32 宿命の少女

 トリノは皇帝宮を歩きながら、静まり返る回廊の空気を、苦い思いで感じていた。


 宰相の執務室が属する北区―――俗に言う執務区が、その静けさの中心だった。

 二年前の元老院凍結以来、事実上の独裁となった宰相は今、たった独りでその空間に君臨している。その風あたりも、この帝国をたったひとり表立って担う重圧も、想像だにできない。


 それでも直轄領と四公国のつながりを保っていられるのは、彼の力量の賜物だった。

 鎖国のつづいて久しい帝国領土に潤滑に貿易品を流し、文官である宰相には難しいと言われる軍の掌握でさえも、皇族の血の濃いワルダヤ・ハサリ・サプリズをはじめナレクガ・コスハイ・ジャーフール、ラジ・ハ・ヌフリムなどの要人を筆頭にこの二年、そつなくこなしてしまったのだから。


 出自ゆえ未だ謂われのない下賤な噂も聞かぬではないが、少なくとも先に挙げた三人の大佐たちは周囲の思う「下賤」な事柄を餌に仕えたりはしないものたちばかり。それを知る四公国、そして直轄領の閣たちはみな、ウズルダン・トスカルナという男の冷酷で均整のとれた頭脳を充分に理解した。


 宰相のみが使うことを許された執務室の、触れるとわずかに硬さを感じる仕切り幕のそばに膝をつき、トリノは静かな声を立てる。

「参りました」

 それだけでわかるはずだった。わざわざ名前やら来訪の理由やらを長々と述べて入室の許可を請うのを、宰相は嫌う。

 礼に欠ける云々よりも、実を先んじるから、なのだそうだ。


 入りなさい、と抑揚に欠けわずかに掠れた声が室内から返る。トリノは音をたてずに立ち上がって、仕切りの幕を片手で除けた。


「報告を聞きましょう」

 執務用の卓に書簡の山を築き上げて、その向こうに埋もれるように座る宰相が見えた。

「エトワルト中隊長は、お断りになりました。〝立太子せよ〟という公爵のお言葉に、あくまで自分は第五公子であるからと」

 書簡から目を離すことのなかった宰相の灰の瞳が一瞬、くうを見上げる。


「ですがよく考えるようにと、公爵は決断を引き延ばしになられました。それと、竜を狩ったと流した話が、中隊長を通じて偽物だと知れたようです」

「……そうですか」

 中隊長という立場にしかないコンツ・エトワルトには、あれが見せかけの狩りでしかなかったなど、知り得もしないことだろう。

 彼の口から語られた「竜狩りの失敗」は、より信憑性を伴って各公爵に届くはず。公爵たちにとっては、ほっと胸を撫で下ろすつかの間の時間となる。


「ワルター大佐から、暫くは宰相閣下のお命じに優先的に従うよう言い遣いました。役立つことがおありならなんなりとお申し付けください」

 トリノは額を床に向けて、静かに傾けた。

 小姓は、あくまでその雇い主の持ち物。たとえ雇い主より格上の者からの命であっても、一度は主に伺いをたてる必要がある。


 宰相は一人の従者も持たぬため、入り用の際には大佐や実家の侍女などから人を回してもらっているのだが、その最たるのがトリノだった。

 もとをただせば、ワルターより以前に遣えていた人物がウズルダンであるから、当然ともいえる。

 宦官長であったウズルダンが、宰相として後宮を辞する折、無理を言って一緒に連れ出してもらったのだ。


 本来ならばとても許されるものではないのだが、そんなトリノを欲しいと言ったのがワルターで、今に至る。

 別に出世を望んでハレムを出たわけではない。だから大佐に会い、骨格を一目見て軍人にと言われ、ウズの元を離れたのだ。


「お前にとある者を迎えに行って貰います」

「……はい、どなたを」

 名前がわからぬのでは、連れようがない。そう思っての質問だった。そんなトリノの疑問に、目線を向けていた書簡を脇へ除けて、宰相はいつもの平坦な声をつなげる。

妾妃ギョズデ・ジャーリヤとなる娘です。――よいですか、トリノ。これから話すことをよく聞きなさい」





 「タラシャ」

 皇帝宮と宮殿をつなぐ境目の回廊で、トリノは一人の女性の前に膝を折る。

「まあ、トリノではありませんか。お久しぶりね」

 柔らかな声を頭上に聞いて後、衣擦れの音だけを残して立ち上がった。


「例のお方をお連れいたしましたよ。なかなかに可愛らしいお方ですわね」

 微笑んで、タラシャはちょうどこちら側からは死角にあたる、回廊の奥を見やった。あの向こうに、トリノの迎えるべき人物が待っている。宰相から伝え聞いた事柄を頭で反芻して、いったいどんな娘なのだろうと思う。


「タラシャ。後宮ハレムに戻ったら誰でもいい、何人かの小姓に〝ギョズデ・ジャーリヤが決まった〟と、流して欲しいのです」

「噂を? なるべく広がるようにすればよろしいのね」

「はい。名をタブラ・ラサと。それだけで十分です」

「わかりました、早くお出迎えなさったほうがいいですわ。あの回廊は人目にも付きやすいところですから」

 タラシャは蔦色をした木の実形の瞳を、やんわりと細めた。


「ありがとうございます」

 礼をするために膝を折ると、ふわりと頭の上に柔らかいものが乗せられる。それがタラシャの手だと気づいて、トリノは頬を赤くした。

「しばらくみないうちに、大きくなったわ。がんばってるのね」

「姉さんも。元気そうで良かった」

 目線を上げると、懐かしい笑顔が見える。除かれた手の行方をふと追いつつ、額をふたたび傾けて立ち上がった。



 ――そうして、息を切らせて回廊を進み、目的の人物の前にたどり着く。

 タラシャの連れてきた娘。その先にいたのは、北方の容姿をもつ愛らしい少女だった。

「トリノです、この先までご案内します」

 そう告げて微笑むと、少女はなぜだか不思議な表情を浮かべて宙を見つめる。


「どうかしましたか」

 首を傾げてそう聞くと、少女はふと気づいて我に返った。ぼんやりと見えた瞳の行方は、考え事に向けられていたようだ。トリノの方へ目を戻して、

「いいえ。あの、フェイリットです」

 しどろもどろに微笑む。象牙の肌に、肩まであるくせ毛がかった金髪。北方特有の容姿を、宰相以外の人物で見るのは初めてだ。


 美しいというより、まだ愛らしさの残る風貌。早春の澄んだ空気を思わせる綺麗な容姿は、おそらくこれから五年もしたなら、誰しもが賞賛するところとなるのだろう。


 ――この少女がタントルアスの。

 敵国の王女だと告げられても、実感がわかない。どこかけろりとした爽やかな印象のせいで、「王女らしい」というしなやかな言葉が似合わないのだった。

 彼女の湖水に似た透明な瞳に見惚れながら、トリノは宮殿を案内すべくフェイリットの隣へと並び立つ。


「――行きましょうか」

 それがこの国を宿命へと巻き込んでいく、少女との出逢いだった。



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