57 シアゼリタ・ロア


 艶消しした濃茶の扉の前で、女性が朗らかに笑った。

 テナン公国の衣装はメルトローにとても近く、女性は肌を露出しない。きっちりと踝までを覆う裾の広がったドレスが、彼女の礼とともにふわりと浮いた。やわらかな黄色は、鳥の雛の産毛を思わせる。


「エトワルト王子殿下」

「ティリ・ヤローシテ夫人」

 呼びかけるコンツェに微笑んで見せて、その女性は扉の取っ手に手をかけた。

「お久しぶり。ほんと、男前になりましたわ。しばらくぶりですものね」

「お変わりないようで安心しました」


 胸に手をあて頭を下げると、夫人は声をたてて笑った。すかさずその右手が差し伸べられて、コンツェは苦笑する。

「ぎくしゃくしてますわよ。すっかり帝国に染まってしまって」

 夫人の右手を軽く受け取り、その甲に唇を落とす。忘れていたテナン宮廷の作法に、つい辟易してしまった。


「いえ。お久しぶりです、フィティエンティ」

 女性が表に出ぬ風習を長く保ってきたイクパルと違い、テナンはこうして宮殿の公の場にも女性がたくさん存在する。コンツェはヴェールを被らぬ夫人の明け透けな微笑みを見つめて、予想していたよりも、自分はイクパルに馴染んでいたのだと思った。


「シアゼリタはいますか」

「ええ。先ほど図書の間よりお帰りになられたところですわ」

「相変わらずだな、」

 扉の取っ手を引き開けながら、コンツェの返す声に夫人は振り返って笑う。

「でも、おひとりじゃありませんのよ」

「……?」


 夫人が扉を開けた途端、目の前に真っ黒な影が見えて、コンツェは慌てて身を引くことになった。

「……失礼、」

 その影が人だったことに、再び驚きに目を開く。目の前に灰色の瞳がふたつ並び、それが怪訝そうに細められていた。


 抜けるような白い肌に、すっきりした顔の青年。結わえぬままの漆黒の髪が肩をすぎた辺りまで垂れている――メルトロー人……? だろうか。

 漆黒の髪を見つめていぶかしむコンツェに、その人物は咳払って存在を示す。


「ああ、こちらこそ、失礼しました」

 コンツェの方が扉より離れていたために、脇へ寄る形になった。過ぎ去っていくそのローブを見つめて、見覚えの無い背中の紋章を見送る。蛇のような動物が、三本の剣に巻きつく紋様。


「……愛想の無いお方ですこと」

 ぼそりと呟いたティリ・ヤローシテ夫人を横目に見やって、「誰ですか」と問うてみる。

「あの方は……、」


「エトワルトお兄さま!」

 夫人の声を打ち消すように、部屋の奥から名前を呼ばれた。その方向を見やると、捜していた少女が窓べりに置いた椅子から立ち上がるところだった。

「じゃあ、間に合いましたのね!」

 駆け寄ってくるその両肩に手を置いて、コンツェは笑んだ。彼女が手紙を書いてくれなければ、今頃は「猶予」もなく王太子だったろう。


「有難う。助かったよ」

「よかったわ。もうどうなることかと……、」

 長いため息をつきながら、シアゼリタは手の平を自らの額にあてた。

 大人びたものだ。最後に見た時よりも、目線の高さが違う気がする。

 昔は伸ばしたままだった栗色の髪も、綺麗に編んで結い上げて。耳の辺りにひとつだけ下げられた、ドレスと同色の裾の長い緑のリボンが、彼女の仕草にするりと揺れた。


「さっきの方は?」

 お茶を用意致します、と言い残して部屋の奥に行ったティリ・ヤローシテ夫人を見送って、コンツェはシアゼリタに問うた。

 椅子を勧められて座りつつも、妹の頬がわずかに赤らむのを見つけてしまう。


「お客さまよ。今、色々とメルトローの方がお越しでしょう。わたくしにも挨拶をと、いらっしゃったの」

「そう……なのか?」

 色々とメルトローの方が、と言ったシアゼリタの言葉に、いけ好かぬ青年の顔が思い出されて眉をひそめる。せっかく忘れていたのに「こちらから伺う」などと、嘘でも言わねばよかった。


「どうかなさいましたの?」

 小さな円卓の向こう側から、シアゼリタの紺碧の瞳がじっと見ている。コンツェは顰めていた顔を元に戻して、息を吐いた。

「メルトローからの使者は、そんなにたくさん来てるのか」

「ええ。お会いしただけでも五人ほどは。これからどんどん増えるかもしれませんわね……困ったわ」


 首を傾げて項垂うなだれる割にあまり困ってなさそうなのは、気のせいだと思いたい。シアゼリタも彼――アロヴァイネン伯爵に会ったのだろうか。

「その中に覆面をしている男で、アロヴァイネン伯爵とかいう、」

「カランヌさまのこと? 覆面なんてしていたかしら」

 間を置かずに返ってきた返答に、コンツェは思わず瞠目してしまう。しっかりと〝挨拶〟を受けていたというわけだ。


「会ったのか?」

「ええ。すごく綺麗な方でしたわ。あれは、そう、御伽噺から抜け出てきた王子様みたい。緩い巻き毛の金髪と、綺麗な芝色の瞳。メルトローにある天使の彫刻みたいな顔だったわ。ハネア・トルシ夫人なんか、もう気絶しそうなほど真っ赤になっていましたのよ」

「顔、見たのか?」

「ええ。確かに、覆面なんてしていませんでしたわ」

 楽しそうに笑って、シアゼリタはすっと視線を横に流した。それを追って振り返ると、盆の上に茶器を載せたティリ・ヤローシテ夫人が戻ってくる。


「ね、ティリ・ヤローシテ夫人。貴女も見たでしょう」

 円卓に茶器を並べながら、ティリ・ヤローシテ夫人が頷く。

「でも少し、女性には優しすぎる方でしたわ」

 お気をつけ下さいませね、とティリ・ヤローシテ夫人がシアゼリタに応える。「女性に優しすぎる」というのは、要するに……そういうことなのだろう。


 それにしても何故、覆面などつけていたのか。彼女たちの今の話し方を聞いていれば宮廷内では勿論、つけ歩いている姿を見かけたことは無いようだ。「顔が美しいから隠している」と自身満々に言い放っていたことを思い出すと、歯が浮いてくる。


「カランヌさまがどうかなさいましたの?」

 シアゼリタにそう問われて、コンツェは首を横に振るしかなかった。

 ここで鬱々としているより、用事があるならば早く終わらせてしまおう。そう思って席を立つと、シアゼリタが顔を曇らせる。


「もう行ってしまわれるの? せっかく色々なお菓子を用意しましたのに。夫人のお手製なのよ」

「ああ、すまない。明日ゆっくり会いにくるよ。夫人も、ありがとう」

 追いかけて席を立ったシアゼリタの頬を撫でて、コンツェはカランヌに会いにいくため扉に向かった。


 ―――まさかその出会いが、自分の選択を大きく変えるものだとは知らずに。



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