34 檸檬水

 竜の背のごとき連なる山脈――アルマ。その標高は、人間が生活できるぎりぎりの高さだと言われている。


 頂上に近づくほど空気は湿り、一年中ほとんど解けることのない氷雪が山肌を覆う。

「水脈……か」

 ウズは呟いて、トリノの方へ視線を下ろした。それを感じてか、小さく肩を震わせたかと思うと、トリノは片膝を床に着く。


「お前には嘘は許さない。トリノ、この地図、あの娘はどう見ていたのです」

 ターバンから覗くトリノの額が、ほんの僅かに引きる。目線を下げているから見えぬが、きっと眉でも顰めたのに違いない。

「トリノ」

「……はい。地図を広げていくらか指を辿らせたあと、カンガイを知っているかと聞かれました」


 やはり。渋った顔でそう吐き出すと、トリノの目線がついとこちらに向けられる。

「灌漑とは地下水脈に沿って穴を掘り、水を汲み出して農作物に渡らせる人工の河川のようなもの――覚えておくといい、トリノ。この国は水源に乏しいわけではない。水源を利用するための資金と技術が無いだけなのです」


 アルマに降り積もった雪は永い年月をかけて地下へと染み出し、水脈となって流れる。地盤を考えるなら、緩やかな勾配で上るメルトロー国土より、海に接し、かつ下り気味の勾配を持つイクパルの方が圧倒的に「低い」。

 高き処から低き処へ――それが水だ。だからこそあの娘は、地図から判別のつく高低差や地理から、水脈と思しき線を指で描くことができたのであろう。


 これは滅多な者が持つ知識ではない。まして一国の、末子に近い王女などには到底施されぬもの。イクパル内ですら、両手の指で数えられるかという人間しか知り得ない。

 帝王学――ふと脳裏に上った言葉に、ウズは眉根を寄せて息を止めた。


  敵国メルトローの第十三王女が、生まれてより幽閉されているというのは諸外国にも広く知れている。だがその本人が、まさか山深くの村民に隠れて育ったとは誰も信じまい。

 王女らしい淑やかな教養などまるで無く、落ち着きも無い。だがその異常な知識だけが、あの娘の素性を曇らせている。


「お前も昼食を摂りなさい、トリノ」

 拝礼ののち下がっていくトリノに一筋の視線もくれることなく、ウズは眉間に皺を刻んだ。

「――片時もあけず側に置いて、三日で厭きると思っていたが。読みは外れたようだな」


 トリノが退室してしばらく経った辺りだった。ひらりと捲れた仕切り幕から、長身の男が覗き出る。

「存外気に入ったか?」

 珍しく乱れのない衣装を纏い、腰には湾刀まで履いている。まだひるにもならぬこの時よりに、かれの姿を見ることは随分と稀だ。


「陛下、」

 鋭利な褐色の頬には、どこか面白がるような笑みが浮かんでいる。

「……何を仰るかと思えば」

 溜め息ながらに吐き出して、ウズは入り口の脇に片膝をついた。

 ウズの拝礼を受けて、バスクス帝は支えていた幕を粗雑に払い、室の中へと踏み込む。

「人を置かぬ癖がそれで治るといい」

 卓の上の〝山〟を見やって、彼はその顔をしかめる。帳面の山は全てが皇帝から流れた政務。本人もそれがわかっているから、表立って口には出さぬのだろう。


 言外に「休め」と、柄にもなく心配されていることに眉根を寄せて、ウズは堅い声で言った。

「私がやらねば、すべてが無意味。ご心配は有り難く頂戴しておきます」

「……その仮面づらでよく言う。せいぜい私より先に死なんことだな」

 過労死など洒落にもならん――バスクス帝は軽い調子で肩を竦めると、室の奥にある小さな円卓までつかつかと歩いていった。


 円卓には、今朝がた来客用にとフェイリットがあつらえた、檸檬水入りの水挿しが乗っている。

「可愛げのある娘だ。お前が気に入ったのはこれか?」

 手ずから水差しを取り上げて、バスクス帝は珍しそうに目を細めた。

「いえ、何ということは御座いませんが……しいて言うなら気配でしょうか」

 立ち上がり、バスクス帝を追い歩きながらウズは続ける。

「うろちょろされるのは好かぬとはっきり申しましたら、まるで獣かという程にぱったりと気配が無くなりましたので」


 無意識なのか、意識してのことなのかはわからない。だがここ何日にも渡りその状況が続いている。気に入る、入らないは別としても、無駄な神経を削ぐことなく政務に集中できていることは確かだ。

「獣……余程変な育ちをしてきたとしか思えんな」

 あれで王女とは。言いながら眉間の皺を揉み解しているバスクス帝を見て、ふと手に持つ地図の存在を思い出す。


「――ですが陛下、あの娘……どう考えましても平民に育てられたようには思えぬのです」

 地図上から、この国に走る水脈を見抜くなど。

 地理を知り治める――帝王学。それは貴族が長子に施す家督を継ぐためのものではなく、国というより大きなものを継ぐための、王者のものだ。


 ひとつ間違えば、一国の王子や将に匹する教育を受けていることにさえなる。

 地理を知ることは治める反面、それが敵国ならば「攻める」ことにも繋がっている。彼女が知ったこの帝都の井戸の数。それを潰したなら、ここは容易に落ちるだろう。


 貯水のあるアデプ城内でも、城下の民衆の生活を一月と保たせるほどの水の確保は不可能だ。

 果たしてあの娘は、そこまで気づいているのか。

 先程の水脈のことを語って聞かせると、バスクス帝はいかにも軽い調子で、しかし声だけは立てずに笑った。


「男ならば大隊の首にでも据えられたであろうに。すぐに愛妾ジャーリヤに上げずよかったな。面白いものが見られた」

 人を圧倒させるような鋭い笑みは、決して相手の微笑を誘うようなものではない。戦慄に似た恐怖さえ植え付ける、その整いすぎた顔を見やって、ウズは持っていた帳面を卓の上に置く。

「側人の仕事を、やらせてみようと思うのですが」

 バスクス帝は暫く面食らったように沈黙した後、今度こそ声を立てて笑いだした。

「ほう、本気でジャーリヤにはしたくなくなったか?」

「……そういうわけでは」

「ならば、ヤンエ越えも任せてやろう」


「まさか砂漠越えの人選……ですか? しかしあれはラジ・ハ・ヌフリム大佐に一任致そうとしていたもの。あんな小娘に……」

「側人にと、たった今言ったのは誰だ。ザラナバルを落とせるか否か。要はそれだけだ」

「そうですが、」

 渋るように顔を伏せると、バスクス帝が横を通り過ぎる。

「今夜はトスカルナの宮に戻れ」


「……休養は要らぬと申し上げたはずですが」

 冷たい声がウズから出されると、バスクス帝は口の端を歪めた。

「お前が居ぬ間にでも、あの娘を見ておこうと思ってな」

 付け足したような口実だった。だがあながち嘘ではないこともわかる。口も手も、出るのが早いのがこの方の性分。


「お抱きになるのでしたらお申し付け下さい。娘に薬を」

 苦々しい表情を浮かべて、バスクス帝は首を横に振った。

「――申し訳ございません」

 深々と立礼をとり、ウズは静かに瞼を落とした。


 終着点はたったの一つ。そこに向かって進み続けるしかない背中は、恐れもなく伸ばされたまま。

 室から出て行くその後ろ背を暗い面もちで見やっていると、入れ替わるようにして小柄な小姓が一人、慌ただしげに戻り来る。


「――ウズ様、間に合いましたぁ!」

 余りにも必死なその形相に、ウズは思わず苦笑した。



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