87 月の遣い


 帝都への出発を控えた朝。ジルヤンタータが脛充すねあての麻布を巻きつけていると、砂地を見下ろす視界に小さな足がふたつ並んだ。

「おはよう、ジル」


 足をたどって上を見上げ、ジルヤンタータはその声の主を見つめる。

「フェイリット……」

 どちらへ行かれていたのですか、心配したのですよ――そう言おうと口を開けたものの、ジルヤンタータは何も言うことができなかった。


 本当にあれでよかったのだろうか。そんな思いが、昨夜からずっと思考に纏わり付いている。

 彼女の母リエダは、国王の愛妾でありながらその実弟と結ばれた。挙句生まれた〝彼女〟は今、メルトロー王国の正式な王女として王籍に名を並べている。国王の嫡子ではないにも拘らず。


 そんなねじ曲げられた現実の中で、後悔してはいないだろうか…。「知らなければよかった」と。師と仰ぎ、兄と慕い、父のように守られて……恋心さえ抱いた育ての親が、本当に血でつながった「父親」だなんて。


 サミュエル・ハンスの血塗られた最期は、きっと更に辛い思い出になったはず。

 不安な気持ちを隠しきれぬまま、ジルヤンタータはフェイリットの顔を見つめていた。一晩中泣いていたのか、その瞼は赤くむくみ、水色の瞳を半分近くまでも覆ってしまっている。


「久しぶりに泣いたせいで、こんなになっちゃった」

 けれどその泣き腫らした顔が清々しいまでの笑顔を浮かべたとき、ジルヤンタータは「ああ、」と息をつかずにいられなかった。

「もう平気だよ」


 ――フェイリットが、泣いた。


 それはまるで、呪縛から解き放たれたように感じられる言葉だ。サミュエル・ハンスを喪ってから一度も泣けなかった彼女は――きっと、彼の死を乗り越えた。


「ごめんなさい。何も言わずに飛び出しちゃって…」

 彼女の笑顔が戻ってきた。そう思えるほど、けろりと笑って見せて、フェイリットは抱えていた黒のローブを身体に巻きつけ始める。

「またそのような格好を」


 偽る必要がなくなり身体を染めるのは止めたようだが、身なりは依然として小姓のまま。ターバンから色の薄い金色の巻き毛が、少しだけあふれてくるくると踊っている。刈るほどに短かった髪も、今では耳にかかるほどの長さだ。


「ヴェールとアバヤをお召しになった方が、日差しも防げますでしょうに」

 いつも通りの低い声で言いながら、ジルヤンタータは微笑む。荷の中からもう一揃いの脛充てを取り出して、フェイリットの足下に腰をおろした。


 太陽が砂上にきらめき、砂漠は相変わらず灼くような朝を迎えていた。

 マムルークはシャルベーシャを含めて三人、少し離れて待機している。バッソス公国に来た時には、遊牧の民が着る紺碧の民族衣装を纏っていた彼らも、今は完全な軍装で身を固めている。


 帰路はヤンエ砂漠を通らず、街道沿いを行く予定だ。新たに妾妃ギョズデ・ジャーリヤへと召し上げられた、ヒーハヴァティ公女の安全を優先するために。つまり、もう堂々としてもよい、ということになる。


「ありがとう。わたしたちも隊列に加わろう、ジル」

 ジルヤンタータが脛充てを付け終えると、フェイリットは顔をターバンの裾で巻き込んで隠した。布でくぐもった声はどことなく嬉しそうだ。


 妾妃ギョズデ・ジャーリヤヒーハヴァティの〝輿〟は、一番後方にあった。腰丈ほどの台座に乗せられて、艶やかな若草色の天蓋が風にふわふわと揺れている。


 本当に中に彼女が乗っているかは、ここからでは確認できない。零番目スフィルのフェイリットが騎馬で、 一番目ワーヒドのヒーハヴァティが輿だなどと。

 ジルヤンタータは釈然としない思いで、輿とフェイリットを交互に見つめた。


 ――輿に乗ることを当然のように断り、「馬に乗りたい」と言ってのけたのは彼女自身だ。不公平だと喚きたてるわけにはいかない。それでもジルヤンタータは、複雑な心境で自身の主を見上げる。


「大成功だったね。バッソス公国との友好は保てたし、いざという時には傭兵団もお貸しくださるって。…ヒーハヴァティ公女も、協力的だし」

 ジルヤンタータが眺めている方角に気づいてか、フェイリットは公女の名前を口に出した。


「協力的…そうでございますね」

 未だに彼女がバスクス帝をどう思っているのか、不思議でならない。好いているのかと思えば、こんなにも澄んだ目で、自分と別の妾妃ギョズデ・ジャーリヤを見つめている。

 そうしてふたり、言葉もないままに輿を眺めていると、風に揺れていた若草色の天蓋が不意に真ん中で分かたれた。


「誰か……出てきますね」

 布が左右に分かれ、何者かの頭が突き出る。ヒーハヴァティが出てくると思っていた輿から突き出た頭が纏うのは、どう見ても女の被るヴェールではなかった。


「陛下」

 横でフェイリットが呟くのと同じくらいに、バスクス帝が砂地へと降り立つ。ジルヤンタータは目を細めて、輿の方を注視した。

 彼の降り立った地面の砂が空気に浮き上がって、黄色い靄ができている。空に舞ったそれを見上げるような動作のあと、その目線の先にある天蓋が再び開いた。誰かと考えるまでもなく、ヒーハヴァティ公女その人。


 少しだけ高いところに位置する輿から出ると、ヒーハヴァティ公女はゆっくりとした動作で先に降りたバスクス帝の手を掴んで、地面にそっと足を落とした。ありがとうございます、とでも言ったのか、耳元で何かを囁き、その艶やかな笑みを披露している。


「まあ、仲がおよろしいこと」

 〝協力的〟なのではない。〝恋わずらっている〟のだと、にぶそうなフェイリットに説明してあげるべきだろうか?


 ジルヤンタータは、微笑んだのちにしな垂れかかった妖艶とも言えるヒーハヴァティから、まるで嫌なものでも見たように目を反らして、肩を竦めた。


「…いいことだよ」

 まるで何かを考えるように首を傾げると、フェイリットは気のない返事を口に出す。どこに興味を奪われているのか、その瞳はすでに違う場所を彷徨っていた。


 こういう態度が、バスクス帝への気持ちを疑わせるのだ。〝陛下〟と呼んだその口ぶりは、待ちわびたような、好いているような響きさえあった。なのにそう見えて、水色の瞳は次の瞬間には別のものを捉えている。


「フェイリット?」

「ああ、どうしたの?」

「……どうしたのって、」


 こちらの台詞ですよ、と言い切る前に、ジルヤンタータは城門の方向から馬を引いた男が歩いてくるのに気づいていた。

 オフデ侯爵らしき身なりをしているが、たった一人馬を引いて〝歩いて〟くるなどと、首を傾げてしまう光景だ。

 彼ほどの身分なら、自分の小姓に馬を引かせるか、その馬に乗るかしてもいいものなのに。


「オフデ侯爵閣下。わあ、きれいな馬ですね」

 両手を胸の前で重ね、すっと頭を下げて礼をすると、フェイリットは感心したような声をあげた。

「そうでしょうとも。月毛の馬は、珍しいのですよ」

 笑って言うオフデ侯爵に、フェイリットは深々と頷いている。


 それはまるで、本当に淡く輝く月明かりのような、素晴らしい牡馬だった。

「月毛の馬は、月とは名前がつくものの大抵が白やうす茶です。毛色も斑があったり模様が出たりすることが多いもの。このように単一色で、しかも淡い金色を帯びているのは、そう手には入らない」


 からだは淡い黄色だが、たてがみは少し色を抜いたような白さを持っている。しなやかな筋肉が背中から尻に浮き上がり、まるで「走りたくてたまらない」とでもいうように足踏みばかりを繰り返していた。


 ここまで均整のとれた体躯は、ジルヤンタータも見たことがなかった。

 メルトローは気候が冷たく、馬の育つ環境にはあまり向かない。そのために温暖な遠方から貿易で賄われているのだが、これを見ればはっきりとわかる。今まで自分が目にしてきた馬は、しょせん「貿易品」であったのだと。


 いい馬は、どこの国でも自国に隠しているのではないか。そう思えるほど、ジルヤンタータは驚いていた。


「お気に召しましたかな」

 牡馬を落ち着かせるよう、たてがみの生える首筋の辺りを叩いてやりながら、オフデ侯爵はフェイリットに笑顔を向ける。


「この馬は、私どものしでかした無礼の詫びに、バスクス二世陛下に献上する予定だった馬です。しかし、ジャーリヤ・タブラ=ラサがお気に召せば、差し上げるようにと」

「えっ……わたしにですか?」

 それこそ空を仰ぐほどに驚いて、フェイリットはオフデ公爵を見やった。

「ええ。褒美だと仰っていましたよ」


 オフデ侯爵と牡馬を目の前に、フェイリットは口を開けて唖然とする。

「誰が、」

「もちろん、バスクス二世陛下ですとも」

 〝褒美〟というのは、おそらくは水脈に関与する彼女の働きぶりに対するものなのだろう。彼女は寝る間も削って、よくやっていた。それをしっかり見ていたとは、バスクス帝も捨てたものではない。


「え、でも、わたし賭けには……」

「賭け?」

 ジルヤンタータが問うと、フェイリットは誤魔化すように声をたてて笑った。水脈を当てたことへの褒美ではないなら、一体なんだというのか。


「なっ、なまえは。侯爵閣下、名前はあるんでしょうか、この子」

「アルスヴィズ。あらゆる要求に応える賢い者、という意味です」

「……アルスヴィズ」

「母馬に似て賢い馬ですが、いささか融通がきかない荒い気性をしております。しっかりとたずなをお持ちください」


 たずなをオフデ侯爵から受け取って、フェイリットは馬のたてがみをそっと撫でた。指を絡めるとぶるる、と大きく息を吐く。琥珀のような瞳が、観察するような輝きを持って、じっと彼女を見つめていた。


「よろしくアルスヴィズ」

 フェイリットは馬の首筋を軽くたたくと、鐙に足を掛けて乗り上げる。体重がかかり、アルスヴィズは身じろぐように首を振ったが、怒って彼女を振り落とすようなことはなかった。


「あの、陛下は? お礼を言ってきます」

「……それが」

 フェイリットから視線を泳がせるようにして、オフデ侯爵はどことなく歯切れの悪い返事を返した。


 バスクス帝の姿を捜せば、先ほどに居た輿のところから少し離れて、ヒーハヴァティと二人、真っ黒な青毛の馬に乗っている。

「実は…ヒーハヴァティ様が輿にお乗りになるのが嫌だと仰ったもので」

 しばらく黙っていたオフデ侯爵が、言い辛そうにしながら口を開いた。


「輿が嫌なんですか?」

 フェイリットは意外そうな声で返すと、ヒーハヴァティ公女のいる方向をふたたび見つめる。

 後宮で〝王女様〟として暮らしていた彼女には、馬での長距離の移動はさぞ辛いもののはず。どう考えても輿や馬車のほうが乗り慣れているだろうに「嫌だ」とは。フェイリットの反応を確かめるように見上げると、


「気骨のあるお方なんですね」

 呟きながら、彼女は感心したように息をもらした。

 輿に乗らないとなると、使われる人の疲労もずいぶんと抑えられる。まして街道沿いを行く長距離の移動では、日にちも三日程度は見込まねばならないのだ。その間、限られた人数が輿を扱うことを考えれば、ヒーハヴァティの選択は、確かに臣下想いの「すばらしい行動」だ。


「ああ、そうですな」

 僅かに頷いて、オフデ侯爵は苦笑した。その先に何かの言葉をつなげるはずだったのか、開けていた口をそっと閉じる。


 フェイリットはじっと、馬に乗せられるヒーハヴァティを眺めている。彼女はバスクス帝の前に居て、やはりしな垂れるように彼の胸元へ身を寄せていた。その彼女の目が、一瞬だけこちらに……フェイリットのいる辺りに向けられたのを、ジルヤンタータは見てしまう。


 そっと馬上のフェイリットを仰ぐと、彼女は朗らかな顔で笑っていた。

「困ったなあ。乗ったはいいんだけど、実はわたし馬術ぜんぜん無――……うわわ、なんで? ぎゃっ!」

 嘶きとともに、彼女の言葉を待たずしてアルスヴィズは後ろ脚で勇ましく立ち上がった。その背から簡単に転げ落ちて、フェイリットは潰れたような悲鳴を上げる。


「不安な気持ちを持ってはなりませんよ」

 笑いながらも、ジルヤンタータは素早く行動した。

 即座にフェイリットを馬の下から引き出して、その蹄の下敷きにならぬ場所で助け起こす。


「ありがとう……」

「しばらくは相乗り致しましょうか。その方が尻の上げ方や調子の取り方を、ご教授しやすいかと」

 立ち上がり砂に埋もれた彼女の身体をたたくと、驚くほどの砂埃がもくもく出てくる。

 フェイリットは悠々としているアルスヴィズを見やってから、首を横に振った。

「嬉しい。でも、これはジルヤンタータに甘えてちゃだめだわ」

「フェイリット……」


 アルスヴィズの佇む場所へ歩いていって、彼女は何も言わずその首筋に手をあてた。

 何かを話しているようにも見えるが、後ろからでは彼女の背中と、馬の横面が見えるだけ。時折アルズヴィズの尾が揺れて、彼らがまったく固まってしまったわけではないことを思い出させる。


「何をしているのでしょうか」

 後ろ背を見つめながら、待ちきれずにジルヤンタータは呟いた。

「話されているのだろう」

 まるで「普通だ」とでも言うように、オフデ侯爵は応えた。


 そうして見ているうち、ようやくフェイリットはアルスヴィズの背中に乗り上げる。心なしか、馬の反応が先ほどよりも落ち着いているように見えた。

「さて。ジルヤンタータ殿も、騎馬で行かれるのでしたな? 隊列の中に用意致したので、自由にお使い頂きたい」

「まあ、ご面倒をおかけしました、――……?!」


 有難うございます、と頭を下げてジルヤンタータは礼を言う。が、その耳の横を突如、吹き抜けた砂まじりの風に驚いて身体を起こす。

「なにごとですか……!」


 慌てて見やった〝砂風〟の正体を見やって、ジルヤンタータは厭きれた。

「うあ痛った!!」

 すぐさま、叫ぶような声をフェイリットが上げる。その彼女の脇をシャルベーシャが笑いたてながら駆け抜けていった。


「おら、なにやってんだよ! 馬にも乗れねぇのか?」


 どうやら頭の後ろを思い切り小突かれたらしく、馬上で身体を傾けて頭をさすっていたフェイリットは、シャルベーシャの笑い続ける馬鹿にした声を聞いて、さっと顔を上げた。


「なんですって!?」

 流れるように素晴らしい手つきでアルスヴィズのたずなを引くと、わき腹をとん、と蹴ってフェイリットは飛び出して行った。


「……確かに、あの方には一からお教えするより、ああして身体に覚えさせる方が向いているのかもしれません」

 シャルベーシャの笑う声と、フェイリットの馬にも負けない嘶きが遠ざかる。

 一連の出来事を見送って、ジルヤンタータは呆れたように肩を落とした。見ていると、あっという間に隊列の先頭に出て、二頭で競り合いまで始めている。


「ジルヤンタータ殿」

 オフデ侯爵は、ほのぼのとした顔でその光景を見つめていた。なんでございましょう、と返事をしてジルヤンタータが彼を見やると、その顔からふと笑顔が消えていく。


「どうか、彼女をお支えしてあげて欲しい」

 目線は前を向いたまま。その言葉が何を含んでいるのか、ジルヤンタータには分かりようもなかった。



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