なぐるふぁるの鬼娘

西紀貫之

第1話「さすせそ本舗いうえお屋」




   ***



「ほんとうに好きな人に告白しないままでいると、夢に桜子さんが出てきて、好きな人を取られちゃうんだって」


 昼休みに聞いた噂を思い出し、少女は眠気を誘う古文教師の朗読を聞きながらあくびをかみ殺した。

 少女、斎塚ときづか皐月さつきは涙目ににじむ視界に、同じクラスの鈴木真の姿を夢想する。『ほんとうに好きな人』。長い片思い。中学時代から数えて、もう四年と少しの、片思い。

 転校してきた彼に、当時クラス委員長だった皐月が声をかけたのがきっかけだった。

小学校から繰り上がる形で多くのクラスメイトが顔見知りだったなか、真は独りだった。中学生の女の子が男の子に声をかけるのも気恥ずかしいものがあったが、そんな真が少し寂しそうにしていたのが、なぜか放っておけなかったのだ。

 照れくさそうにしていた真が、彼女の誘いで共に陸上部に入ると、すぐに男友達もできた。一歩引いた彼女は、それからずっと、同じ陸上部の仲間としての付き合い。

 頑張る真の姿を目で追い、三年。

 恋心は続き、彼が進学するこの高校に、同じスポーツ推薦で入学。

 同じ陸上部。

「奇遇だね」と嘘をつき笑いあったあの日から、もう二年。高二の夏が始まろうとしている。


「ほんとうに好きな人に告白しないままでいると、夢に桜子さんが出てきて、好きな人を取られちゃうんだって」


 誰から聞いた噂だっただろう。

 涙でにじむ視界の端に、右斜め前に座る真の背中をとらえつつ、皐月は思い出そうとして……。

 ふと、違和感に気が付いた。

 夏休み前である。明日から、期末の試験だ。クラスメイトは皆着席し、古典の朗読を聞いている。

 では、あの少女は誰だ。真の傍らに立つ、黒いセーラー服の少女は。背中まである髪はどこまでも濡れたカラスの羽のようで、白い肌と、ただただ真っ赤なスカーフ。誰だ。

 その少女が真の肩に手を置き、自分のほうを振り返ったと思った瞬間。


「え?」


 はっと、皐月は目を覚ました。

 居眠りをしていたらしい。涙目をこすりながら、授業に集中しなおす。真の背中は、変わらずそこにあった。

 あの黒いセーラー服の少女の姿もない。

 そう、いなかった。

 あの少女はいなかった。


「ほんとうに好きな人に告白しないままでいると、夢に桜子さんが出てきて、好きな人を取られちゃうんだって」


 もう一度思い出す。

 あの噂、聞いたか。

 思い出せない。

 本当に聞いたのかさえも、白昼夢の見せた記憶の食い違いだろうか。

 夏を前に、しかし、皐月は寒気を覚えた。

 白昼夢。

 ……夢。

 皐月は思いついた答えに、頭を振る。

 そんなはずは、ない。

 そう思っていたのだ。



   ***



 蝉が鳴き始めるのではないかと思われる七月の下旬。真上から降り注ぐきつい陽光が陽炎かげろうを作り出す中、その男、全身真っ黒のコート、スーツ、ネクタイ、スラックス、そして靴。ややオールバックになでつけた髪も黒乗っかっている帽子も黒。浮いているかのような青白い顔の表情は病人のそれであり、荒く息をしながらも、しかし汗ひとつかいている様子はなかった。


「ああ、きっつい……」


 肩掛けのついた大きなカバンを担ぎ直し、その男は商店街をトボリトボリと歩いていく。

 すれ違う人々は、そんな真夏にふさわしくない男が、まるで見えていないかのように気に留める素振りすらない。


「重い。暑い。のど渇いた」


 文句を呟きつつ、彼はトボリトボリと歩く。

 じりじりと焼けるアスファルトの上を靴を引きはがしながら歩いていく様子は、まさに満身創痍。

 そんな彼は、肉屋の角を曲がると生垣の続く脇道に入り、その奥にぽつんと建つ一軒の古本屋の前へとくる。

 看板には『さすせそ本舗いうえお屋古書店』とあり、木造二階建で、一階部分は十坪ほどの寂れた店舗として営業している様子で、申し訳程度の『営業中』という木の看板がかかっている。


「ごめんくださいよぉ~」


 かすれた声で引き戸を開けると、カビ臭い古書の独特の香りが、むわっと襲い掛かってくる。男はしかし、その香りを嗅ぐとホっとしたように一息つき、香りを運んでくるエアコンの涼風に目を細める。


「ああ、生き返るようだ」


 大きい大きい溜息をはさみ、人一人がやっと通れる本の壁の間を覗き込み、奥にあるカウンターへと声をかける。


「ごめんくださいよ~ぅ」


 探るような声に応えたのか、奥のほうから「は~い」という間の抜けかけた声が聞こえてくる。

 本を崩さぬよう鞄を抱えなおしながら男はヒョイヒョイと壁の間を縫い、カウンターの前へとやってくる。すると、カウンターの裏からつながっている奥の和室から、腰を上げてやってくる一人の青年が見えたので、にっかりと笑いつつ手を軽く振る。


「やってますか、ご主人」


 カウンターに腰かけた青年は、男のその言葉に苦笑交じりに首を振る。


「ご主人はやめてくださいよ。……しかし二か月ぶりですか。またうらむしさんがやってくるなんてねえ」


 苦笑の中に、明らかに迷惑そうな響きが込められているが、真っ黒な装いの青白い顔の男――裏虫は気にした様子もない。


「いやあ、私もね、はつりの旦那のところにですね、こうも厄介な物件を~、何度も買い取っていただこうなんて、さすがに心苦しくて。あまり顔を見せるのもな~と思うんですけど、そこはそれ、ほら、私も仕事ですから仕方がない」


 そう言って、鞄の中から一冊の古い本を取り出す。

 年老いた皮膚のようにくすんだベージュの装丁の、表紙カバーのない古びた文庫である。

 その装丁を見るたびに、店主の青年――斫颯はつりはやては気が重くなるが、反面、ほっとしたような、複雑な気持ちになる。


「タイトルは?」


 という颯の言葉に、裏虫は黙って表紙を彼に向け、文庫本をカウンターに置く。


 タイトルは赤黒い文字で『春のあなたに』と書かれている。作者の名前はない。ただ、タイトルのみが赤黒い字で文庫の表紙の真ん中に縦に書かれている。


「『春のあなたに』?」


 手に取ろうとした颯だが、その文庫本に素早く手を置くのは裏虫である。


「お代を」

「ああ、そうだったね」


 カウンターの、これまた古びたレジをガシャンと開けると、年季の入った赤銅色の十円玉を一枚取り出し、文庫本を押さえる裏虫の手に差し出す。

 本を押さえていた手のひらがクルリと返され、十円玉を受け取る。


「おお、斫の旦那、これは……おお、これは、ギザじゅうではありませんか」

「あ、そうだったの?」

「この淵にギザギザの彫が施された十円玉は、価値があるのですよ、斫の旦那」


 興奮気味のセリフだが、裏虫の声は変わらず気怠い響きである。


「取り替えようか?」

「とんでもない、これはこれでいただきますよ」


 裏虫は十円玉を大切に内懐に仕舞い、颯は文庫本を手に取った。


「春の……あなたに、か」

「いかにもなネーミングでございましょう? 本文は少し浮かび上がってきていますが、まだ半分くらいでしょうか」

「やっぱりこれもそうなのかい?」


 日に焼けた紙をめくりながら颯が目を文字に落としつつ尋ねると、裏虫は十円玉の感触を楽しむように胸をポンポンと叩きながら天を仰ぎつつ頷いた。


「ええ、未完の作品です。この世に生まれながら完結を見なかった、強い思いが込められた力ある作品です」

「作者は?」

「さあ今も生きているのか、どうなのか。ただ、物語は完結を求めて、いびつなカタチで顕現し始めておりますからねえ」

「恋物語か、厄介だなあ」


 ぱらぱらと目を通しながら、颯はため息をつく。


「小難しいバトル物がよかったんですか? いやだなあ、そう言ってくれればまだまだストックはあるんですよ、でしたらコレなんかは」

「いやいや、いいからいいから!」


 手を振って止める颯。鞄に手を突っ込んだ裏虫は、「さいですか」と残念そうに手を戻す。


「この業界、恋物語と言えば、斫先生にお任せするほかはないってのが、お約束でして。はい」

「まともな仕事持ってきてくださいよ。こちとら、表仕事だってご無沙汰なんですから」


 憮然とする颯が文庫片手に腕を組むと、裏虫はここだけ嫌に人間臭く肩をすくめて苦笑する。


「ともあれ、受取書にサインをお願いいたします」


 スっと差し出されたのは、古めかしい羊皮紙である。どことなく古風な紙に、しかしプリンターを通したかのようなきれいな文字が印刷されている。文字通り、『春のあなたに』の受取書、だった。


「はいはい」


 下段にある受取者の記入欄に名前を書こうと、カウンターのペン立てからボールペンを取り――。


「旦那、じゃありません」


 と、裏虫の制止の声に、「ああ、そうだった」と、颯は胸ポケットに差してある、それは異様な姿の万年筆を取り出す。

 軸は黄白に濁った鱗が溶け、重なり合ったかのような凹凸おうとつのある硬質な輝き。ペン先を覆うキャップはそぐわぬ色合いの真紅である。彼はひとつ気合を込めて……。いや、ひとつ覚悟を決めて、キャップを外す。すると、まるで獣の爪のようなペン先が現れる。いや、まさに爪のそれである。

 深紅のキャップを軸の後ろにはめると、颯の右手からその万年筆に、なにか薄黒い靄のようなものが立ち上り、吸い込まれていく。


「サインだけだと、そんなに吸わなくていいんだよね?」

「ええ。まあ。そうなんですが。はい」


 一区切り吸われると、ミキッと軋みをたてて、ペン先の爪に薄いひびのような隙間ができる。


「はつり……はや、て。と」


 不気味な万年筆から滴るどす黒いインクで名前を書き上げると、どのような仕掛けか、書かれた名前が真っ赤な血の色に変わり、その紙は手も触れていないのに四つ折りに畳まれ、裏虫がいつの間にか用意した漆黒の封筒にスっと吸い込まれる。


「またこれで俺の中から創作意欲がごっそりと抜けていってしまったんだろうなあ」

「一般の作家からしたら毛ほども減ってませんよ」


 これもいつの間にか用意した火を灯したロウソクを傾け、封筒に蝋封を施す裏虫。「火気厳禁だよ」という突っ込みは無意味だとわかっているので無言だが、火のついたままのロウソクをそのまま鞄に仕舞い込むのだけは慣れたものではなかった。


「しかし、その万年筆、ずいぶん扱いに慣れたんじゃございませんか?」

「ああ、これか」と、キャップを閉じながら、颯は頭を掻き、「まあね。この店継いでからだから、もう半年か」

「そんなになりますか」


 半年にしては、しみじみと裏虫は呟く。

 颯は文庫を胸に、ひとつ頷く。


「『春のあなたに』の完結、確かに承りました」


 裏虫も、天井を仰ぎ見ながら肩を落とす。


「肩の荷が一個下りますわ」


 そして、お互いに肩を竦めあって笑う。


「長いことここの店主たちを見てきましたが、斫さん、あなたはちょっと歴代とは違うなあ。なんというか、作家っぽい」

「作家ですから。……まあ、鳴かず飛ばずですけどね」

「そういう意味ではないんだけどなあ」


 と、返して笑うのは裏虫だけである。

 颯は右手でもてあそぶ万年筆に目を落とし、しばらくそっと、考えに浸る。


「魔筆、『なぐるふぁる』。担い手の魂を吸い、現世に物語を書き示すもの」


 と、彼の考えを引き継ぎ、裏虫は呟く。


「浮かばれぬ魂は、なにも生き物のだけではございません。生まれて死ねぬ物語もまた、然り。二十五代目、よろしくどうぞお頼み申し上げます」


 一回肩をすくめため息をつくと、颯は頭を下げる裏虫に正対し、背筋を正して頷いた。改めて『二十五代目』と彼を呼ぶ裏虫に対する、深い畏敬の念のためだ。


「あ、そうだ。裏虫さん、すみません、お茶も出さずに。暑かったでしょう」

「ええ、それはもう」


 頷きながら、初めて気が付いたように裏虫は奥の和室に目を向ける。


「そういえば、奥方様は?」

「やめてください、沙華さやかは別に奥さんじゃないですよ。今ちょうど買い物に出ています。そろそろ帰ってくるかと……」

「それを早く言ってくださいよ」


 気怠そうな裏虫が、何を思ったのか急いで鞄のチャックを締めるや、

「じゃあ、会わないうちにお暇いたします」と、腰が引けた物言いになる。


「あの鬼娘にあったら、またぞろ何を言われるか、わかったもんじゃありません」

「ああ、確かになあ」


 颯も頷く。


「状況、最悪ではありませんが、のんびりとはしていられません。その本……」


 促されるままに、颯は文庫の最後の、文字が書かれている最後のページを開く。


「月岡高校の男子生徒がひとり、昏睡状態です。あれですな、魂を抜かれたみたいです。その本に浮かび上がる歪んだ物語を紡ぐ糧になっております。文字の現れる速度と内容は、彼の魂の衰弱と直結しております。どうか、お早めに」

「もう被害者が」


 いや、被害者でも犠牲者にしてはいけない。裏虫はそのために来て、颯はそのためにいるのだ。


「それじゃ、旦那、物語が完結したあたりにまた伺います」

「はい、お気をつけて」

「……こちらのセリフですよ」


 にやりと笑い、店を出ていく裏虫の背中を目で追いながら、颯は手の文庫本をなでる。

 春のあなたに。

 未完の物語が完結を求め、生者の魂をインクに歪んだ物語を紡ぐ。


「仕方ねえなあ、もう」


 颯は裏虫と同じように天井を仰ぎ見る。

 視界の左右には、積み上げられた本の壁。

 みな、閉じた物語である。


「沙華が帰ってきたら、なんて言うかなあ」


 斫颯。『いうえお屋古書店』二十五代当主――ではなく、店主は、こきりと肩を鳴らすと、気が重いのを紛らわすために、ひとつ、文庫本で額を叩くのであった。

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