88 ふたつの夜空
びゅうびゅうと耳に鳴る風の音の他に、さわやかな葉のさざめきが聴こえる。ようやく辿り着いたオアシスは、 皇帝直轄領への国境にはまだ距離のある、小さな泉だった。
久しぶりに聴く葉ずれの囁きは、たとえ体を熱砂にさらされていても涼しく感じられる。
フェイリットは確かめるようにゆっくりとした動作で、馬の背からすべり降りた。丸一日走りづめで、尻と脚がどうにかなりそうだった。
帝都への帰途は、バッソス公国から借り受けた護衛の傭兵も含めて、三十名にも及ぶ。彼らは言わば、見送り隊。バッソスと皇帝直轄領ぎりぎりの国境までを同行したのちは、そのまま
「へっ情けねぇ」
鼻で笑ったシャルベーシャが、すぐそばの棗の木に自らの馬のたずなを結わえている。
ようやく辿り着いた休息場所のオアシスで、フェイリットは返す気力もなくなっていた。
「情けなくていいや、もう」
水を飲む
その対岸にバスクス帝の姿を探して、思わず肩を竦めてしまう。和やかに話す二人の姿は、気持ちをしおれさせるには充分だ。
見ないように、考えないように、俯かないように――そうして張っていた心も、身体の疲れとともにとっくに破れている。捜しては落ち込み、視界を外れるとまた見渡してしまう。そうして見つけたバスクス帝は、いつもヒーハヴァティと一緒だ。
「取って代わりてえって顔、してるぜ」
膝を抱えるその横に、シャルベーシャが並び立つ。
「……え!」
言い当てられた心情に、フェイリットは途端に顔を赤らめ俯いた。上からけらけらと笑いたてる声が降る。
「よくわかんねぇヤツだなァ。けろっとしてたのは芝居か?」
返事を返さずにいると、頭のてっぺんを軽く拳でつつかれる。
平気だと思い込んでいた。バスクス帝がヒーハヴァティと笑っていようが、馬の背に二人で乗っていようが。けれど誤魔化すようにつくった笑顔は、長続きせずにひきつって、苦笑に変わる。
「いいなぁ、って思ってるのは本当」
どうして気づいてしまったのだろう。好きだと感じる以前なら、あれは自分とは切り離された遠い光景だったはずなのに。
何度一緒に眠っても、ともに笑っても。こうして少しでも距離を置いたなら、どうしようもなく彼が遠く見えた。考えてみれば、〝好きだ〟も〝愛している〟も、バスクス帝の口から聞いたことは無い。
「泣き出すんじゃねぇぞ。慰めんのは嫌ぇだ」
そう言って、あーあ、と彼はため息をつく。側から去って行かないあたり、充分に〝慰め〟ととれる行為だったが、フェイリットは何も言わなかった。
ジルヤンタータと居たときも、気づいていた。バスクス帝とともにいるヒーハヴァティの視線が、勝ち誇ったようにこちらにしばしば向けられるのを。
バッソス公国からの帰路、〝嫁いで〟くるヒーハヴァティこそが接待されるべき、優遇されるべき対象だ。それをわかっていながら示される〝視線〟に、フェイリットは辟易していた。
「……ありがとう」
シャルベーシャがおこなった背後からの不意打ちが、どれだけ自分を窮地から救ったことか。そういう心の機微をすべて承知のうえで、シャルベーシャはフェイリットをからかってまで、速駆けへと引っ張りだしたのかもしれない。
案の定、シャルベーシャは何も言い返さない。じっとした沈黙が流れて、フェイリットは立ち上がった。
「と、――あの……シャルベーシャ、さん」
「ああ? いきなり気持ち悪ぃな、なんだよ改まって」
シャルベーシャの顔を見上げて、フェイリットは目線を下にずらす。
「その……――ごめんなさい」
頭を下げて、震える声でフェイリットは言った。
からかわれるからと、甘んじてそれに乗っかっていたが、本当ならこの言葉が何よりも先のはずだった。
「あなたの部下を、殺めてしまって……なのにずっと知らん顔してきて、今まで謝ろうとさえ……」
下げた頭の上で、息をつくような音が聞こえる。
「ごめんなさいで済まないのはわかってます、でも……」
「――元を正せば、挑発したのは俺たちなんだぜ。……確かに、無鉄砲だったが。必死だっただろ、お前。遊び半分だった俺らに、正面きってお前を非難は出来ねぇよ。命を賭けるのが俺らの仕事だ」
そっと顔を上げると、シャルベーシャは仏頂面で「なんだよ」と不機嫌な声を出す。
彼の意外な返答に驚く気持ちが、顔に出ていたかもしれない。フェイリットは間の抜けた顔を引き締めると、そっと申し訳なく微笑んだ。
「まぁ、
「……罰」
見上げると、拳が軽く
「マムルークはな、強えのだけが生き残んだ」
苦い顔で言いながら、彼はふと後ろの方を振り返る。その先には件の
「俺たちは、捨て駒なのさ。常に前線で命を晒す。だからお前如き小娘に負けてるような男は、マムルークとは呼べねえよ」
シャルベーシャはそう言うと、もっと考えて連れてくるべきだった、と最後に呟いて口を閉じた。
――タァインとの遭遇で喪われた命を、嘆くような言葉。軽々しい男だと思っていたのに、彼は歴とした〝隊長〟なのだと、実感する。
「……小娘に負けた。それって、シャルベーシャも含まれるよね」
真面目な話はおしまいだ。お互い丸一日かけて体力を消耗した状態で、これ以上沈んだ話は身体にもよくない。
国境まではあと少しだが、ここに
「なんだ? 空耳が聞こえたぜ」
「痛!」
再び額を襲う拳をそのまま額で受け止めてから、手のひらで彼の脇腹をはたき返す。
何ともないような顔をしているが、彼の弱みならまだ健在だ。
「ぐっ……、でぇ! なにしやがんだ!」
「はっはっは」
シャルベーシャは肋骨の痛みに体を曲げて呻いている。わざとらしく笑って、フェイリットははたとシャルベーシャを見やった。
悪化させるほど強くは叩いていないため、大丈夫だとは思うのだが、それでもふと不安になって彼の方を覗き込む。
「お前が男だったらなあ。マムルークに突っ込んでやりてぇよ」
体を折り曲げた姿勢のままで、シャルベーシャは抑えた声で言った。
「まあ女でも変わらねえか。どこもかしこも真っ平らみてぇだしな」
「な……!? でっ、出てるもん! それは、まあ……それなりに……だけど」
豊かさにはほど遠いが、真っ平らななわけではない。
けれどそれに抗議をしてから、余計に首をしめた気持ちでフェイリットは顔をしかめた。
「へぇ」
疑うような目で見つめられると、心が痛い。フェイリットは唇を曲げて踵を返し、アルスヴィズを連れに歩いた。
「おい、馬つないだらこっち来い。暇なんだったら
足早にアルスヴィズの元まで辿り着いていたフェイリットは、目を開いて振り返った。
「ええ?」
「そんな小姓の格好しといて、仕事免れるとは思ってねぇだろ」
気の抜けた声で言い置いて、シャルベーシャは仲間の輪に戻っていく。
泉の周りには、申しわけ程度の短い草花が生え、とつとつとまばらに棗が立っている。
オアシスはオアシスだが、ここに天幕をつくるとなれば、きっと誰かは寝ず番だろうな……そんなことを考えながらも、フェイリットはシャルベーシャの背中に向けて頷いた。
何もしないより、何かを負わされていたほうがいい。そのほうが、考えずに済む。
じっとしていると、アルスヴィズが「行こう」とでもいうように、鼻先を項に突っ込んで来た。フェイリットは声を立ててそのくすぐったさに笑うと、アルスヴィズを木につなぐため動き出した。
*
そしてとっぷりと日も沈み、外は闇に包まれた。
水辺のどこかにいるのだろう。虫の鳴く、ひりひりという微かな音が聴こえる。
簡易に建てられた軍用の天幕は、人が二人寝るのが限度。フェイリットはジルヤンタータと供の天幕で、寝具に包まっていた。少しだけ隙き間の開く天井から、切り取られた夜空が美しい。
「……寝た? ジル、」
そっと小さな声で囁きかけるが、返答はない。朝から馬で走りづめだったし、彼女は夕食の給仕でも忙しそうに立ち働いていた。疲れも限界だったのだろう。身体を横にして間もなかったが、しばらくじっと聞いていると、深い音の寝息が聴こえる。
「ねむれない……」
なぜだろう。身体はこれでもかというほどに動かし、働いて疲れているはずなのに。ジルヤンタータのように、眠りの世界はフェイリットを迎えてはくれないようだ。
――陛下は、……ヒーハヴァティと一緒かな。
まただ。再びわき起こる抑えられない感情に、フェイリットは息をつく。
会いたいけれど、会いに行っては迷惑だろう。そう思いながらも、身体は起き上がり、
入り口に下げられた黒い幕をそっと開けると、いくらか並んで建てられた天幕の向こう側に、見張りの薪が燃えるのが見える。
せめてあそこに行って、マムルークの誰かと話でもしよう。そう一人で頷いて、フェイリットは天幕から抜け出した。
けれど見張りのほうへ歩こうとした途端、横から小さく笑う声が聞こえる。
「……え、だ、」
誰? と聞こうとして、フェイリットは驚きのままに口を開けた。
「こんな夜更けに、散歩か」
悲鳴を上げなくてよかったと、咄嗟に思う。叫んでいたら、慌てたジルヤンタータが顔を出していたことだろう。
「なんで」
振り返って見上げた人は――、誰よりもいま、会いたい顔をしていた。
本能的に駆け寄り、がっしりと抱きついてしまってから、フェイリットは慌てて身体を離す。まるで〝会いたかった〟と全身で表現してしまったようで、恥ずかしさが急にこみ上げた。
「どうした、おいで」
そそくさと後じさりして距離をとったフェイリットを、バスクス帝は楽しげに笑った。
「どうしたんですか、こんな夜更けに」
「お前の顔を見に来た」
こともなげにそう言って、フェイリットを抱き上げる。
「……ああ、何だか前にもあったか。こういう、」
歩きながら、遠くを眺めるようにしてバスクス帝が言った。
きっと……、アルマ山を降りてここの人たちに拾われて、そこから逃げようとした、あの最初の夜のことだ。いきなり腕を掴まれて、なんと闇のように恐ろしい人だろうと感じた。誰とも触れ合わせたことのなかった唇を、あっさりと奪われて。
怒りさえ覚えていた頃が、ずっと昔のことのように思える。
「ひどい人だって思いましたよ。いきなりキスしてくるし、服まで脱がせられそうになって、」
歩きながら、バスクス帝は笑う。
「思えば随分飼い馴らしたな。爪やら牙やらたてていたものだが、今では尻尾を振って飛びついて来る」
「しっ、失礼ですね。人を野犬かなんかみたいに……」
顔をしかめてバスクス帝を見やると、そっと足が砂地についた。
あたりを見渡すと、月に染まった砂漠の緩やかな波紋が、ずっと一面に広がっていた。
闇夜だと思っていたのに、綺麗な細い月が浮かんで、まったくの暗がりではないことにふと気づく。
「きれいですね…」
息をつくと白い
「夜空を見ながらというのも粋だろう」
低く、柔らかな声で、バスクス帝は以前とまったく同じ言葉を口にした。
ふと唇が重なって、誘うように舌が絡まり、――優しい余韻を残して彼が離れていく。
「……大陸創世譚か、砂漠の民の伽話か。どっちがいい」
砂地の上に胡坐を組んで、バスクス帝は自分から向かって前の方の地面をぽん、と叩いて見せた。
「ええと、」
そろそろと歩いてフェイリットが座ると、彼の腕に背中から包まれる。回された腕に自分の腕を重ねて、
「どっちも聴きたいです」
――その胸に頭を預けて見上げると、バスクス帝が嬉しそうに微笑むのが見えた。
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