37 赤い城と針の城
かつかつと忙しなく響く自らの足音を上の空で聴きながら、カランヌは久しぶりに戻るメルトロー王城の
広大な廊下の床を埋め尽くす白と黒の大理石。菱形を描くようなその床は、歩く人の姿をすっきりと映し出すほど磨かれている。
天井には空を思わせる濃紺の硝子細工が填められて、ほの暗い空間を美しく際立たせていた。夕日の沈む黄昏の風景や、遠乗りをする人びと、宮殿の青々と葉の茂る庭などを描いた絵画が壁に飾られ、その隙間を縫うようにぽつぽつと並ぶランプが、透明な硝子筒からきらきらと温かな光を散じている。
芸術の一切を集めた、幻想の王宮。諸外国の王侯貴族が手放しに賞賛するこの宮殿こそ、メルトロー王国の自慢であった。
「まったく、あの野蛮な赤い城を半月近くも眺めていたかと思うと背筋が冷えますよ」
廊下の両脇に並ぶ白い顔をした歴代王たちの彫像を横目に、話しかけでもするかのようにカランヌは吐き出す。
玉座の間に続く廊下には、人一人見当たらない。時刻は深夜をはるかに過ぎて、もうじき夜が明けるかという頃合。
社交の為に集まり寄る貴族たちの姿は、とうに無くなっていておかしくはなかった。
王都に帰り来たのが深夜前。それから屋敷に戻って身支度を整え、カランヌはその足で報告に参じた。
もっとも人に会うのを嫌って、故意にこの時間を選んだことは否定できないが。
「カランヌ・トルターダ・アロヴァイネン、只今戻りまして御座います」
カランヌは天井ほどまである重厚な扉の前で立ち止まり、なめらかな口調で告げた。
声は、直接王には届かない。この重厚な漆黒の扉の向こうに、また三重の扉が連なって、ようやく国王陛下のおわす玉座の間に辿り着く。すべては国王の身を守るため。
表側からは特殊な器具を用いねば開くことができないせいで、入室の際は内側にいる者に開けてもらわねばならない。ここで名乗りをあげるのは、その一枚目の扉の向こうに控える侍従に向けてだ。
時を待たずして扉が開かれる。大理の上を滑るように、音も無く開かれた扉の向こうから、立礼のまま従僕が二人現れた。
「お待ちしておりました」
それから三重の扉を一枚ずつ通り抜け、カランヌはようやく息をつく。
玉座の間は、床も天井も磨かれた白色の大理石でできていた。あまりに透き通ったそれは宮殿の廊下と同じに足音や声を轟かせ、姿まで克明に映し出す。玉座まで続く深紅の絨毯の両脇に、等間隔に並ぶ純白の円柱は、蛇のような体躯の動物が複雑な模様を描いて天井まで巻きついている。
「只今戻りまして御座います」
深紅の
「――遅い」
通り抜けてきた扉のように重厚な、年輪を重ねた声が頭上に響いた。
ここへの到着も、今まで逐ってきた行動も、確かに遅いと言われれば違いない。一瞬どちらのことをと首を捻るが、カランヌは小さく苦笑して押しとどめた。
「久し振りに帰ってきたもので、なかなか侍女たちが離してくださらなくてですね」
「何時だと思うておる」
「さあ……何時に御座いますか」
とぼけたようにカランヌが返すと、思いため息が聞こえてくる。
「三時半だ、もうじきに夜も明ける。余は、お前が時計も見れぬやつだとは思うてはおらぬ。そのように急ぎ来た理由を聞いて平静でいられる自信は持たぬぞ」
ふと見上げると、眉根を寄せてこちらを見つめる王と目が合う。
濃金であった髪は歳のせいですっかりと白銀に変わっていたが、並ぶふたつの青い瞳は未だ
「サディアナ殿下が護送の途中、逃亡なさいました」
玉座に座り、白髪だらけになった自らの髭を厳しい顔つきで撫でていた国王の手が一瞬、ぴたりと留まる。
「逃げたのか、自分から? 何故すぐに知らせなんだ。お前がここを出てからよもや半月以上も経っているのだぞ!」
厳しい声が降りかかる。カランヌはわずかに頭を下げた後、王を見つめた。
「申し訳御座いません」
「お前に命じた任務は、アルマ山よりサディアナを連行すること」
「……わかっております。ですが陛下、」
「何がわかっておる、だ? あれ等が短命なのはお前も存じておろうが。もう時間がないのだぞ」
「ええ。しかしサディアナ王女は逃亡中、イクパルの帝国軍に捕獲されてしまいまして」
「――なん…だと?」
怒りのまま、玉座から立ち上がった国王に鋭い目で見下ろされる。
「ならば一層、お前は連絡を寄越さねばならなかった。我が国軍を派遣させてでも……」
カランヌは小さく肩を竦めて、首を横に振る。
「そんなことをしてはすぐに正体を感づかれてしまいましょう。ご安心ください。連中はサディアナ王女が竜であるとは未だ知らぬはずですよ。それを見越して内密に追っていたのです」
「馬鹿が! そもそも、あれがイクパルに渡ったなどということ自体けしからん……! お前にはそれなりの余裕を与えてやったはず。にも拘わらず何故連れ戻すことが出来なかった。そんなにあの未熟者が、恐ろしかったとでもいうか」
「――……いいえ」
恐れがなかったと言えば嘘だ。初めて見た黄金種の竜は、予想を超えて畏怖を感じさせる。あれが最強の血を引いている竜なのだと思うと、より一層。
だが……、
「アロヴァイネンの名を承りし私の言葉を、信じて戴けますならば陛下。どうか取り乱さずお聞きくださいませんか」
カランヌは言いながら、微笑を浮かべた。その顔に余裕を見たのか、王の表情が徐々に冷静さを取り戻していく。
「――よい、申してみよ。何を聞かせたいというのか。不甲斐ないお前のこと、ぼんやりし過ぎていたとは言うまいな」
玉座に再び腰を下ろしたかれを見届けて、カランヌはゆっくりと言葉を繋ぐ。
「……全力で否定出来ぬのは哀しいことですが、ならば殿下を連れ戻すまで帰還したりは致しませんでした。私が御命令の遂行も成さず、お目お目と帰還したのは火急のご判断を頂くため」
そこで一度区切って、王の顔を伺う。
こんな時間、それも前触れもなく現れた「火急」の行動に、ある種の覚悟をして頂きたい。そう思ったからだ。
覚悟がなければこの国の王にとって、これは失神しかねぬ事柄だ。
「何だというのだ。いい加減、勿体つけず申せ」
「では極めて簡潔に申し上げます。――サディアナ王女の〝主〟がイクパルに居るのです」
「な……!!」
「未だ推測に尽きますが、連れ戻そうとした折に気にかかる拒絶が」
「そんなはずはない!」
あれの主は余だ。見る間に青ざめていく王の顔を見やって、カランヌは首を横に振った。
確かに、そんなことは有り得なかった――今までは。
遥か昔、黄金の竜エレシンスが忠誠を誓ったのは、タントルアス王――メルトローという「国」そのものにだった。血で施す契約は、それを流す子孫にまで継がれていく。
代々がメルトローに仕え、メルトローの為に死んでいく。それがエレシンスの血を残す者たちの宿命だったはずだ。血が濃ければ濃いほどに、国を愛し王を愛する竜になる。
なのにたった一人、何百年かぶりに出た忠誠を誓えるほどの血を持つ竜は、それをしようとはしなかった。彼女――リエダは、王の愛妾として後宮に入ったにも関わらず、事実、王を愛していなかった。彼女は竜としての幸せを望むことはなく、最期まで人として一人の人間を愛し抜くことを願っていた。
《――愛している……、》
王弟サミュエル・ハンスが遺した紙切れを、サディアナは最後まで読みきることが出来たのだろうか?
「まだ覚醒していないところを見ますと、サディアナ殿下ご本人は自分の選ぶべき人間が間近にいることには気づいていないのでしょう」
「気づけば……どうなる」
「サディアナ殿下は竜として覚醒、まず間違いなく忠誠を誓います。そして強大な力を得たイクパル帝国は、永きに渡り味わってきた肩身の狭さを一気に改善したがるはず。メルトローへの侵略戦争――というのが、想定しうる最悪の事態かと」
サディアナは母親には似ていない。顔はともかく、性格はまったくの間逆。どちらかといえば父親よりの、それもかの古き王の快活な気質に近い。
一度覚醒してしまったら最後、身のうちに流れる竜と覇王の血によって、激しい気性を一層開花させることだろう。そうなれば母国に愛情を持たぬ彼女が、我が国への侵略を許さぬ筈がない。
「あれの寿命は、母親よりも短かいのであろう」
「一概にそうとは申せませんが、……長くて二十、少なくて十七といったところですか。今日明日にどうなるかということは、ないように感じました」
問題は、その相手が誰なのか。地位も階級もない者ならばまだいい。しかし竜というものは、何故だか王族の血に強く惹かれてしまう生き物だった。相手が王族や、皇族――玉座に直結する地位の持ち主であった場合には、最悪の結果、メルトローの命運は尽きることになる。
竜という金の冠を戴く王に、勝つことのできる国など無い。
期限は、サディアナが覚醒を迎えるまで。メルトローという王国が、これから先も大陸一を誇れるためには、今のうちしかない。
「――仕掛けるか」
ぼそり、吐き出した王の言葉に、カランヌは満足げに拝礼する。俯けた顔は、殊のほか愉しげな笑みが浮かんでいた。
「ええ。引き伸ばしにしていたテナン公国の申し出を、受けるべきかと」
カランヌの言葉に、王が頷く。
「姿が見えぬということは、スリサも役に立っておるようだな」
「それはもう。今頃は何食わぬ顔をして、サディアナ殿下の一番お側にいらっしゃるのでは? お命じ下されば、殿下を一息に殺すこともできましょう」
王の命令に、スリサファンは逆らえない。例えそれがサディアナの暗殺であったとしても、彼女なら眉一つ動かさずに遂行できる。
「サディアナが誰かに心を預けたら、その時点で殺させろ。男もろともな。テナン公国に手をかけるより、余程楽な仕事だ」
「御意に」
カランヌは立ち上がって拝礼を終えると、羽織っていた黒のマントをひるがえして三重の扉へ歩き出す。
「お前の得意分野、高見させてもらうぞ
背にかけられた王の言葉に薄く笑んで振り返ると、カランヌは騎士さながら、優雅に礼をして見せた。
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