89 深紅の鳥
帝都アデプの道は狭い。三人も歩いていたなら、人の行き交いがすぐにでもつまってしまう。壁の高い民家がひしめき合うせいで、道は蛇の背のように複雑につながっているのだ。
太陽の低い夕暮れがとても早く、特に陽射しの遠い東側にいたっては、朱っぽい光は階層の高い民家にたやすく遮られる。ここから上を見上げたなら、かすかに切り抜かれた空をうす朱く染めるだけ。
土を踏む足どりから目をそらし、アンはその影の目立つ空に近い民家の壁を見やった。
「ああまったく。これで清々しい青空でも広がってくれてたら、気分も少しは晴れただろうにな」
いつだって気鬱の原因は同じだ。あの赤子が目の前で泣いていても眉ひとつ動かさぬ、冷淡な兄――ウズルダン・トスカルナ宰相。
その兄から今朝がたに届けられた書面は、怖ろしくも短い文面が一行だけの内容だった。
〝久しぶりに夕食を〟
決して断ることのできない公式な文書の形式で送りつけるあたり、あの男の頭の捻れ具合が見え透いている。
小姓や母親を伝言係に使っていたなら、こんなところを歩いてはいなかったのだ。いつも通り仕事を終えて、診療所の片づけをしながら今ごろは小姓のテギと雑談でもしていたはず。もちろん、呼び出しなどなかったことにして。
足取りはあっという間に民家を抜けて、少しだけ広い道に出る。城へ続く直進の道でうつむけていた顔を上げると、大きな門が視界に入った。
番兵のいる三つの門のうち、二つ目の門〝アル・ケルバ門〟だ。ここを抜ければ貴族たちの邸がならぶ、静かな区域に入っていく。
「アン少尉? 珍しいですね、ご実家ですか」
見知った顔の門番に言われ、アンは声をたてて短く笑った。
「ああ。取り潰されていないか心配でね」
物騒な皮肉を、門番は笑って流してくれた。
事実、トスカルナの家系には家名をつぐ人物がいない。
正妻から生まれた唯一の姫はその籍を剥奪されているし、八年前に流産してからは子供を望めない身体になった。宰相という、実質上最も位の高い位置にいる非嫡出子の兄も、結婚はできても子孫を残す機能がない。
どちらが家を継いでも、血筋をつなぐことは不可能なのだった。
「久しぶりにここに立ちますが、いいものですね。滅多に会えない方に出くわします」
嬉しそうに言う青年に頷き返して、アンも笑った。
「お前が門番に立っているなんて本当に珍しいね。配置換えでもしたのか?」
この門番の青年は、いつもなら宮殿内の警護をしている。近衛師団のなかでも、わりと腕が立つので覚えていた。
「今日は陛下がお帰りになるそうなんで、こっちのほうに。ご到着を待って交代したら、そのまま宮殿内の仕事に戻ります」
「陛下が? ……知らないな、どこかへ出掛けていたのか」
アンの返答を聞いて青年は驚いた、という表情をする。首を捻って言葉を探すように続けた。
「半月ほどにもなるでしょうか。お忍びでバッソス公国へ。……と言っても、自分が知っているという時点で、実質お忍びではないと思っていたのですが」
違ったようですね。その顔は、〝言ってはまずかったか〟とでもいうように、さっと曇っていく。
アンは思案げに眉を寄せると、首を振った。
「いや、聞かなかったことにしよう。だからお前も忘れるといい」
「……は」
うなずきあってから、しばらくの沈黙が降りる。こういう時、いやでも感じてしまう時間の間――相手の頭の中では今ごろ、アンに降りかかった八年前の〝悲劇〟が映し出されているはずだった。
まだ皇子の身分だったバスクス帝と、宮廷中が騒ぎ立てるほどの深い仲にあったトスカルナの令嬢……。引き裂かれる形で終わった二人だが、帝都へ戻っても関係が修復されることはなかった。
笑ってしまうほど、自分たちは変わっていたから。
「すまないね」
何に対する謝罪なのか。自分でもわからないまま、正式な敬礼をもって、アンはその青年の横を過ぎた。
少尉の階級をもらい近衛軍医の階級を得て二年と少し。バスクス帝や宰相である兄、近衛師団の長を務めるワルターなどのつながりから、アンは自分がわりと側近に近い位置にいると自負していた。だが、実際は知らないことのほうが多い。今回のお忍びにいたっても、噂にさえ聞くことはなかった。
ため息をひとつだけ溢すと、アンは歩きながら、見えてくる実家の門を眺めた。
控えの侍女に「ウズは自室にいる」と言い渡され、アンは案内を断って室に入った。足の長い卓についた彼が、捲っていた書類から目を離してこちらを向く。
「何の用?」
不躾に言ったアンを無言のまま眺めて、ウズはその顔をゆっくりとゆがめた。橙色の灯が室内を照らしていたが、なぜなのかこの男の顔はいつも青白い。
「……挨拶も無しですか」
「そういう格式張った面倒な所作は嫌いでしょう。夕食も済ませて来たので、遠慮せず用件があるなら言ってください」
いきなり始まろうとする口論を抑えるように、ウズは深い息をついた。
「……わかりました。宰相命令です。ハレムのジャーリヤたちが懐妊していないことを診断し、公式の証明書を作成、帝国軍近衛師団軍医の名で提出するように」
〝宰相命令〟の部分に力を置いて言い放ったウズを見やり、アンは驚いたように目を開く。
「……私は本来、傷を縫ったり骨を嵌めたりするのが仕事なのですが」
「あの五年、テリゼアシダについていたのなら、妊婦は幾百も診ているはずです」
「それは、」
困ったように眉をひそめて、アンは口ごもる。
「まったくの無知ではありえない。そうですね? アンジャハティ・トスカルナ近衛軍医。これは、他の軍医には頼めない用件なのです」
他の軍医には頼めない。それは自分が軍内唯一の女医だからか、軍医としての信頼を以ってのものなのか。アンには判断することができなかった。
「……承知、しました。しかし、その為にはジャーリヤ達に最低一月はお籠もり頂かなくてはなりませんが」
懐妊を診断するには、最低でもひと月は必要。その間、バスクス帝との交わりを完全に絶たなければ確実性はなくなってしまう。本来ならばどこかの神殿に隔離されるのが慣わしだが、〝ハレムのジャーリヤが神殿に隔離されている〟というような噂は、昨今まったく耳にしたことがなかった。
「それならば気にすることはありません。陛下はすでに約一月、このアデプにいらっしゃらなかった。陛下自身がいらっしゃらないのであれば、お籠もり頂く必要もなくなる」
「……バッソスですか」
門番とした会話が浮かび、思わず口に出してしまう。ウズはいぶかしむような顔をした後、首だけで頷いた。
「知っていましたか」
「……軽くは。期日はいつです?」
「明後日の夜、陛下と私の前で報告すること。書面は後日で構いません」
ウズの返答を聞いて、アンはあからさまに顔をしかめた。
「ジャーリヤの数をご存知ですか」
「百二十八、いや、百三十一でしたか」
その口ぶりからは、数などどうでもいい、というような響きが聞いてとれる。アンは首を横に振って、ふっと息を吐き出した。
「給仕の数を入れればもっとだ。邪推な話をすれば、この時期では指を入れて着床を判断するしかありませんよ」
「方法は任せる。ただ正確さは欠かぬように。……それと、母上が泊まっていくようにと仰っておいででした。顔を出してきなさい」
言い終えると立ち上がり、書類をまとめて抱え持つ。
去ろうとするウズを眺めながら、「わかりました」とだけ返答し、アンは頭を下げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます