43 ワデム酒
「おい大丈夫なのか? そんなに飲ませやがって」
向こう側の厨房から、イディンバが眉を顰めてこちらを覗き込む。
「そんなにって……二杯だけですよ」
絨毯に丸くなり、起きているのか寝ているのかわからないフェイリットを見やって、コンツェは顔を曇らせた。
〝そんなに〟とは言うものの、実際は酒瓶一本すら空けていない。小さな碗に並々と盛られた酒を二杯だけ、食事の合間にちまちま飲んでいたくらいだ。
そっと彼女の顔を覗くと、耳まで真っ赤になっている。これは本当に大丈夫なのだろうか。
「お前を基準にすんじゃねえ。ありゃ
イディンバは、投げやるように言った。ワデム、といわれてコンツェは青ざめる。
「ワデム?」
「お前らいつもそれだったろ。なんだ、気づかねえで飲んでたのか」
度が強いくせ、喉が焼けるような特有の癖もまったくなく、飲み続けたら死ぬまで飲めるほど強い酒。ワデム……別名を炎酒とも言う。
祝い酒として振る舞われるのが普通だったが、〝いつもそれだったろ〟というイディンバの言葉で、ようやくワルターが好んでいたのを思い出す。付き合わされてコンツェも飲んでいたのは違いないが……。
「……なんで早く言ってくれなかったんですか」
「何でって、お前、ガキの頃から平気そうに飲んでたじゃねえか。そのお前が連れて来るぐらいだから、そいつも強いんだと思っちまったんだ」
平気そうに、というイディンバの言葉に、思わず渋い顔をする。
平気なわけがない。普通の酒として飲めるようになったのは、十八かそこらからだ。それまでは必死に気を張り詰めて、ワルターの酌に付き合っていたのを覚えている。
ワデムにニ杯だけ、というのは通用しない。ふつうの酒なら一瓶や二瓶、軽く空いてしまう分量となる。飲めぬ者が飲んだなら、中毒で死んでしまうほどの。
「すみません、とりあえず上、借ります。あとで水を」
「おう、
あんなとこでする度胸はお前にゃないだろうが。そう付け足した店主に肩を竦めて見せ、コンツェは立ち上がる。
周囲から丸見えの〝屋上〟でなどと、そんな度胸は欲しくはない。
「フェイリット、歩けるか?」
背中をぽんと叩いて起こしてやるが、どこの言葉だかわからぬ返答が返ってきただけだった。国境に近い出身とはいえ、一体どれだけの言語が操れるのだろう。コンツェは言語には疎かったが、今の響きはメルトロー語のように聞こえた。出会ったときはリマ語を話していたし――、つくづく不思議な少女だ。
「フェイリット」
そっと体を起こしてやると、かくりと仰け反って、そのまま身を預けられる。水色の瞳は瞼のむこうに完全に閉ざされ、安らかな顔がこちらを向いていた。
「おいコンツェ」
背後からの声に振り返ると、イディンバがにやりと笑う。
「こっちの階段はお望み通りの屋上で、あっちを登りゃあ客室だ」
ひゅっと目前を横切る銀色のものを空中で掴み取ると、手のなかに小さな鍵が収まっている。
しばらく鍵を見下ろして、コンツェは苦笑した。
「嫌がる子を丸め込むのは得意じゃないんで」
イディンバにさっと投げ返して、そのまま絨毯の敷かれた台に腰をかけた。
「……ほらフェイリット、おぶされ」
軽く揺すってやると、ぼんやりと目を開けてのろのろ背中に上り来る。それぐらいの意識は残っていることにコンツェは安堵しつつ、彼女が落ちてしまわぬように支えた。
「掴まれ、」
後ろから、やわらかな腕が伸びて首元に絡まる。コンツェは眉をひそめて、立ち上がった。ささやかで、やわらかい重み。両腕で抱えたほうがよかったかもしれない。これは理性を保てる気が…、
「サミュン」
背中から呼びかけられたその言葉に、コンツェは我に帰る。
「俺はコンツェなんだけどな、フェイリット」
階段をのぼりながら少しだけがっかりして、コンツェは首にある彼女の腕をぽんぽんと叩いた。眠っているような吐息が返ってきて、思わず笑ってしまう。
階段のつきあたり、小さな出口に掛かる垂れ幕を押し開き、腰をかがめて仕切りをまたいだ。
「ほら、ついたぞ」
相変わらず風は生暖かいが、すっとした外気は酒で火照った体に心地がいい。
フェイリットをゆっくりと地面に下ろし、壁際に寄りかからせる。
自らもその隣に座って、コンツェは一面の星空をゆっくりと見上げた。
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