42 ティカティク亭
「ティカティ……赤い?」
隙間なく並ぶ建物の一角で、土壁に埋め込まれた手のひらほどの小さな看板を読みながらフェイリットが首を傾げる。
フェイリットは、食事の誘いに応じてくれた。「そういえば、おなかすいたね」と。走ったせいで噴き出したのだろう額の汗を拭いながら、彼女らしい人懐っこい笑顔を見せて。
コンツェは沈んだ気持ちを晴らすのに、一人で酒でも飲もうと考えていた。だが、やはり連れがいるのはいい。
それも会いたいと思っていた人物に、幸運にも会うことができた。テナンに旅立ったら、たとえ無事にここへ戻りくることができたとしても、一月はかかってしまう。そうなってしまう前に、顔だけでも見ることができてよかった。
「ティカティク亭。赤い鳩って意味さ」
選んだ食事屋は小姓時代、ワルターに連れられて何度も通ったことのある馴染みの店。少し入り組んだ通りにある、あまり知られていない小さな場所だ。
当時は中佐の役職にあったワルターは、部下に奢ってやる以外の、本当に酒だけを楽しみたい時だけにここを利用していた。色々と面倒なことが多いコンツェとフェイリットにとっても、ここはぴったりの場所だ。
「へえ、いい匂い。胡椒スープの匂いだよね」
「ああ、典型的な家庭料理だからな」
ティカティク亭も例に漏れず、タナの香りが軒先まで流れ出していた。
「ほら、先にくぐれ」
ところどころが擦り切れて、穴の開いている麻の垂れ幕をめくると、よりいっそう独特な香草の匂いが鼻腔に流れ込む。
「わぁ」
店の中に入ったフェイリットが、ため息のような声を上げた。
「イクパルの店、初めて入った」
店の床は土で固められ、その両側に一段高くなった場所がある。絨毯が敷かれ、そこで客が食事をするつくりだ。
きっとフェイリットが想像していたのは、卓と椅子がいくつも並び、長台の裏手に調理場があるような、メルトローやリマの形式なのだろう。イクパルの家々は、あくまで床上での生活を基礎とする。
別区画にある厨房にいるのか、店主の姿は見えなかった。
「座ってようか。店主もきっともうすぐ出てくるだろうから」
「そうだね、」
店主は、コンツェたちが座ると間もなく現れた。予想通り厨房へと続く垂れ幕の向こうから、大きな体がのっそりと出てくる。太っているわけではないのに、つきすぎた筋肉と骨格のせいで、どうにも〝のっそり〟という表現が似合ってしまう。
彼――イディンバは、コンツェの顔を一目見て、ぽかんと口を開けた。
「――……お前、まさかコンツェか?」
イディンバは大きな身体を揺らすようにして台の上に上ると、コンツェの頭を鷲掴んで大声で笑う。
「よおぉ、元気だったのか!」
こういう人だったな、と思い出して、コンツェは苦笑しながら頷いた。
「お久しぶりです」
もうかれこれ何年も顔を合わせていなかったが、それでも覚えていてくれたらしい。
わきに座ったイディンバに会釈して、コンツェは続けた。
「お元気そうでなによりです」
「なにを他人行儀に。毛も生えねえ頃からお前の顔は知ってんだ。だが、ここ三年は見てなかったんじゃねえか」
「ええ、大佐に軍へ入れてもらったので」
もともと、文官になる気はまったくなかった。卓の前にじっと座っているということが、堪らなく苦痛だった。中隊長の職務に卓仕事がないかといえば嘘になるが、要は性分なのだとコンツェは思っていた。
外で馬を駆り湾刀をふるう。それが自分の気質に合うのだと。ワルターの小姓になって、そのまま軍人の道に進むことになったのは当然のように思える。
「はぁ、もう一人立ちか。それにしちゃ背も伸びたもんだなあ、俺を越しちまうなんてな。……で、そいつがお前の小姓か?」
目線をフェイリットに下げて、イディンバが問う。
「いえ、俺はまだ小姓は取れませんよ。この子は別の方の小姓です」
イディンバは肩を竦めて口の端を引き上げると、フェイリットに笑いかける。
「この子とな。坊主、名は?」
「……フ、フェイリットです」
戸惑ったように口ごもりながら、向かいに座るフェイリットが答えた。
「よし、さあフェイリット、何が食べてえのか言ってみろ。ちなみに昨日入ったマトゥのタナは美味いぞ」
「マトゥの、スープ?」
北方の民はマトゥを食べないのか、フェイリットは初めて聞くような顔をしていた。
イディンバは得心いったように頷き、説明をはじめる。
「なんだ、そうかお前は北方の顔だからなぁ。マトゥは砂漠に生る、赤い実の野菜だ。水は一切入れねえで、マトゥがもってる水分だけでつくるタナ――スープだな。マトゥにたっぷりの香辛料と塩だけの味付けをして、炉で煮込むのさ。ひとことで表すなら、辛くて酸っぱい味だ」
説明を聞きながら、コンツェはそうか、と頷く。
「じゃあ、軒先に流れてたのはマトゥ・タナの匂いだったんですね」
「そうだ。他のタナも作れるっちゃ作れるがな、どうする」
炉にかけてくつくつと一日中温めておくタナは、頼まれればすぐに目の前に出すことのできる料理。マトゥ・タナも他のタナも、きっとそう時間は変わらないだろう。
「俺はお前に任せるよ。何がいい」
初めてだというフェイリットに選ばせてやろうと、コンツェは厨房わきの壁を指し示した。壁には料理の品数を記した薄紙が貼られている。
「じゃあマトゥ・タナに、パン……イムってつけられるんですか?」
「もちろんだとも。イムとタナは切り離せねえ関係だからな」
フェイリットは薄紙を穴のあくほどにじっと見つめたあと、小さく笑って「それにします」と頷いた。
「了解」
よっ、と声をたてて立ち上がり、イディンバは厨房へと戻っていく。料理が出るまでこれでも飲んでろ、と碗に並々ともった酒をふたつ、目の前に置くことを忘れなかった。
「楽しみだなぁ。いつも賄いでイムタナは食べるけど、マトゥは初めて聞いたよ」
「他にも食いたいものがあったら頼めよ。ほら、あれはどうだ、チェクチェロの甘焼き」
甘くてさくさく歯ごたえのする焼き菓子は、城下の若い女の子に人気だ。
「えっ、いいよ、そんな」
「嫌いか? 菓子」
「す……好きだけど」
遠慮しているのだろう。申し訳なさそうに肩をすくめる彼女を微笑んで眺め、コンツェは厨房のイディンバに声を上げる。
「イディンバ、帰りにチェクチェロ包んでもらえますか」
すぐさまにはいよ、と返事だけが返ってくる。
その返事を聞きながら、コンツェは酒の入った碗を持ち上げて中身をあおった。
一人でこなくて、本当によかったと思う。フェイリットがいるなら、歯止めが利いて悪酔いもしなくて済む。
「……どうした?」
ふと視線を落とすと、じっとこちらを見つめるフェイリットと目が合った。光の下で微妙に色を変える湖水色の瞳は、見つめられるとなぜだか反らせない。
「いや、コンツェもお酒飲むんだ、と思って」
「……飲まないように見えたか?」
「うん」
フェイリットはいたずらめいた顔で笑って、自らもその碗に口をつける。
「俺もそこまで真面目じゃないよ」
「そう?」
嬉しそうに笑うフェイリットを見やり、コンツェも目を細めて笑った。
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