第2話「沙華は鬼ですから」
と思った矢先であった。
「ギブアップ。ギブアップ。ああっ」
聞き覚えのある苦しそうな声に目を向けると、首に回された細腕に締め上げられ、海老反りに担がれた裏虫の姿であった。
締め上げる力たるや相当なもので、尚かつ、細身とはいえ男一人を担ぎ上げているのは、鮮やかな赤い着物を着た女性であった。
「ただいま戻りました」
「……おかえり、沙華」
真っ赤な着物の女性、沙華は青白さを通り越して白くなった裏虫の体を本の隙間にドサリと下ろすと、左手に提げた買い物袋をひょいと掲げる。
細身だが、張るところはしっかりと張っている整った体型。髪は透き通るほど白く、肌も淡雪のようで、柳眉の下に光る目は血の赤だった。色素の抜け落ちたかのような、まるで絵から出てきたような少女である。
「ムロアジの良いものが出ていましたので。……おっと」
「あぐぅ……!」
這って逃げようとしていた裏虫が品の良い白い草履に背を踏まれて、絞り出されたような悲鳴を上げる。
「裏虫さまもご一緒いたします?」
「帰ります、帰らせて頂きますぅ……あががが」
颯は「捕まっちゃったのか」と苦笑し、沙華に片手を上げて脚をどけさせる。
「あら。どこから声が聞こえてくるのかと思えば、私の足の下にいらっしゃったの?」
「きっついですなぁ……」
体を起こしかけた裏虫が颯に目配せをする。
しかし、颯は静かに首を振る。
「やっぱりダメ?」と、ヨタヨタと立ち上がりながら裏虫は呻くが、返す颯は肩をすくめる。
「ダメだろうねえ」
「白い肌に白い髪、それに映える赤い瞳に赤い着物。このこまっしゃくれた鬼娘に見つかると、ほんと面倒くさい。ねえ旦那、いっそこの鬼娘とホントに所帯でも持って共に地獄に落ちてやれば、少しはこう、落ち着きってものを学ぶんじゃないですかねえ」
「慎みの方を学んでほしいものだけどな」
顔を突き合わせて苦笑しあう。
「これで五百年は生きてる鬼ってんだから。旦那、悪いことは言いません、この商売畳んで真っ当な道に戻っては?」
「それができりゃあ、苦労はねえなぁ~……とくらあ」
カブキの見栄の如き言い回しと表情で返す颯に、ささやかなゲンコツが振り下ろされる。
鬼の力だ、当然痛い。
声も出ないくらいに。
「旦那、脳みそぶちまけられるよりずいぶんとツツマシイ一発ですよ」
「ほ、ほめてやれっていうのか? 痛ぅ~……」
沙華は拳をひらきながら首を傾げ、眉根を上げる。斜に構えるとさすがに
「バカ言ってないでお茶でも煎れたらどうですの?」
裏虫が苦い顔で返す。
「あっしに言ってるんですかい? ああ、あっしに言ってるんですよね。はいはい、勝手知ったる他人のお店。はいはい。えーと、私の湯飲みはあるんですよね? 通販で買ったマグカップ。送り先ここにしといたヤツ」
「来てるわ、しっかり着払いで来たヤツ」
冷蔵庫のある台所から沙華の声が聞こえてくる。
どうやら高いお茶になりそうだった。
「いくらのやつ買ったの?」
颯の問いに裏虫は天井を見上げながら思い出す。
「たしか、送料込みで千五百円くらいでしたか」
「二千円は取るぞぉ、あいつ」
「さっきの本、二千円で買い取ってくれませんかねえ」
「それは契約に反します。――ふつうに良い本持ってくれば買いますよ」
「このご時世、ゴミ捨て場まわっても見つかりゃしませんよそんなの」
「まあそうだろうなあ」
カウンター裏から上がる裏虫に道を開けながら、彼はもう一度『春のあなたに』を手に、フムと唸る。
「月岡高校って、ハトポッポ公園の先の学校だったよね」
颯が思い出すように紡ぐと、受けたのは裏虫だった。
「駅みっつ先ですねえ。都心から乗ってくるなら地下鉄のが近いですが、ここからなら自転車に乗っていくのが案外楽かもしれませんよ。お金に余裕があるならタクシー。時間の余裕があるならバスだと学校前までいけます。私ァ今日はもう動きたくないですがネ」
「麦茶残しといてね」
冷蔵庫を勝手に開けて冷えた麦茶の瓶を片手に、件のマグカップで手酌飲みしまくる裏虫。相当暑そうなので上着でも脱げば良いのにと思うも、帽子は脱げども、この不健康な黒い男はけっして人前でこのスタイルは崩さない。
「あ~、生き返る。あ、クーラーの温度下げて良いですか?」
沙華と颯のコップと自分のマグカップを盆に載せやってきた裏虫がエアコンのリモコンに手を伸ばすと、横から現れた沙華がそれをヒョイと取り上げる。
「そんな殺生な。姐さん、
「温度はこのまま。いま扇風機軽く回してあげるからガマンなさいな。それに颯さんをダシにしないでくださいます?」
「へいへい」
このどう見ても人間くさくどう考えても人間じゃないのだろうと思わせる裏虫と、五百年ものの妖鬼である沙華の遣り取りを、折り紙付きのただの人間である颯は不思議な気持ちで眺めている。
「ソーメン茹でようか。食べていくでしょ?」
「ご相伴にあずかりましょう。二千円取られるんだ、お腹いっぱいになって帰りたいと思いますですよ」
実は来客用とは他に、この裏虫の食器は箸も茶碗もお椀も揃っている。マグカップと同じ流れで揃っていったものだ。
「仕方がないですね。アジも焼いて上げましょう。少しは栄養付けさせないと、うちらのせいで干上がったと思われても面白くありませんもの。ねえ颯さん」
「うちも余ってるソーメンが片付いて助かるってものです」
「そう言うことでしたら遠慮無く。姐さんの作るそばつゆ、美味いんすよねえ。あれは舌鼓打ちましたわ。夏のそばつゆはしょっぱいくらいが丁度良い」
思い至ることもあってそれに頷きつつ、颯は裏虫から麦茶を注がれるのをじっと見ながら溜息をひとつ。
「生まれが信州なのかって勘ぐったこともあるんですが、沙華のヤツ、あまり過去は話さないんですよねえ」
「過去は自分を縛る枷みたいなものですからね。過去を知らなくとも愛せるのが人間、過去を知っても愛せるのが人間。それでも、今を知って愛してしまうと、知らなかった過去が許せなくなるのも人間――これが多いのをよく知ってるんですよ、現代を生きる魔物ってヤツは」
「今日はいつになく饒舌ですね。……そういえば裏虫さんも過去は話したがりませんよね」
軽いカマだが、裏虫はひょうげて肩をすくめるだけだ。
「うだつのあがらないオッサンの身の上話なんて、それこそ鬼も喰いませんよ」
ぐさりと、颯の胸にも響く言葉だった。
「痛い腹の探り合いはしない。これは人もモノノケも同じでやんすよ」
「違いない」
知られると痛い腹ではなく、思い返すと痛む腹。
「あ~……暑い」
「扇風機つけましょうね」
そこに、ソーメンの入った木箱を片手に沙華が顔を出す。
赤い着物はたすき掛けで袖をまとめられ、白いシックなデザインのエプロンを掛けている。コレが実に可愛く似合っていて、颯の口元も軽く緩む。
彼女は大鍋の湯が沸くまでやや手空きなのか、アジのひらきを火に掛けたあとにこうしてひと息つきにやってきた。
「で、今回のお話なのですが」
「せっかちですねえ。人がせっかく旦那さんと日常の大切さをしみじみと味わう雑談を楽しんでいるというのに、奥さん、野暮はいけません」
「お湯が沸くまでに説明しなさい。でないと、ぶん殴って飯抜きで炎天下に放り出します」
「鬼!」
「
もっともな話だった。
「……じゃあ、かくかくしかじかと話しますかねえ」
裏虫は、事の発端から語る。
それはまるで見てきたかのような語り口の、今回の事件の概要だった。
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