33 地図

 トリノが宰相の執務室の仕切り幕をめくると、部屋の隅に立って帳面を顔のすぐ前に、まるで睨みでもするかのように当てている少女が目にとびこむ。

「……なに、してるんですか?」


 その奇妙な光景に驚きの声を上げると、フェイリットはぱっと帳面から顔を上げて、恥ずかしそうに苦笑して見せた。

 小姓としてウズのもとに暮らすこと数日。彼女はもう、雑用ならばトリノと変わらぬぐらいまでこなせた。

 ここまで仕事の覚えが早いとは、ウズでさえも予想し得なかったはずだ。


 彼女がここに来てまだ日も浅いある日。トリノが見た光景は、せっせと帳面を片付けるフェイリットと、それを仕事の手を止めたまま唖然として眺めるウズの姿だった。

 ただの帳面ではない、政務にかかわる難解なものを。それはイクパル語で書いてあるだけでなく、政治に関わる専門の用語も多く混じる。


 言葉を話せるのはともかく、あの蛇ののたうち回るようなイクパル文字を正確に読みとれるとは驚きだった。イクパルの城下に住む娘でさえ、ひょっとしたら読めぬものを。

 帳面を整理し順番に並べながら、必要なものをウズの卓の上に重ねていくその手際は、およそ昨日今日雑務を覚えた、付け焼き刃がするものには見えなかった。


 ――妾妃ギョズデ・ジャーリヤにしたいのではなかったのだろうか。

 トリノが宰相から伝え聞いたのは、ほんのさわりの部分だけ。まさか小姓にするなんて。そこまで知らされてはいなかった。

 迎えに行ったフェイリットに宰相がまずしたのは、その肩ほどまであった金の髪をざっくり切ることだった。


 もとから年頃の娘には不釣り合いなほど短い髪だったのに。さらに切るとは酷いことを……トリノは思わず声を上げそうになった。が、それも身なりを整えられた彼女が目の前に立つまで。


 髪を短く切り、少年のような姿になったフェイリットは、いっそう似ていたのだ。

 ――かの英雄タントルアス、その人に。

 宰相がいったい何をしたいのか。その片鱗を垣間見た気がして、トリノは動きかけた制止の手を引っ込めることにした。


「地図です。ここの国のことをあまり知らないから、まずは地図からと思って探して見てたんですけど…」

 と、唸るような声を喉奥に発して、フェイリットはさらに帳面を見つめ続ける。

 考えごとに夢中だったトリノも、彼女の隣に移動して、その視線の先を見つめた。


 言葉通り、ただの地図。何がそんなに興味をそそるものなのだろう。水色の瞳はしきりにちらちらと動いて、帳面の上を這っていく。

「楽しそうですね」

「ぜんぜん楽しくない、こういうのって大嫌いです。でも気になっちゃって……」

「気になる?」


 気になるというのは、すなわち嫌いではないということ。トリノはそう思ったが、あえて口には出さなかった。

「いったいこの国はどこから水を引いてるんですか」

「…水」

 それが十六の乙女の、興味の矛先であることにトリノは肩を落としてしまった。水がどこから来るのかなど、よもや今時の子供でさえ考えぬものではないだろうか。


「水は井戸を掘って引いています。水源に乏しいイクパルにも、いくらかは細い水脈が通っていたようで、昔からあるものがそのまま。城下にはニ十ほどでしょうか。皆毎日、朝に水瓶を持って水をくみにいきます」

「……この広い帝都に、たったニ十なんですか?」


 ふと何を思いついたのか、帳面を床に置いて座り込み、フェイリットはそれを指でたどり始める。

 イクパルの描かれた大陸を縦に一本、二本、三本……と、その指の動きが十を数える頃になって、小さく息を吐き出しこちらを見やった。

「トリノ、カンガイ、って知ってますか」

「カンガイ?」


 初めて聞く言葉に、思わず首をひねってしまう。地図を眺めて指でたどり、いったい何がわかるというのだろう。

 隣に腰を下ろしたトリノを見やって、フェイリットは言葉を続けた。

「地図をみただけで大きな水脈が十本はありますよ。乏しいっていうより、むしろ豊富なんじゃ……」


 そこまで呟いて、彼女ははたと気づいたように顔を上げた。しまった、というような表情を浮かべるのを見て、トリノはようやく背後の気配に気づく。

「「ウズ様」」

 その仮面のような無表情を見上げて、二人は声を揃えて立ち上がった。


「――水脈がわかるのですか」

 問われたフェイリットの表情が変わることはなかったが、宰相はあきらかに驚いている。仕切り幕にかけていた手を解くと、宰相はフェイリットの肩を掴まえた。

「は、ええと…わかりません」

 ずいぶん無理な否定だった。


 額に手を当ててうなだれるトリノをちらと見やり、フェイリットは首を振る。

 これで宰相が納得するとは思えなかったが、意外にも彼女に静かな目を向け、そうですか、とだけ返ってきた。

「雑務も覚えたようだ。今日から他の小姓と同じく厨房での食事を許します。一日二回、十分で戻ってきなさい」


「―――ええ!」

 頓狂な声を上げて、フェイリットは宰相の白い顔を見上げた。

「休憩って、半刻はいただけるんですよね、どうして…」

「暇を持て余しているのなら働けと言っているのです。十分で戻らなければ、次の日の時間は与えません」


 冷ややかに言い切る宰相に、よもや口答えなどできるはずがない。

 彼女は渋々ながら膝を折り礼をすると、急ぐように仕切り幕を潜っていった。


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