい」
颯は頷く。
他人の原稿に筆を勝手に入れることは置いておくとして、話の展開は、上手く書き換えられた様子だった。
「いやはや、たいへん美味しゅうございました」
「さいでっか」
そう、この鬼は、文の鬼。書物が鬼となった少女。
彼女はなぐるふぁるで書かれた物語を喰うことで生きながらえ、そしてその力を使い未完の書物の歪んだ物語を校正編集する力を持つのだ。
「二十五代目は文章はともかく、ニクい物語を上手く書くから大好きでございますわ」
「お前に物語を喰われるたびに、僕の創作魂がごっそり持って行かれているのを忘れるなよ? ほんとはお前に喰わせるんじゃなく、出版して貰って多くの読者に届けるためのものなんだからな!?」
涙目である。
「美味しい物語が売れるとは限りませんがねえ。ああ、ともかく飛沫作家として売り込みかけてなお出版の目に留まるような話を書けるようになったら、そのとき考えましょう。ネ」
「ぬぐぐぐぐぐ」
「とにもかくにも、裏虫の坊やが言った通りですわねえ」
「ん? ああ、そうだな」
洟を啜り、颯はふと少年の顔色を伺う。
颯の魂が彼に活力を与えたのか、その表情は少し柔らかいモノになっている。
「やっぱり、登場人物のキャラはよく見ておかないとなあ」
「そうじゃないでしょ」
沙華に蹴りを入れられる。
「痛ぇってば。わかってるよ」
颯は少年と、先ほどの少女を思う。
「上手い着地点を見つけてやらないとなあ」
――簡単な話ですが、単純な話ではなさそうです。
裏虫が言ったその言葉を思い出す。
「事実は小説よりなんとやら、か」
立ち向かい甲斐のある一件の予感に、彼はひとつ口元を引き締める。
「やってやろうじゃないの。なあ」
「ええ」
沙華もそれを受け、にっこりと微笑んだ。
彼女は、やる気になった彼のこの顔が大好きだったのだ。
出来ることをやろうとする、この表情が。
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