58 空色の瞳


 シアゼリタの部屋を出て、コンツェは螺旋に続く白磁の階段を下っていた。

 白磁といっても塔の階段は暗く、明かり取りの色窓も天井高くにひとつあるきり。点々と備え付けられた燭台の上の炎だけが、足元を照らす役割をする。

 顔が映るほど滑らかなその床に、ほんのりとやわらかな光が反射していた。辺りに溢れた橙色のきらめきは、まるで身を包むようにずっと続いている。


「久しぶりに見ると、目がくらみそうだな」

 メルトロー様式のテナン王城には、至る所に背の高い塔が乱立している。まるで柱のように王宮を取り囲み、空中でつながる回廊が幾本にも伸ばされているのだ。


 けれど唯一、西の棟にあるシアゼリタの王女宮からは、客人をもてなすための瑪瑙宮めのうぐうまで辿り着くことができない。それはまさしく、父王の溺愛ぶりが窺える創りだった。

 昔はすべての塔が回廊でつなげられていたと聞く。だがシアゼリタが生まれた辺りに、そのひとつが壊されたのだ。年頃の娘を、外部にあまりさらさぬようにと。


 そのせいで別塔に行くには階段を一度下まで下り、庭園を突っ切って移動しなくてはならない。

 コンツェ自身、幼かった故にあまり記憶に残っていないが、あの頃にシアゼリタを連れた継母が王女宮に移ったことは覚えている。

 白磁の階段を下りきると、視界が急に白くなった。眩しさに腕を持ち上げて、コンツェは目を細める。


「……瑪瑙宮めのうぐうは、」

 客人がもてなされる宮の名を呟いて、手をかざしたまま辺りを見渡す。王女宮は西側に建てられているから、東に建つ瑪瑙宮は間逆の方向だ。


 庭園は、さわやかな甘い香りと、美しい花に溢れていた。膝丈ほどにのびた深緑の茎の先端に、小さな黄色い花がぽつぽつと咲く。春の花の群れを縫うように敷かれた、白の石畳が太陽を鮮烈に反射させている。


「まったく、誰がこんなに面倒な創りにしたんだ」

 それは他でもない父王だったが、それでも回廊をひとつ潰しただけでこんなにも不便になろうとは。もとからの創りが凝りすぎているのだ。

 苦笑を浮かべながら、コンツェは懐に手を差し入れた。かさりと音をたてたのは、去り際にどうしてもと渡された焼き菓子の袋。


 ティリ・ヤローシテ夫人が焼いたと言っていたが、やりたがりの妹が黙って見ていたとは思えない。きっと彼女の手も、少なからず加わっているのだろう。

 行儀が悪いと分かっていながら、コンツェは袋の包みをあけて中を見る。なにしろ庭園を縫う石畳は、まわりくどくも中央の噴水へと一度つながり、そこから方々へ分かれる仕組になっている。

 この道のりの退屈さを凌ぐには、食い歩きでもしていたほうが気が紛れるはずだった。


「……チェクチェロ、」

 そうして見おろした袋の中身にはっとして、コンツェは足をわずかに止める。

 チェクチェロの甘焼きは、帝都を出る前夜、フェイリットのためにと買った菓子だ。思わぬところでまた彼女のことが甦り、コンツェは焦りに似た感覚が腹の奥を押していくのを感じた。


 ……あれでよかった。あそこで彼女に気持ちを――好きだということを吐露していたら。その返答が〝否〟ならば、自分はもう「還ろう」とは思えなかったはずだ。

 王太子の選定を無事に自分ではない方向へ向けるまで、本土に還ることは叶わないにしても。

 彼女に会いたい気持ちがふつふつと湧き上がるのを、コンツェは溜め息で沈めるしかなかった。少しだけ齧った甘菓子の味はほんのりと甘く、舌の上に熔けていく。


「フェイリットも、気に入ってくれただろうな」

 女性と子供に好まれるその味は、本土だけでなく、テナンにも渡って売り出されるようになったようだ。そうでなければ、彼女たちがこの菓子を知るはずがない。


 菓子をかじりながら俯き加減に歩いていると、不意にぽっと石畳が広がりをみせる。

 ようやく噴水まで来たか。心中で呟いて、さらさらと鳴る水音のほうへ目を上げた。

 石畳を掘り込んだ中に水を貯めて、その中央に円形の台がある。水が噴き上げるのは円形の台ではなく、それを取り囲む堀の部分。台は何のためにあるかといえば、演劇やら武闘やらを催すためだ。


 ちょうどよく噴き上げた水に、中央の舞台が隠される。

 サアァァァ……風に乗り、頬をかすめた水のしぶきが心地良い。目を細めて虹のかかるそれをじっと見やってから、コンツェは驚きに口を開けた。

 再び現れた舞台の上に、寝そべる人の姿――。


「……フェイリット……?!」

 うつ伏せに、顔だけを横にしたその顔には覚えがあった。

 陽の光を浴びた白い頬に、くせのある金の髪が影をつくっている。わずかに上を向いた愛嬌のある鼻筋も、やわらかそうな桃色の唇も、閉じた瞳の安らかさも、間違いなく覚えている。そう、あの閉じた瞳をひらけば、湖水色の……、


 舞台の上の人物は、不意にその目をふわりと開く。人がいる気配に気づいたのだろう。けれど覗かれた瞳は、彼女の瞳の色よりも、わずかに濃い。ちょうど今日の空の色に似た、蒼い蒼い空色だった。


「おや」

 とその唇からやわらかな声が呟かれるのを聞いて、コンツェは目を見開いた。

 フェイリットの姿をしたその人物は、うつ伏せていた身体の下に手をつき、ゆっくりとした動作で身を起こした。頬に垂れていた髪が、するすると肩すじまで落ちていく。


 ――違う、フェイリットは、少年かと見紛うほどに髪が短かったはずだ。その相違に気づいてから、さきほどかれから発せられたわずかな声が、男声だったことを思い出す。

「誰だ……?」

 コンツェは擦れた声でその人物に問うた。

 フェイリットの姿をした、フェイリットではないその男。

 握っていたはずの甘菓子が、いつの間にか足元に転がっていることに気が付いて、コンツェは眉をひそめる。


「誰? それを聞くのか」

 すっと立ち上がり、その人は自らの足が濡れることも厭わず噴水の堀を渡ってきた。

 撥ね返る水の音を聴きながら、足が知らずと後ろへ逃げる。歩み寄る謎の人物が、いいや、その人物の正体を知るのが、堪らなく恐ろしいことのような気がした。


「お目にかかれて光栄だよ――コンツ・エトワルト第五王子」

 目前に立つその人は、フェイリットよりも上背があった。並ぶ空色の瞳を見てから、ふと視線を下げる。その口元に、血のかたまりのような痕があるのを見つけてしまった。

 相手が自分の名を知っていることよりも、それはコンツェの心中に驚きを呼ぶ。


「……失礼。具合が悪かったもので、あそこで休んでいたんだけど」

 コンツェの視線に気づいてか、ふっと苦笑してかれはその口元を拭った。あどけなく笑う「彼女」の笑顔とは少しだけ違う、大人びた表情。


「あんな所で? 部屋なら瑪瑙宮に……」

 そこまで自分で口にしてから、コンツェははっとして言葉を切る。どうして気が付かなかったのか。瑪瑙宮にいるのは――メルトロー人しかいない。

 繋がりゆく疑問の糸の切れ端。コンツェはこめかみに鈍い痛みを感じていた。

 彼は、彼女は、メルトローの……。


「僕の名前はロティシュ・アシュケナシシム。メルトロー王の庶子だと言えばいいかな」

 頭の血が、一気に足元まで下がりゆく。



がいつも、お世話になっているね」



 ――……同じ顔のメルトロー王族。

 コンツェは青ざめた顔で、何も言えずに少年を見つめた。




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