38 若草色の居室

 王との謁見後まもなく、からりとした太陽が青空に昇った。

 冬を迎えたメルトローが、こんなにも晴れ渡るのは久しい。ちらちらと映る小さな明り取りの窓からその青い色を眺めていると、冬だということすら忘れてしまいそうだ。


 カランヌは自らの屋敷に戻ることなく、城の端に佇む古い塔を上っていた。

 どこを見ても若草色の、八角形の空間。幅の狭い階段を何段も上った末に辿り着いた一室で、周囲を見渡す。


 壁から天井まで隙間なく蔓のような絵柄がこまかに描き込まれ、散りばめられた百を超えるメルトロー古代神たちが、その美しい体躯に竜を纏わせている。

 まさに部屋自身が宗教画そのもの。王城に建つ建築物のなかで、最も古い塔の内部だった。


 床はビロードが直接貼り付けられており、靴音は完全に吸い込まれて静寂を残す。わざとそれらを響かせていた他と比べて、吐息すら聞こえそうなほど。

 従僕が壁の一端を片手で押すと、がこん、という音とともに向こう側に外れた。ぽっかりと見えた入り口から、ふたたびビロードの階段が螺旋状に現れる。

 階段はめまいを覚えるほど長い。それでも頂上まで上りきらず、階段の途中でくぐらねば入れぬほどの小さな扉の前に立った。


「どうぞ」

 つや消しの施された、黒に近い濃緑の木製の扉。従僕は一礼の後その扉の脇へと立ち、カランヌへと道を空けた。

「鍵は、」

「かかっておりません。宮殿側にあった一つのみですが、こちらの塔の外側はもともと有棘の薔薇垣で囲まれていますので」

 そうか、と頷いて、カランヌは口元を歪める。

 鍵があろうとなかろうと、要は中にいる「人物」が外に出ようとしなければいいだけ。


 扉は木製特有の軋みをたてて開かれ、若草色の空間が広がった。

 中心に置かれた紺色の天蓋がかかる寝台、小さな書卓、衣装を掛けるためのこぢんまりとした木彫りの棚……けっして狭くはない空間が、生活のための品々で幅を占めてしまっている。それなのに全く感じぬ生活感が、この部屋の主を思わせた。

 カランヌは家具から目を移して、枠のはめられた大きな窓を見つめた。

 座れるほどの幅を持つその窓べりで、ほっそりとした少年がひとりまどろんでいる。


「お昼寝ですか、殿下」

 濃金の髪はゆるやかにうねり、抱いている膝の上ほどまでを覆っている。開かれた瞳の青さは、今日の空の色とよく似ていた。

 色合いと性別さえ除けば、眼差しも面影もサディアナに瓜二つの少年。

「珍しい男が来たものだな」


 けっして低くはなかったが、静かで落ちついた声音が返ってくる。

 まるで自分と対しているような気分になって、カランヌは眉をひそめた。サディアナと三人で並ぶことがあったなら、間違いなくかれは「姉君」よりカランヌのほうに似ているはずだ。年相応の容姿を持つかれに、子供らしさの抜けぬサディアナを比べても無駄なことだったが。


「お久しぶりです、ロティシュ・アシュケナシシム殿下」

「そうか? お前の目で視ていたから、僕はそうでもないんだけれど」

 窓枠にもたれかかり、気だるさの残る声で微笑する。表情は柔和で優しげな、それこそ教会に佇む聖人のようなのに、どうにも滲み出た皮肉が抜けきらない。

 他人から見た自分というのは、こんなものなのだろうか。カランヌは自分と対するスリサファンの忌々しげな表情をふと思い出し、口元を引き結ぶ。


「陛下にお会いしてきたんだろう」

「……殿下」

 振り返って、今し方通りきた扉を眺めやる。従僕は扉の向こう側に控えているのだろうが、こちらの話が聞こえぬはずはない。

 従僕が話を盗み聞きしていて、王の下に直接届ける可能性もあった。カランヌはできるだけ声の響きをやわらげて、目の前の王子へと語りかけた。


「まだ悪い癖がおぬけにならないようですね。私の目を介して覗き見など」

「羨ましいか? けれど〝竜〟を追うのは本当は僕の役目だろう。陛下はどうして僕に一任してくださらないのかな。お前ほど血の薄いやつが、アロヴァイネン伯爵だなんて」

 ロティシュは先ほどまで読んでいたのだろう本を膝元から窓枠に置いて、トントンと指の先で弾いた。


「血が濃くてらっしゃるから、殿下をご心配なさっているのでしょう」

「僕が心配されるような立場ないことは、君も知っているだろうに」

 吐き出すように笑って、かれは窓枠を滑り降りた。つかつかと歩いていって、書卓の引き出しを乱暴に開ける。

 取り出したのは薄手の手巾しゅきんだった。丸めるようにしてこちらに投げられたそれを掴み取り、カランヌは顔をしかめる。

「僕は姉上に依存しなければ生きてはいけない。……でも、自分が死ぬっていうのは、父上よりもお前よりも、それこそ姉上よりもわかっているつもりだ。姉上はまさか死ぬ気じゃないだろう? だったら一刻も早く契約させるべきだ」


 カランヌは掴み取った手巾を広げてそのまま、時が止まったように固まっていた。

 薄水色の、それこそサディアナの透き通った瞳を思わせる手巾には、赤茶けた色がべっとりと染み込んでいたのだ。

「血を吐いたよ、昨日。しかも初めてじゃない。三日前と一週間前、それとひと月前も」

「陛下には」

「お知らせしてない。するべきだったか?」

「いいえ……、」

 カランヌは、目に見えて蒼白な顔をしていた。ひゅう、と漏れ出た空気が自らの吐息だと気づくのすら時間がかかるほど、困惑しきっていた。


「だろうね。姉上は鈍そうだな。あれはどうみてもイクパルに居るんだろうに。お前はそれを陛下にご報告してしまって、加えて僕の喀血だろう? 戻ってくるべきじゃなかったね」

 アシュケナシシムは苦笑とも見える笑みをうっすらと浮かべて、傍らの寝台に腰を下ろした。

「……どこまでご存知なのです?」


 サディアナがよもやこの国には戻らないだろうことを、かれは知っている。

 アシュケナシシムは眠りに落ちたときだけ、同じ血を持つカランヌの目を借りて物を視ることができた。血の濃いかれだからこその、〝竜〟と同等の能力。そしてその力を使って「外」を眺めることを、カランヌはこの拘束の場から逃れる息抜きとして十数年黙認してきた。

 サディアナの「想い人」、すなわち選ぶべき「王」がかの帝国にいることを、カランヌの目を通して知っているのなら。


「相手が誰だか、もうお分かりなのですか。よりサディアナ殿下に近しい貴方ならば」

 畳み掛けるように言ったカランヌの目を、遠くを眺めるようにしてアシュケナシシムが見返す。かれは寝台にかかる紺色の天蓋に細く長い指をからめて、ふわりとそのまま立ち上がった。

「――どうかな。こればかりは当人じゃないとね。僕らの決定的な違いは、竜かヒトかだろう。母親の胎でふたつに別れたときから、姉上は竜に、僕はヒトになる運命を背負った。僕はけっして竜にはなれない。けれど僕らには、繋がって血を分かち合っていた時も確かに存在している。その名残が、僕のお前を通して物を見る〝目〟だったり、お前の姉上の竜気を嗅ぐ〝鼻〟だったりするわけだけれど。

 ……お前は一度でも、その鼻で 母リエダの選んだ王の気を嗅いだか?」


 目前まで歩み来たロティシュが、カランヌを見上げて微笑む。鏡に映したような姿を持っていても、年齢が成せる身長の差というのがあった。わずかに低いその顔は、近づいてみると僅かながらに削げている。

 迫り来る寿命の壁が確実に、じわじわとかれを蝕んでいるのだ。


「確かに。私は十六年前、リエダが誰を選びたかったのかを終ぞ知ることは叶いませんでしたが」

 黄昏に揺れる麦穂のように美しい、金の髪を思い出す。

 下級貴族の妾の子として生まれた身の上を売ったのは、紛れも無く弟である自分だった。王に気に入られるよう差し向け、公妾の座まで押し付けて――リエダは国王ノルティスと契約を交わすだろうと、自信さえ持っていた。


「母リエダは、契約どころか竜であることも明かさずに死んだ」

 そうして本来の姿に戻ったリエダの遺体を見、国の重鎮たちは驚愕した。

 黄昏に揺れる麦穂のように美しい、黄金の竜の骸が、今しがた死んだはずの公妾の寝台の上に横たわっていたために。

 それは名さえ知れ渡らぬ、末席の公妾の寝台だった。


「私も病床に臥していました。目が覚めた頃には、もうサディアナ殿下の姿はどこにも見当たらなかったのです」

 生まれて半年にも満たぬ赤子を、その王弟であるサミュエル・ハンスが攫っていったと知ったのは、間もなくのこと。


 双子として生まれたもう片方の男児は塔のなかに幽閉されて、カランヌ自身も知らぬ間に竜を追う者アロヴァイネンとなっていた。

 史上に名を遺したエレシンスの兄、アロヴァ=イネセンの名を継ぐ伯爵の名の籍に。

「そう。僕は生涯幽閉暮らし、お前は晴れて〝アロヴァイネン伯〟」

 皮肉げに笑ったあと、アシュケナシシムは疲労を浮かべた目を伏せた。即座に口元へとあてがわれた白い手を見やり、カランヌは眉をひそめる。

「殿下」


 くるりと背を向けて激しく咳き込むその姿は、どう見ても健康な人間のそれではなかった。

 サディアナが契約すべき主は、かの帝国の人間。それを無理やり連れ戻そうと……ともすれば殺そうとしている今、どちらにせよこの少年の生い先は短い。


 ここまで濃い血を分け与えられれば、人の身体で二十年を生きるのは過酷としかいいようがなかった。

 背中を向けたまま手のひらを見つめるロティシュの足下に、ぽたぽたと垂れる赤い雫。カランヌは小さく息を吐いた。


「出たいですか、外へ」

 生まれてから十六年。母は死に、父には顧みられず、血を分けた姉にさえ会うことが出来ない。

 幽閉された塔のなかで日々を過ごし、遣わされる教師の下で高水準の知識を学びながら、決して日の目を浴びることを許されなかった王の庶子。

 かれにとって、この話は最期の選択になるはずだった。外へ出られる、最期の。


「条件をのむなら、出して差し上げましょう。元よりそのつもりで参りました」

 カランヌは懐から白い手巾を抜き取ると、アシュケナシシムを振り向かせるためにその肩に手をかけた。骨ばった感触を手のひらに感じて、暗い気持ちにならざるを得ない。服を着ていて誤魔化されていたのだろう。思っていたよりずっと、かれは痩せ細っていた。

「条件だと。そんな口約束、本当に僕が守るとでも?」

 振り返ったアシュケナシシムの口元には、おそらくはかれの手の甲で拭い去ったのだろう。血の痕がべっとりと付いている。頬を手で支え、その血を手巾で拭ってやりながら、カランヌは柔らかく笑んだ。


「テナン公国と盟約を結ぶのですよ。鉄鉱の独占貿易の代わりに『独立させてやる』とね」

「鉄鉱……? かの国には、鉱山があったのか」

 目を丸くしたアシュケナシシムに頷いて見せ、カランヌは続けた。

「イクパルの武器の需要は、ほぼテナン公国の元で賄われています。それも破格の値段で。我が国が高額を保障すると言い出たら、飛びつかぬはずがありません。テナンが独立を果たせば他の公国たちも黙ってはいられないでしょう。我先にと、独立したテナンに続こうとする」


 ――イクパル帝国は、まちがいなく内戦に陥る。

「……内戦の混乱に乗じて、イクパル帝国をばらばらにしようというのか」

「メルトローの国土は一気に広がりますよ。〝戦闘部族〟であるイクパルの古民たちを吸収できたなら、竜の力などいりません。簡単に隣国リマをも治められましょう」


 イクパルと、リマ。ぎりぎりで拮抗していたこの二国さえ傘下に入れられたなら、アルケデアの大地はほぼ統一したにも等しい。

「けれどそれじゃあ僕に利点はひとつもないな。姉上が死んだら、僕だって死ぬ」

 予想通りの返答を得て、カランヌはふと微笑んだ。

「……では殿下。私がいま何故、生きていられると思いますか」

 カランヌが静かな声でそう言うと、アシュケナシシムははっとして口を開いた。

「血が薄いから……ではないのか?」


 王族にする拝礼を、肩膝を傾げながらしたカランヌは、扉へと向けて歩き出す。金属でできた取っ手を握ると、ひんやりとした冷たさが手のひらにに染み渡った。

「――生きながらえるすべをお教えしましょう。貴方の協力次第で」

 息を呑む気配を背後に感じながら、カランヌは扉を開けた。扉の側へと控えていたはずの従僕と、正面から目が合う。


 ――やはり、聴いていたか。

 まったく気配を発さずに目の前に現れたカランヌを見上げて、従僕は驚きのまま固まっていた。

 胸元から小瓶を出して口中に煽ると、従僕の顎首を掴まえて壁へと押さえつけ、口づけた。ずるずると床へ落ちて意識を失った従僕を蹴り避けて、カランヌはまた長い階段を下っていく。


 強力な睡眠薬は、前後の記憶を曖昧にさせる。目覚めたときには何も覚えていないだろう。

「――明日、迎えに参りますよ殿下。共にテナンへと参りましょう」

 カランヌが発した声は、塔の石壁に高く響いてこだました。



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