44 星の大海、灼炎の夜空
◇◇◇
《 お兄様、お元気でいらっしゃいますか。
きっとお兄様のことだから、平和そうなお顔をして、相変わらず城下をぶらぶらお歩きなさっているのかもしれませんね。
そう考えると不思議と心が穏やかになります。わたくしは自由に外には出られない身だから、少しだけ羨ましく思うけれど。
皆がお兄様のお顔をご存じないと、あまり過信してはだめよ。公子なのに中隊長、という変わった肩書きはけっして地味ではなく、逆に人目を惹くもの。
テナンにはひと足早く冬が訪れました。越冬するために北の海から海鳥たちも港に帰ってきて、鳴き声がとても騒がしいの。
秋にお会いできなかったこと、とても残念に思っています。
わたくしの誕生会、ぜひおいでいただきたかった。もう十四歳になりましたのよ。
お兄様のあとをついて、庭森を駆け回っていたのがつい昨日のことのように思い出されますのに。月日とは、無情なほど早く過ぎ去ってしまうものですね。この分だとあっという間に婚姻が決まって、お兄様に会わないうちに嫁いでいかねばならないかも。
シアゼリタは元気です。少しだけ、やはり婚姻のことが気になっているけれど。実は候補に挙がっているのが何件かあって……。まだ、決まったわけではないのですが。なんだか心苦しい毎日です。できるなら、このまま王城に留まりたかった。なんて、我がままですわね。
これ以上我がままを考えてしまわぬうちに、お兄様がお顔を見せてくださるのを待ち望んでいますわ。婚姻のお話は、進んできましたらまたお伝えしたいと思っています。》
◇◇◇
頭上に迫るほどの、満天の星空。方々から散る流星のひかりが、絶え間なく視界を横切っていく。
「満月じゃないのが残念だな」
コンツェは呟きながら、自分の声が少し震えているのに気がつく。
――明日の今ごろは、きっと海の上。テナンへの海流を、上っていることだろう。
久しぶりの故郷だというのに、すこしも気分が浮き上がらない。
酒に潰れたフェイリットを背負い屋上に登ってから、すでに二刻ほども経っていた。
本当なら客室の、柔らかい寝台に寝かせてやるべきなのかもしれない。しかし程よい酒の入った状態で、コンツェには理性を抑えきれる自信がなかった。
依然目覚めないフェイリットは、屋上を区切る壁に背をもたげ、コンツェの肩に頭を預けて安らかな寝息を立てている。こうして頭を預けられているだけでも、抱え起こして唇に触れたい衝動にかられる。
「なあフェイリット」
眠っている彼女に、尋ねる。
「俺と逃げよう――って言ったら、お前ならどうする」
問いの返事を得たとして、現実はそう簡単にはいかない。ならばどちらの返事も、聞かないほうがましだったが、
「……俺は、逃げようとしてるのか」
気づいてしまえば、なんのことはない。
怖いのだ。権力も王位も帝位も、本当はすべて捨て去るつもりで本土へ渡ってきた。だから軍に所属しても、さしたる昇進も受けずのらくらと過ごしてきたのだ。
それなのに、ここまで来てどうして捨てきることができないのだろう。
足が、気持ちが、故国へと向きかかっている。国など知るものかと公子の位を返上し、ただの軍人として生きる道もあろうに。
それを選ぶことができぬ
「……コンツェ」
微かな声が上がって、コンツェは隣を見下ろした。
わずかに顔を上げたフェイリットが、床の辺りに視線をさまよわせている。しばらくそうして寝ぼけたようにぼんやりとしていたが、ふとコンツェに戻ってきたその瞳は、しっかりと焦点が合わせられていた。
「大丈夫か」
肩越しの温もりが離れていって、なんだか少し物寂しい。そんな気持ちを味わいながらも、コンツェはフェイリットの額の辺りを軽く撫でてやった。
「うん……あんなに強い酒だったんだね、びっくりした。まだ頭がクラクラしてる」
「すまない、気づかなくて」
「ううん」
ふらふらと立ち上がって、フェイリットは頭上を見上げた。
「すごい星だわ」
雲ひとつない、遥かに広がる星の大海。
砂のつぶに似たまたたきが、億千ほどもあろうかという宝石さながら、きらきらと空に輝いていた。十を数える前からここに長く住んでいるのに、コンツェでさえ、こんなにも冴え渡った夜空を見上げたのは初めてだった。
「流れ星……!」
フェイリットは感嘆の声をあげるままに、駆けだして仕切りの塀に両手をかける。危なっかしいその動作をはらはらしながら眺めて、コンツェは自らも壁から背中を離した。
「さっきまで寝てたやつが元気だな…落ちるなよ」
歩いて行って隣に並ぶと、空ばかり眺めていたその水色の瞳が、コンツェへと下ろされる。
「だって、こんなにすごいのアルマ山でも見たことないもの。――それに、ここから落ちたって死なないから平気」
フェイリットはあどけなく笑って、塀から通りを覗きこんだ。その仕草に従ったあと、コンツェは慌てて身を引き戻すことになる。
平気では決してない。酒場から階段を上れば、屋上は四階建てに近い高さにもなる。受け身のとれる屈強な兵士ならともかく、華奢な少女の体が叩きつけられれば死ぬ確率の方がうんと高い。
「試してみる?」
わずかに細めて、こちらを見つめる水色の瞳。からかうような、真面目なような、判断の付かぬ顔つきだった。
「やめてくれ、酔っ払ってるのか」
「そうかも」
冗談めかして苦笑するフェイリットの横顔を、コンツェはそれともなく眺めていた。あまりに澄んだその瞳は、横から見ていても向こう側が透けて見えそうなほど透明だ。
ずっとこらえていたものが、じわじわと溶け出してくる。
思わずその頬に手を伸ばしかけたところで、思い出したように彼女が振り返ってしまった。
「わたしね、もう逃げてきちゃったの」
「え?」
「国も両親も、育ての親の願いも、自分の置かれてる立場も――そういうの全部捨てて、逃げてきちゃったんだ。わたしのせいで、死んじゃった人までいた。今もきっと、いろんな人に迷惑かけてる」
ひどい奴って、思うでしょう。そう残して、フェイリットは横顔のまま、苦笑した。痛みを覆い隠すような笑顔。
コンツェは眉をひそめて、自嘲した。きっと先ほどの
「大切な人だった。もっとわたしがしっかりしてたら、あんなことには……。でも、どっちの道が正しかったかなんて、今になってもわからない」
「フェイリット、」
「逃げるなんて、言わないでコンツェ。何があったのかはわからないけど、どっちを選んでも辛いことに変わりはない。逃げることにはならないわ」
――気づいたときにはもう、彼女の腰を掴み唇を重ねていた。
腕の中で、小柄な体がかすかに身じろぐ。拒絶されるかもしれない……そんな怯えは、頭の隅に吹っ飛んでいた。今はただこの少女が、たまらなく愛おしい。
「……テナンに戻るかどうかで、悩んでたんだ」
「テナン、って」
唇を手で押さえて、真っ赤になっているフェイリットに頷く。
「故郷だ。けど、おかげで決められた」
フェイリットの金の髪は、月夜に照らされた砂漠の色に似ている。思わず触れたくなるような、くるくると巻かれたやわらかい髪。指に絡め後ろに梳いてやって、コンツェは笑みを浮かべた。
「行くよ、テナン」
そして必ず、戻ってくる。……必ず。この少女に想いを伝えるために。
「だからどうか、忘れないでいてほしい」
このかがやく星の海と、俺のことを。
君が覚えていてくれるなら、またここへ戻って来ることが、きっとできる。
―――憶えているか?
かくて、大海に似た星空の
◇◇◇
《 ところでこんな手紙を急に――それも人目に渡らぬよう計らってまでお兄様にお送りしているのは、少しだけ気になることがあったからです。長々と前置きをしてしまってごめんなさい。
火急の知らせなのに、あまりにも大きなことに、いったいどう記したらいいか……いいえ、こんなことを書いていてもだめですね。
はっきり申し上げますわ、コンツ・エトワルト兄上。
テナンはじき、王太子の選定をいたします。それに皆が、誰を推そうとなさっているか。もうおわかりですわね。
お隠しになられていたお兄様の素性が、王宮の中枢部に知れ渡りつつあるのです。
――お兄様が、皇帝陛下の弟君だというお噂が。
これは皇帝陛下に取って代わろうと目論む人たちには、格好の神輿に見えるに違いありません。わたくしたち兄妹も、どうにか大事に至らぬように計らうつもりです。けれど、渦中のお兄様がいらっしゃらないことには……。
選定は本人の出席の有無とは関係無く執り行われます。拒否権が、その場に出席しないかぎり得られぬのは、お兄様もご存知のことでしょう。コンツお兄様、一刻も早くお帰りになって。このままでは、お兄様の一番望まぬことが起きてしまいます。
この手紙が変なところで二つに途切れているのは、運び手を二人に分けたから。後半の手紙の運び手には、万が一他人に渡ることがあったなら、事前に燃してしまうよう言いつけました。
誰かの目に触れるとしたら、前半の手紙だけになるはずです。だからもしこれを読んだなら、必ずテナンにお越しください。お兄様のご決断は、もうお決まりのこととシアゼリタは信じています。
運良く運び手が二人とも、お兄様のところへ届きますように。》
◇◇◇
【 千年の竜血の契りを、あなたに捧げます − 幕間・終 − 】
「いかが致しますか」
読み終えた二枚の手紙を、スリサファンは元通り、鷹の足に結べるほど細かく折りたたんで、両端に蜜蝋で封を施した。
――まさかこの国に、そんな裏があったとは。
あの純粋で人の良さそうな青年が、テナンの公子というのは公のこと。しかし本当は、テナンの血筋でも何でもない。先帝の隠し種だとは、一体誰が思うだろう。
「 鷹たち、カランヌ殿とノルティス国王陛下、両方に伝令を。せっかくですから公女のささやかな知恵と思いやりは、このまま届けて差し上げましょう」
〝鷹〟呼ばれた女が二名、スリサファンに向けてかしずいた。彼女らははいわゆる〝鷹を使う使者〟だ。必要な国々に潜んで、鷹を飛ばす始発点と終着点となるのが役目の者たち。
隠密と諜報に長けた彼らは、普段はまったくそれとは知られず生活している。絶対の信用を持ち、かつ民草に混じわり生きることのできる者でなければ、その役目は果たすことができない。
「それにしてもよく機転の利く公女だこと」
手紙を何通かに分けることは鷹を遣う上では定石のこと。しかし、そのうちの一通を餌にして、万一の場合を考えるとは。あれ一通だけでは、確かに手紙の本すじはわからない。二鷹とも、こちら側の手の者でなかったなら、今頃はこの事態も知らぬところとなっていたはず。
「では、私はこのままエトワルト公子の元へ」
「私は少し時間を置いて公子へお届け致します」
二鷹は立ち上がってメルトロー式の礼をしたのち、ひらりと路地裏へ消えていった。
スリサファンは脱いでいた黒のヴェールをまた目深に被り直し、城のほうへと身体を向ける。
「あの純粋そうなお坊ちゃんは、果たしてどちらを選ぶのか」
その気概があの若者にあるのならば、メルトローがイクパルを手に入れる日は、ずっと間近に迫っている。
――スリサファンはもう一度帝宮を見上げると、そこへむけて歩き出した。
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