131 タントルアス王の秘密
一方で、皇帝の率いる軍勢が到着した翌日。バッソス公国オフデ侯爵ルクゾールは、慌てて地下書庫を訪れていた。
この地が戦場になる前に、いくつかの品を隠すため。それは敵にも味方にも知られてはならない秘密だ。
長い階段を下りた先に、小さな空間がぽっかりと口を開ける。埃の臭いに小さく咳をしながら、ルクゾールは冷たい石壁に手をあてた。
石壁を彫って造られた棚と、遥か昔に運び込まれた木製の巨大な棚。混在するそれらの中央には、大きな円卓がひとつ備えられている。タブラ=ラサ――今はメルトロー王国に戻り、サディアナと名を戻しているであろう少女が、懸命に地下水脈を記した記憶の残る卓だ。
手持ちの燭台を卓の上に乗せて、ルクゾールは苦いため息を吐き出す。
「サディアナ様がメルトローに戻ったとなると……」
――
ホスフォネト王が以前、彼女に向けた忠誠の言葉。そのままに
戦争の火蓋がきられて、彼女とバスクス二世の関係は〝敵〟であることがより明確になってしまった。
サディアナ王女の
……二つの選択肢に気づきながら、ホスフォネト王は悩み続けているはずだ。
「せめて、サディアナ様のご意志が聞きたかったものだが」
暗がりと燭台の灯りに目が馴染むのを待って、ルクゾールは奥へと進んだ。
〝イクパルにとどまり、バスクス二世を助けてほしい〟――とでも、彼女の口から聞くことが叶うなら。ホスフォネトも自分も、これほどに悩むことはなかったであろうに。
明らかに好いていたはずの男に背を向け、祖国へ戻ったサディアナ王女。去って行った彼女を思い、ルクゾールは何度目かの息を吐き出す。
「何百年経とうと、我々は見守ることしかできぬな」
目的の棚を目の前に、そっと中板を手で払う。ふわりと舞い上がる
納められていた箱を開ければ、
「タントルアス様……」
久しぶりに目にする肖像画の中の
タントルアス王の描かれた絵画を一枚手に持ち、ルクゾールは
大きな玉座に身を沈ませて、挑むような目でこちらを射抜く。タントルアスの
けっして雄々しいとは呼べぬ姿なのに、畏怖さえ感じさせる王の風格。おそらく誰が見ても、この人物の有能さを疑うことはしないだろう。そう思わせるような描かれ方だった。
記憶の中にある主人は、もっと軽やかに笑う人物だったはず。そんな記憶さえおぼろげで、確信が持てない。
そうしてタントルアスの足下まで目でたどった
肖像画を描いた画家の名前。
擦られたように薄くなり、随分と読みづらいその文字に目を近づけて、ルクゾールは息を飲む。
「……バスクス」
それはメルトロー語で、とても小さく印されたものだった。
ルクゾールの手から額縁が滑り落ち、石床の上で嵌め
「まさか、」
「何事だ? ルクゾール」
階段を降りる足音とともに、ホスフォネト王の声が響く。近くに位置する執務の間から、硝子の破れるただならぬ音に彼も驚いたのだろう。
間近に迫ったホスフォネト王を見上げて、ルクゾールは震える声を絞り出した。
「ホスフォネト王……エレシンスは一体
玉座から、こちらを鋭いまなざしで見やるタントルアス王。そして、その足元に小さく記された画家の名前。
二人を結びつける事柄は、たったひとつ。
額縁を受け取り、ホスフォネトが裏の留め具を外していく。
「エレシンスが忠誠を誓った時期……」
記された名前を指でなぞり、ホスフォネトは掠れた声で呟いた。
「我々は、根本的な事実に……気づいていなかった。ルクゾール、これを見ろ」
額縁の裏側には、もう一枚の肖像画が鏡合わせに隠されていた。
そこに描かれていたのは、純白のドレスに身を包んだ女性の姿。
――紛れも無く、表の肖像と同一の人物……タントルアスその人だった。
「即位よりもずっと前だ」
突如。低く落ち着いた
久しく忘れていたその感覚に、ルクゾールは身を震わせた。一体どこから紛れ込んだのか、 全身がざわざわと粟立ってゆく。
予感がなかったと言えば嘘になる。ただ長く考えないようにしていた
「……やはり、御存命であらせられたか」
ホスフォネトの呟きに、〝彼女〟はゆっくりと笑った。血を舐めたように紅い唇が、笑みの形に引き上げられる。
美しいのに、恐ろしい。そのせめぎあう感覚に、皮膚の粟立ちがおさまらない。
「エレシンス……」
白磁色の鎧を身に纏い、鮮やかな
「久しいな、傭兵王ホスフォネト」
記憶のままの、海原のようにうねる黄金の髪。艶やかに輝く絹糸のようなそれは、彼女の白い頬を片側だけ隠している。美しい金の瞳をそっと細め、エレシンスは笑った。
「目が覚めてしまった。なにやら騒がしいことをしているだろう」
ホスフォネトはゆっくりと首を横に振り、目前の存在に膝をつく。
「貴女の御世は、とうに終わりました。あれからもう、」
ホスフォネトに合わせて腰を落とし、エレシンスはその白い手を差し出した。言葉を制するようにも、何かを欲するようにも見える手のひら。すらりと長い指には、剣を扱う者にできる節の名残もある。
――しかし。
じっとその手を見やって、ホスフォネトは次に問われるだろう質問を察した。
「ホスフォネト。……私の〝眼〟を、どこにやった?」
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