第二幕:皇帝のジャーリヤ

45 侍女ジルヤンタータ


 ひりひりひり……大きく開けられた窓の向こうから、虫の鳴く声が静かに響く。

「ああ、」

 フェイリットは窓際にあつらえた長椅子に身をもたげながら、ぼんやりと虫の鳴く声ばかりを聴いていた。


「暇だわ……」

 こんなところに押し込められて、いきなり一人になるとは思わなかった。後宮ハレムの中に一緒に忍び込んだはずのトリノも、彼自身にあてられた仕事があるのか姿が見えない。

 最近はあのウズでさえ相手をしてくれていたので、話す相手のいない状況は久しぶりだ。こんなにも寂しく、静かなものだったなんて。


 日が傾きはじめて、うす赤い太陽のひかりが差し込んでいる。内庭に面して大きな窓が開いているため、まだまだ部屋の中は明るい。

 そんな明るさを見つめて、フェイリットは考えるように眉をひそめた。

「もしかして私、ここでも小姓まがいのことをするのかな」


 愛妾ジャーリヤとしてハレムに入れられるものだと思っていたけれど。その「もしかして」を考えると、すんなりと納得がいく。


 部屋に独り。自分が本当にジャーリヤの一人ならば、ここには少なからず侍女たちが控えているはず。けれど現実にフェイリットは、独りだ。この状況からはどう見ても〝ジャーリヤ〟という言葉は浮かんでこない。この国ではハレムにいる女性のすべてを愛妾ジャーリヤと呼ぶこともあるようだから、侍女と愛妾の言葉の思い違いがあってもおかしくはなかった。


 なにより自分には大浴場ハマムで見た女たちのような甘くて欲情的な身体は無い。それはハレムの愛妾にとって、欠けてはならない必要事項のはず。

「……〝侍女〟なら、こんなとこに寝そべってちゃ駄目か」


 自分に対する重要度の低さを改めて思い返して、フェイリットは苦笑した。痩せぎすの小さな娘には、後宮ハレムの中は絵空事のようにさえ感じられる。そのことに幾分ほっとして、この余りある時間を壁の装飾を眺めて過ごすことに決めて立ち上がった。


 瑠璃色の小さな花を咲かせるピヒクス、夜空に駆け上る瑠璃色の木馬、朝日に照らされる瑠璃色の森――そういった細かな模様が壁を彩り、天井にまでぽつぽつと広がっていた。

 瑠璃色で描かれるそれらの模様は、陶磁でできた象嵌ぞうがん細工だ。よくよく覗き込むと小さな欠片がただ集まっているようなのに、離れてみるとひとつの模様が浮かび上がる。


「不思議」

 けっして広くはない部屋だったが、それでもその装飾にはぬかりがない。何百年もの月日、何人もの女たちが過ごした、小さな部屋……。

「……綺麗な部屋だわ、」


 ハレムの姿を見る前は、イクパル帝宮の畏怖を感じさせる赤さから、きっとここもそうなのだろうと思っていた。だが、一歩踏み込んで、フェイリットはその内装に驚いた。

 まるで真珠をちりばめたかのような純白――そこに、瑠璃色の陶磁の埋め込みがいくつもいくつも施されている。荒々しくもある帝宮の外観からは、とうてい想像のつかない中身だった。


 いっぽうで壁を区切る柱や梁は淡く輝く金で塗られており、目を瞠るほど美しい。壁だけでなく、床から天井から、見渡すかぎりが装飾に溢れかえっていた。

 どことなく儚ささえ感じられる瑠璃色のきらめきを、フェイリットはため息ながらに見ていた。


「ジャーリヤ・タブラ=ラサ」

 唐突にかけられた声に驚いて振り返ると、窓際に置いた長椅子の横に、いつの間にやら女性がひとり立っている。

 内庭の回廊から渡ってきたのだろうか。この宮の人たちは裸足で歩くことが普通であるために、足音はほとんど鳴らない。

「ジャーリヤ・タブラ=ラサ、もう少しおくつろぎ頂いているかと」


「ええと、」

 黒蜜のような肌に、闇色の瞳――歳は五十は過ぎている。先ほどの大浴場ハマムでは若い女たちしか見られなかった為、ハレムには年配の女はいないものと考えてしまっていた。体型は大柄だが、肉がついているというよりは、骨ばって見える。かけられた声は渋味のある柔らかい質であったが、その顔を見上げればどことなく〝無骨〟という表現がぴったりと当てはまる女性であった。


「わたくしめはジルヤンタータ。あなた様のお世話をつかまつりました、侍女でございます」

「侍女?」


 ゆっくりと、ジルヤンタータは礼をした。まるで重石を垂らした額をつるり、と下げるような、美しい型の礼だった。両手は胸の前に軽く組んで、足はメルトロー式の礼のように曲げたりしない。同じ礼をウズやトリノもしていたのだろうが、男性がやるのと女性がやるのと、こうも違うものだとは。それともこれが〝ハレム式〟なのだろうか?

 フェイリットは首を捻る。引っかかることがいくつもあった。


「あの、お間違いかもしれませんが、わたしの名前はフェイリットです。それと、ジャーリヤというのも間違いでは? わたしこそが侍女なのでは…」

 タブララサ…ハマムでもそのような名で呼ばれた。聞き覚えがあるとずっと考えていて、先ほどようやく思いついたのだ。


 ――タブラ=ラサ、お前はギョズデジャーリヤになる。


 ウズが呟いた最後の言葉が、再び耳奥で蘇る。あれは、まさか自分を指したものだったとでも? このジルヤンタータの口ぶりから見ると――、

 ジルヤンタータが無骨なその頬に一瞬、柔らかな笑みを浮かべる。


「間違いはございません。あなた様のお名は、確かにタブラ=ラサ。ジャーリヤというのも、間違いはございませんよ」

 静かな礼とともに再び傾けられるジルヤンタータの額を、フェイリットは言葉もなく眺めていた。

「ジャーリヤ……あの、小姓とか侍女とか、そういうの…ですよね? ジャーリヤっていっても」

「いいえ。あなた様はイクパル帝国皇帝陛下、バスクス二世帝の妾妃ギョズデ・ジャーリヤであらせられます」

「は……」


 二の句が告げないというのは、こういう時を言うのだろう。フェイリットは勝手に膨らませていた自らの想像を一気に崩されて、ぽかんと口を開けた。


 皇帝の妾妃ギョズデ・ジャーリヤ。それはメルトロー王国でいったなら、〝側室〟と同意義。

 離れてしまって久しく、メルトロー王国の事情はわからないが、もしフェイリットが逃亡したことに腹を立てた国王が「サディアナ王女」の王籍を剥奪していないとしたなら――……大変だ。

 イクパル帝国の皇帝が〝初めての妃〟をメルトロー王国から得たということになる。そんな大事、国家的にみても……、


妾妃ギョズデ・ジャーリヤタブラ=ラサ……大丈夫ですか、お顔の色が」

「あっ……ええとすみません、……なんでしたっけ」

 ジルヤンタータは、フェイリットが口を開けて蒼白になっている間にも、何やら話を続けていたようだった。

 顔色を気取られて、考えていたことが向こうへ飛んでいく。


「タラシャから伺っております。お怪我の具合を診せるなら、ハレムにいる医師を連れてまいりますが。わざわざ宮を出て軍医の元になどお出向きにならずとも」

「……駄目でしょうか。色々お世話になっている方で、怪我の経過もご存知なので、できればアン少尉に…」


 本当に骨がつながってしまったのか、アンに診てもらいたかった。あのたった一度の〝変化〟で骨までくっついてしまったとは、どうにも信じられない。それも完全な変化ではなく、身体の皮膚が割れて血が噴き出る程度の、軽いものだったのに。


 天高くから地面に叩きつけられて、それでも死なずに生きていられた――自分が不死身となりえる身体を持っていることを、フェイリットは改めて思い出す。

 あの時、あの忌々しい男にぶつかっていなかったら…自分はまた空を飛んでいたのだろうか。

 ――痛みの無くなった腕は、まだ包帯で胸の前に吊るしてある。心配だからと言ってタラシャが巻きなおしてくれたのだ。

 ハレムに入ったとか、三日後にはバッソスへ行く予定だなどということは、アンに話すつもりはない。話して、余計な心配をかけるのも忍びないし、何よりウズに口止めされている。


「では、アバヤをお召しください。顔をお隠しになりますように」

「えっ、小姓衣じゃ駄目なんですか、」

「まさか――小姓衣でお出でになるおつもりだったとでも?」


 驚いたように言いながら、ジルヤンタータの厳しい眼差しがいっそう薄く細められる。

 もともと優しい印象ではなかった彼女の表情に、フェイリットは思わずあとじさった。だが一歩後ろへと下がったものの、壁に背を当てて眉をひそめることになる。

「……わかりました。小姓衣を着た、その上にアバヤを被っていただけるなら、ご用意いたしましょう」


 フェイリットの怯えた態度に気がついたのか、幾分口調を和らげながら、ジルヤンタータは頷いた。

 イクパルの女性は人前に――とくに異性に顔を見せることを嫌う。まがりなりにも女であるフェイリットが、小姓の格好をして堂々と顔をひけらかして歩くのを、ジルヤンタータはあまりよく思わなかったのかもしれない。


「それと、わたくしもお供いたしますからね。――ああ、しっかりと距離を置いて気配も探られぬようにいたしますので、お気になさる必要はございません」

「は……はい」

 すっと踵を返して歩き出したジルヤンタータは、部屋の端のほうにあった大きな箱の蓋をごとん、と音を立てて開けた。

 何が入っているのか、気になったフェイリットが側に行くと、真っ黒な布を手元に渡される。


「さあ、アンジャハティ・トスカルナ軍医のもとへどうぞ」

 ジルヤンタータは黒蜜色のその頬を、笑みの形に引き結んだ。


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