145 羊皮紙


 「にしても、よく食ったな」

 黒鳶くろとび色の扉を前に、ギルウォールが振り返る。その視線が向かうのは、フェイリットが抱えるからになった盆と皿だ。お代わりまで用意されていた焼き菓子チェクチェロ。二回ともきれいに平らげ、お茶も底をついた頃合いで、ギルウォールは「そろそろ戻るぞ」と言った。


「チェクチェロもお茶も、美味しかったですね」

 フェイリットは大きく頷いて、ギルウォールの「食ったな」に同意する。

 かなりの時間が経過していた。彼との垣根ないお喋りは、フェイリットにとって楽しいひと時となった。ひと回りは離れているはずの年齢が、〝兄妹〟という括りで途端に気安いものになる。本来なら〝従兄妹〟と言うのが正しい。けれど、父親サミュン母親リエダが明かさなかった真実を、フェイリットがあばくつもりはなかった。それに大切な存在は、呼び方ひとつでは揺るがない。そう信じていたかった。

 扉を開けて廊下に出れば、薄暗い廊下に点々と連なる、燭台の火が視界に入る。この部屋に飛び込んだ時には、ついていなかった灯りだ。


「美味かった。殆どはおまえの胃袋の中だがな」

 ギルウォールは薄灰の瞳をくるりと回した。呆れたような言葉だったが、仕草はどこかおどけて見える。

「ドリューテシアじゃないが……、おまえの腹ん中が一体どうなってんのか、見てみたくもなる」

「そんな……、年頃の同じ子たちと集まって食事してましたが、みんな同じようなものでしたよ」

 小姓時代を思い出して、フェイリットは首を捻った。早食いしていた記憶はある。でも、他の小姓たちと食事の量は変わらなかったはず。山盛りの菓子を平らげたのは、食事を忘れて寝込んでいたせいだ。


「ははぁ、そりゃ信じられねえ話だ」

 ほんのり灯る城内の明かりが、ギルウォールの髪色を優しく照らした。近しい色合いを眺めて、フェイリットは頰を緩める。きっと同じように、橙色の灯火で自分の髪も染まっているのだろう。そう思うと、なぜだか心があたたかい。

「たくさんお話できて、楽しかったです」

「そりゃよかった」


 従僕がひとり、廊下に出た二人に代わって、部屋の中へ入っていった。窓枠にかかる厚手の紗布を引いて、窓を順番に覆っていく。

 フェイリットは従僕の動きをそれとなく見つめながら、「あっ」と息を飲んだ。

 忘れていたことがある。

 室内を見てまわった際に、卓上に伏せられていた一枚の羊皮紙。それを、窓からの風で飛ばしてしまった。追いかけた先の入り口でギルウォールを迎えて、それきりだ。気がつくと、室内を飛びまわったはずの紙は、どこにも見当たらない。今の今まで忘れているなんて。


「おやすみなさい」

「ああ、部屋まで送る」

 短い髪をがしがしと掻きまぜるギルウォールを見上げて、フェイリットは首を振る。大切な書類だったら大変だ。失くしたことをコンツェに詫びに行く前に、もう一度探してみるべきだ。

「ありがとうございます。でも、一人で大丈夫です」

「こんな夜中に一人は危ない」

 あっさりしたギルウォールのこと、簡単に置いていってくれるだろうと思っていたが、違った。

「わたしは」

「もうすぐ十七歳の、女の子だ」

 ギルウォールは軍衣の襟元を緩めて言った。

 十七歳は大人です、と言おうとして、フェイリットは苦笑した。いつのまにか一巡りしようとしている月日。十六歳になりたての頃には、想像だにしなかった日々が過ぎていく。けれど。

です」

 きっぱりと言い切る。そんなフェイリットをまじまじと見て、ギルウォールは仕方ない、とでも言うように踵を返した。

「ゆっくり歩いてやるから、気が済んだら走ってこいよ」


 重みのある執務室の扉が、わずかな軋みとともに閉じられていった。フェイリットが見ている横で、控えの番兵が古めかしい鉄の鍵を取り出している。

「あの……」

 と口にしかけて、フェイリットは躊躇した。王女、、が職務中の番兵に話しかけるのは、行儀に反すること。わかっているが、これも仕方がない。

「何か拾っていませんか」

 番兵はほんの少し戸惑うような隙を見せて、錠前に手をかけた。おそらく、何も聞こえなかった、と自分を戒めているのだろう。がちり、がちり、と数度にわたり、施錠の音が鳴り響く。長く続く廊下に、重々しい響きが染み渡る。


「話しかけてごめんなさい。でも、必要なの。羊皮紙を拾ってませんか。ギルウォール殿下がこちらにいらした時に、ちょうど窓からの風で飛ばしてしまって、ここに」

 と、扉の下の細い隙間を指して言う。番兵は困ったように眉を下げてから、「いえ」と短く答えた。加えて、敬礼をする。その申し訳なさそうな手つきを見て、フェイリットは頷くしかない。

「そう、ありがとう」


 消えるはずがない。ギルウォールは訪室時、両手がほとんど塞がっていた。山盛りの菓子と茶器を、彼はまとめて抱えてきた。足元に舞い落ちた一枚の紙を、拾う手間があったとは思えない。番兵でも、ギルウォールでもないとなると、もう消えたと思うしかないのだろうか。

「サディアナ」

 長く続く廊下のかなたで、ギルウォールが佇んでいた。フェイリットは「はい」と応えながら、小走りに兄の元へ駆けつける。


「探し物?」

「いえ、その」

 と濁してから、どうしてそれを、と思い至る。

 フェイリットが探す羊皮紙には、なにかの文がしたためられていた。執務の卓にあったなら、それはコンツェかシバスラフの手によるもののはず。勝手に物色した挙句、失くしてしまったなど。気安さを築けたギルウォールに向かってでも、言いづらい告白だ。

「読むか?」

 薄灰の瞳をすっと細めて、ギルウォールは笑っていた。その手に、一枚の羊皮紙がひらひらと掲げられている。文面は彼の方を向いていて、フェイリットには見えない。


「あっ、兄上……拾えたんですか?」

 質問に、ギルウォールは答えない。ただ紙をひらひらとさせる様子は、控えめに見ても愉しげだ。

「コンツェ……いえ、エトワルト王陛下のもの、ですよね」

「そう思うか?」

 ギルウォールの態度や表情からして、持ち主はコンツェだ。

「気になるか?」

「さっきから質問ばっかりです」

「質問ばかりなのはおまえもだろ。この紙のことは気にしないほうがいい」

 折り目のない紙を、ギルウォールはするすると丸めた。フェイリットが背伸びして覗き込むのを、察したような動きに見える。つま先立ちになりかけたまま、フェイリットは顔をしかめた。

「気になります」


 まして、大切な書類かもしれないものを。フェイリットは、いつになく鋭い目でギルウォールを見やった。大袈裟とはいえ、テナン公国のものをメルトローの人間が持ち去るのは如何なものか。見過ごせるものではない。言葉もなく尚もじっと見つめていると、観念したように、ギルウォールが両肩をすくめる。

「わかったよ。ほら、おまえを呼び出す書き置きだ。時間は……ああ、もう過ぎてるな。〝庭園の噴水で待ってる〟と書いてあるが」


 紙面をこちらに翻して、ギルウォールが低い声で続ける。

「行かないほうがいい。と思ったから、菓子の追加を頼んでまでおまえを引き留めたんだぜ」

「えっ? そんな、なにかの罠だとでも……」

 たしかに、コンツェの筆跡をフェイリットは知らない。つまりギルウォールは、手紙が偽物なら見分けがつかないと言いたいのだ。

「あれ」

 ギルウォールが勧めない理由を考えたあとで、フェイリットは首を傾げる。文書の一番最後。そこにはコンツェの名前と、彼しか用いることができない王の御璽ぎょじが、しっかりと押されていた。


「……まったく。鈍感阿呆め」

「えっ、あああ! 兄上?!」

 くしゃり。手紙は止める間もなく、ギルウォールの手の中で潰れた。

「どうしても行きたいんなら、全身によろいでも着込んでから行け、かぶともな」

 丸めた紙を宙に放り投げ、掴む。その動作を何度か繰り返して、ギルウォールが長い廊下を歩いていく。

「全身に、鎧?」

 フェイリットが眉をひそめて考えるうち、その距離はますます広がっていった。




◇ ◇ ◇

〝フェイリット、どうか話がしたい。以前、手合わせをした庭園の円舞台で一刻ほど待ってる。――友人として。コンツ・エトワルト・シマニ〟

◇ ◇ ◇


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