39 王の椅子

 謁見を終えたころには、すでに正午を一刻ほども過ぎていた。

 詰めかけていた貴族たちの姿が途絶えた途端、急に静けさが遥か高い天井から降りてきたように感じられる。


 ふう、と欠伸をかみ殺し、メルトロー国王ノルティスは玉座の背もたれに身を預けた。

 この分では、午後の政務に移るまでの時間がないだろう。昼食を摂るとでもなれば、最低でも二刻は余裕を持たねばならない。今のノルティス王に、謁見に来た王侯貴族たちに会食の時間を割き、ゆったりと食事をしている猶予はなかった。


 ノルティス王は右手を軽く上げて側に控えていた従僕を呼ぶと、水を持ってくるように命じた。侍従は拝礼だけで「御意」を示して、すぐにどこかへ消えていく。

 昼食は摂るに至らずとも、半刻ほどここで喉を潤し休息する時間ぐらいはあるだろう。そうして、漸くやれやれと片足を組み玉座の肘掛に肘をついた、その時であった。


 重々しい入り口の巨大な扉が突如、わずかに開いて、隙間からひとりの青年が転がり出るようにして入ってきたのだ。玉座へと続く深紅の天鵞絨ビロードの端へ手をついて、よろよろと立ち上がる。

 通常ならば玉座の間に罷り来るとき、例えそれがいくら地位の高い王族であっても事前の通達がなされるのが慣例だった。しんと静まり返るこちら側には、人の訪れを告げる従僕の声はまだ響いていない。


 扉の外へ控えているはずの従僕は……そう思いつつ玉座から身を乗り出すようにして扉のほうを見つめると、開かれた隙間から雪崩れ込むようにして控えの従僕が出てきた。転がり出るように入り来た青年を連れ戻そうと、三人がかりで必死になっている。その尋常ではない動きを視界に収め、ノルティス王は眉間に皺を寄せた。


「――何ごとか」

 大きな声ではなかったが、その年輪を刻み込んだ低く重圧な声は、びりびりと響きわたっていく。


「申し訳御座いません、陛下。我々の制止も聞かずこの者が……」

「至急なのです陛下! 儀礼を欠いたこと、お許しください!」

「お前、無礼なことを言うな。陛下、この者を連れて退室することをお許し願えましょうか」

「警備が至らず申し訳御座いません。お叱りは如何様にもお受け致します。……ほら、さっさと立て、玉座の間に前触れもなく入っていい訳がなかろうが!」

 それぞれが口早にまくし立てたせいで、ただでさえ声音の響き渡る空間は耳鳴りがするほどにぎんぎんと震えていた。


 やれやれ、ようやくの休息の間が削げてしまった。ノルティス王が玉座の脇へ目配せすると、すぐさまにごん、と床を鳴らす厳しい音が響き渡る。玉座に近い壁際にずらりと配備させていた 近衛士ファルのひとりが、持っていた槍の柄を床へと突き立てた音だった。

 ノルティス王は静寂の戻った周囲を見渡しつつ、入り来た青年を眺め見やる。

「おまえは……」


 はっと眉を引き寄せて、ノルティスは額に皺を刻んだ。――この顔を覚えている。日も明けやらぬ時より、屋敷に戻る前に行きたい場所があると言ったカランヌに付けてやった従僕だ。なんと自らの疲労に押しつぶされて、今まで青年の顔すらろくに見ていなかったとは。

「――よい。その者を通せ。お前たちは下がってよい」


 カランヌの行きたい場所――それが〝あれ〟の元であったために、警戒のため付けたのだったが。やはり……、

「何事が起きたのだ」

 扉の前で片膝を付き、王に対する拝礼の姿勢になった青年――従僕は、切らせた息を落ち着かせるように一度吐き出すと、震えた声で言い始めた。

「私は従僕となるために、それなりの指導を頂いてまいりました。薬剤への耐性も、付いていたはずなのでございますが――」


 従僕は躊躇うように眉をひそめて、しばしの間言葉を止めた。

 この国での従僕といえば、名門貴族出の末子であることが多い。家督を継ぐに至らぬ末子に貴族の親たちは、王の僕となるための教育を施す。武器を持たずしても相手の動きを封じられる術や、気配を獣のように消し自分と空間とを同化させる術、そして薬を飲まされて操られることのないように、幼い頃から強い薬に身体を慣れさせる訓練すら受けている。

 従僕の口調から、続く言葉が伺えた。ノルティス王はその先を促すように、肘掛に置いていた右手を顎元に寄せる。


「……何も覚えていないのです。陛下より命を受け、アロヴァイネン伯爵閣下をお連れしたところまでは鮮明なのですが……それ以降が全く思い出せぬのです。かの塔の階段にて倒れているところで目覚め、慌ててアシュケナシシム殿下の無事を確認いたしましたが、子細を伺ってみましたら『お前が儀礼を欠いたから伯爵はお前のみぞおちを打ったのだ』と仰ったのです。それで私は今まで気を失っていたのだと……」


「だがみぞおちに痛みは無いのだな」

「……ございません。先ほどは失礼いたしましたが、私たち従僕は寝ぼけていましても儀礼だけは怠りませぬよう、徹底した教育をうけてここへ参ったのです」

「それ故に、眠り薬を疑るのだな?」

「は……、目覚めたときの激しい眩暈は、薬を飲まされたとしか思えぬものでした」

 従者の言葉にノルティス王は何も言わず、ただゆっくりと頷いた。


「下がるがよい。お前には仕方の無かったこととして処罰は与えぬ。代わりに、このことを口外することは禁じる」

 従僕はかしこまって深々と礼をすると、身を小さくして背を向けた。去り行く背中を眺めつつノルティス王は再び眉を引き寄せる。

 あの男のすることだからと警戒していたが、やはりやってくれたものだ。思惑通りにことが進むならば、永遠の体を持たずしてもこの大陸を制覇する夢が実現する。公国テナンを足掛けに、イクパル帝国を、そしてリマ王国を。メルトロー含む三国を纏めることができたなら、残りは東と北に散在する小さな国々ばかりだ。


「そこに居るか、イグルコ・ダイアヒン」

 本来ならば、実弟であるサミュエル・ハンスにくれてやろうと目論んでいた地位――丞相位の現職に就く男が、柱の奥から身を現す。滑るように静かな足取りで玉座へと近づき、膝を追った男の白い額と漆黒の髪を見下ろして、ノルティス王は立ち上がった。


 イグルコは今年でよわい三十三を迎えたばかりだったが、早くから苦職につけてしまったことが災いしてか、一回りも老けて見える男だった。サミュエル・ハンスとは、母親を介して従兄弟の血縁にあたる。

 海軍の総督を務めるためと育てられてきたのを、サミュエルの逃亡により突然引っ張り出された若者であった。丞相という、これまでとは遠く離れた暮らしを当初は固く断ったのが、「お前しかおらぬのだ」と周囲に言われてしぶしぶ陸に上がった過去をもつ。


「お前、たしか独身であったな」

「……はい。現職就任よりこれまで、ろくに女性の顔も見ておりませぬ」

「そうか」

 ノルティス王は深く頷いて、イグルコのわずかに灰色を帯びた青い瞳をじっと見つめた。

「お前をしばしの間、海へと戻してやろうではないか」


「……は。と、いいますと」

「カランヌはおそらく、我が国の王族の誰かに、あのテナン公女を娶わせるつもりであろう。同盟の確約を証明する、証としてな」

 王族にとって、婚姻は所詮〝契約〟でしかない。国が国に物事の約束をとりつけたいとき、もっとも取られる手段のひとつだ。


 イグルコは直系ではないが、王族の血も引き、王位の継承権も三十のうちには数えられる家柄を持っている。ファ・ファーデン伯爵家といえば、二、三代のうちにのし上ってきたような一介の爵つき共より、よほど名の知れた旧家。その家督をいずれ継ぐだろうイグルコは、他国に対し「王家」を名乗るテナン公国の〝王女様〟には、大きすぎず、かといって小さすぎもしない相手だ。


「心づもりをしておくがよい。おそらくは同様の内容を記した文が、三日のち以降にアロヴァイネン伯より届くであろうからな」

 アシュケナシシムは、所詮幽霊のような王子だ。存在はするのに、その名前が欠片も王籍に載ることがないのは、すべてかの〝血〟よりのもの。そんな不確かなものを連れて行っても、盟約の道具には使えない。カランヌが、ノルティス王と同じことを考えるならば、だが。


「御意」

「帝国に組するより、我が国と繋がりを持つ方が身が安全だと知らせてやれ。公女には、その身を以て誓約書となってもらう。婚姻とは名ばかりの人質だがな」

 ――報告が無かったのは、余を試してのこと……と、思いおくことにしようぞ、アロヴァイネン。



 それから半日が過ぎた翌日。幽閉されていた王子を連れたカランヌは、密やかに王国を発つ。

 イグルコ・ダイアヒン・ファ・ファーデンが正式な要請を受けてテナンへと向かったのは、それより四日を数えた日の早朝であった。

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