144 海に問う
従僕の手で、大地図がするすると片付けられていく。その横では、先に退室していった将校のお付なのであろう。二人の従卒が、手際良く図面の内容を別紙に模写する姿があった。
年頃の同じ彼らをじっと見つめながら、フェイリットは気もそぞろに息をつく。
てきぱき働く従卒の姿が、小姓であった頃の自らと重なっていった。そうして、崩壊したという帝都での生活や、友人たち、想い出深い場所。いくつもの情景が、フェイリットの脳裏をよぎり、すっと儚く消えてゆく。
ディアスに逢いたい。その一心だけで飛び込んだこの部屋で、彼を追いつめる戦略を披露した。
彼を殺したいのではなく、倒したいのでもない。ほかの皆を困らせたいわけでもないのに。
がんじがらめの思考で思うのは、自分勝手な感情ばかり。
「何かお飲みになりますか」
と、従僕の声が心配げにそばで響く。それまでフェイリットは、自分が固まっていることにすら、気がついてはいなかった。
「……え、あの」
視線を上げると、自分のほか、たくさん居たはずの人たちの姿が見あたらない。将校たちが出て行ったのも、エレシンスが頰を撫でて行ったのも、覚えている。では、虚ろな思考にとらわれはじめたのは、その後のことなのだろうか。
「皆さま、別室にお移りになりました。そちらで軽食をご用意しておりますが、」
フェイリットの疑問を感じとったのか、従僕が説明を加えてくれる。
「何かお考えのようだから、そっとしておくようにと。シバスラフ様より
フェイリットは目を丸くしながら、皆が出て行ったのであろう扉を見つめた。木彫りの装飾を施された、
首を動かせば、壁に沿う大量の図書が目に映る。その古びた香りをたどって歩きながら、フェイリットは従僕にむけて首を振った。
「もう少しここにいたいの。ありがとう」
部屋の反対側には、大きな執務用の卓が備えてあった。窓からの採光が、背にあたるよう工面されている。卓の上に残された一枚の羊皮紙に目をやり、フェイリットは足をとめる。
「茶器だけでも、こちらにご用意致しましょうか」
去り際に気を効かせてくれたのだろう。従僕が、静かな声音でそっと問う。
彼に笑みを返して、フェイリットは頷いた。
「お願い」
開け放したままの窓から、海風がそよぐ。外はもう真っ暗なのに、潮の泡だつ微かな調べが、ずっと聴こえていた。優しい音だけれど、謎めいていて、揺らがない。まるでディアスみたいだ、と思い至ってから、
「あーもう、自分の思考に蓋がほしい」
フェイリットは慌てて窓に駆け寄った。風になぶられてばたつく窓枠の布を抑えて、窓を閉める。が、閉めぎわの風で卓に残されていた羊皮紙が一枚、するりと浮いてしまった。
「い゛っ……た!!!」
追いかけた先で捕まえて、何かに思い切り頭をぶつける。見ると、二度目の扉だった。
険しい目で扉をにらんでから、フェイリットはがくりと肩を落とす。扉に罪はないが、二度もぶつかる自分もずいぶん情けない。
頭上をさすりながら身体を起こすと、なんと今度は扉が唸る。
「えっ?」
次いで、ごんごん、と大きな音が聴こえた。拳を握って叩くよりも、ずっと粗雑で乱暴だ。フェイリットが訝しんでいるあいだにも、ごん、ごん、となり続けている。
おそるおそる扉を引き開けて、フェイリットは声を裏返した。
「あ……兄上?」
「よう。おにいたま
そこに立つギルウォールの顔を、フェイリットが見上げることはできなかった。
彼の手に載せられた盆の上に、うず高く積まれた菓子の山と、ところ狭しと並ぶ茶器。それらのせいで、ギルウォール自身の視界がなくなっている。
従僕に願った茶器一式が、なぜか兄とともに来てしまった。
「まさか……足で扉蹴ってました?」
混乱する頭で、フェイリットはようやく声を出した。盆を持ったせいで塞がったギルウォールの両手。ごんごんと鳴らされる粗雑な音。まがりなりにも、自分よりも王族として育ってきたはずの次兄を見上げ、驚いてしまう。
「ほかにどこを使えって?」
その彼が今、自由にできるのは足だけであることも、間違いなかった。
「おまえ、笑ってないで、ちょっと手伝え」
ギルウォールが持つ盆から菓子の皿を受け取り、フェイリットはすぐに後悔した。今度は自分の視界がなくなっている。
「何なんですか、この……」
先が見えないながらも、よろよろと歩いて円卓にたどり着く。皿を置いてギルウォールを見やれば、彼はすでに茶を淹れているところだ。
「飲むだろ」
「あの、従僕は」
「その従僕から取った。ほらよ」
にべもなく返し、ギルウォールは茶器を差し出す。
「あ、りがとうございます……」
どういうわけなのか、思惑にもたどり着けないまま。フェイリットは茶器にゆれる琥珀色の液体を見つめる。爽やかな香りのする茶だった。くゆる湯気に鼻先をつけて、ほっ、と息をつく。
「茶はドリューテシアから。菓子はこの辺のもので、チェクチェロだとさ」
「チェクチェロの甘焼き……?」
懐かしい名前を口に出して、フェイリットは菓子の一つを
以前食べたものより、小さくて短い。一見してわからなかったのは、この形状のせいだ。帝都の城下で売っていたものは、食べ歩きできるよう、長さがあって手に持ちやすかった。一方で皿に積まれた甘菓子は、ひと口で食べられる小ささをしている。
「従僕が言うには、エトワルトが厨房に頼んだんだと」
「コンツェが?」
チェクチェロは、コンツェと城下に下りたとき、買ってもらった菓子だった。初めて見る菓子に、大喜びしたのを覚えている。仲良くなったタラシャと分けて食べよう、と大事にしているうちに、食べ損ねてしまった経緯も。
そうしてひとくちに菓子を頬張り、フェイリットはすぐに目を丸くする。
「おいしい」
ほんのりとした
「全部食っていいぞ……って、言うまでもねぇよな」
ギルウォールの渋い声が耳に届き「あっ」と、フェイリットがまごつく。
「ごめんなさい! あとは兄上どうぞ!」
ちょん、と一つ残された甘菓子を差し出され、ギルウォールは呆れた声を出した。
「お気持ちどうも」
「ごめんなさい、お腹すいてるのも忘れてて……」
ちょっと摘んだつもりだったのに、視界を隠すほど盛られていた菓子は消えてなくなっていた。フェイリットは茶器をそっと持ち上げると、赤らんだ頰を隠すため、茶にくちびるを浸す。
「そっちは木苺の葉を煎って煮出した茶だとよ。月のものに効くとは言ってたが、……ドリューの説明全部聞くか?」
言い難そうに、ギルウォールは問うた。男の人が、すらすらと言える内容でないのは明らかだ。フェイリットは茶を飲みながら、やわらかく目を細める。
「大丈夫です、ありがとうございます」
「そうか?」
ほっと息をつき、ギルウォールは幾分声をおとして続けた。
「おまえは……産みたかったのか」
少しの沈黙を経て、フェイリットは首を縦に動かした。
明かさないつもりだった秘密。失ってしまった命。
だめだった、と御典医に聞いてから、フェイリットは考えるのをやめていた。気をほかに向けていなければ、立って歩くことさえ難しい。それほどに辛く、解きようのない結び目だった。
「超初期流産、というらしい。原因が何なのかはドリューテシアや御典医にもわからねぇって話だ。お前がもし、誰かを責めてるなら」
「……誰も責めてなんか、」
ギルウォールはかちり、と音を立てて茶器を置き、その手で菓子を摘まみ上げた。大きな手は日焼けで赤らみ、チェクチェロがより小さいものに映る。最後のひとつをひょい、と口に入れて、その頰が咀嚼に動く。
「まあ責めたくなる気持ちはわかる」
「兄上、ですから誰も」
「好きなやつが別の方を向いちまって、俺の気持ちはきっと一生報われることがねぇんだな。……てな気持ちもわかる」
フェイリットはギルウォールの言葉に、思わず首を傾げた。
「お好きな方がいらしたんですか」
「まぁな。俺の場合は勝手が違うし、相手はもう死人だ。組み敷いちまうようなヤワな理性でもなかったが……後悔はしてる」
ギルウォールのことを、フェイリットはなにも知らない。帰りたくない一心で逃げた祖国・メルトロー。そしてそこに暮らす血を分けた人々を、知ろうとしたことはなかった。彼の後悔のにじむ声色を聴きながら、フェイリットは俯く。
「誰も責めるな。後悔もするな」
おまえ自身も含めてな、とギルウォールは言い結んだ。
「後悔……」
たくさんの後悔が、フェイリットの脳裏をすぎていく。
祖国を逃げたこと。サミュンを説得できなかったこと。帝都を去ってしまったこと。コンツェを傷つけてしまったこと。生きることを諦めてしまったこと。
戦争が起きてしまうまで、何もできなかったことが、悔やまれてならない。
……それでも。
「で、だ。おまえ本当のところ、バスクス二世をどう思ってる」
そして、ギルウォールは口の端をつり上げる。
「恋しいか」
過去を振り返るより、それでも、後悔してもいい、と思える選択がしたかった。次兄の所作をじっと見て、フェイリットは震える息を吐き出す。
嘘は言わない。後悔もしない。
「恋しいです。この世界で誰よりも」
前を向いたフェイリットの答えは、ギルウォールをなぜか笑わせた。
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