28 トスカルナの小姓

 診療所の戸口に立った人物を見て、アンは微笑んだ。

「フェイリット!」


 黒のアバヤですっぽりと足先まで覆われていたが、唯一覗く水色の瞳ですぐにわかった。軽く礼をしてこちらに来る彼女を迎えながら、一週間も経つのか…とアンは思う。彼女が街中でアバヤを着るようになるなど、なんだか時間の経過を感じてしまう。たしか最後に会ったのは、ウズが彼女を欲しいと言った日だったか。


「お久しぶりです」

 久し振りに見るフェイリットの瞳が、笑みの形に細くなる。

「久しぶり。どうしたんだ、こんな夜に。腕の痛みが辛くなったか?」

 しばらくは診察もできないだろうと、発熱や菌を抑える薬と、湯に溶かして飲む痛み止めの薬を預けていた。見たところ顔色も良いし、痛みを訴えるような素振りも見られない。


「それが…」

 僅かに躊躇って、フェイリットはアバヤの切れ目から巾で吊った腕をすっと差し出す。

「痛くないんです。動かしても、普通だし」

「え?」

 とりあえず、診察用の丈の低い寝台の縁に座らせて、彼女の左腕を診る。

「なんだ…? これは」


 腕に触れながら、アンは驚きの表情を浮かべた。

 複雑に折れていたはずの骨が、治癒している。それも、完全に。

 設備の整わぬこの現状で、骨折の完治はそもそもありえない。少しだけ曲がって癒着するとか、患部だけ異様に太くなってしまうとか…そうなるのが普通だった。なのにこれは―――フェイリットの腕は、骨折前とまったく同じ腕の形を保持したまま、治癒していたのだ。


「治った…んですか?」

 骨折から一週間と少し、並の人間ならありえない。まさかこんなことがあるのだろうか。

「曲げたり伸ばしたりできるか?」

 フェイリットの手首を掴み支えながら、ゆっくりと曲げ伸ばしをさせる。

「痛くはなさそうだな…痛み止めは?」

「ここ最近は飲んでないです」

 これは本当に…。そう思いながら、もう一度上腕から関節、前腕まで骨のつながりを触れて確認する。――だがやはり、どこも折れてはいない。これはもう、首を傾げるしかなかった。


「珍しい子もいるものだね…傷の治癒がこんなに早いなんて。いつもそうなのか?」

 腕を吊っていた巾を取り外して、軽く揉んでやる。質問の返事が無いことに気づいてフェイリットをふと見やると、なにやらぼんやりとどこかを見つめている。

 心ここにあらずといった風のその様子を見つめて、やはりアンは首を傾げるしかできない。


「フェイリット」

「は、…あ、はい」

「どうしたんだ」

「な、治ったんですよね?」

「ああ、驚いたけど、完全にくっついてるね」

 ありがとうございました。そう言って、フェイリットはいそいそと立ち上がる。何を隠しているのか―――だがこの場合、何かを隠していたとしても、それがいったい何であるのかなんて検討もつかない。


「痛みが無くなったのはいつから?」

「昨日の…昼ごろです、たぶん…」

 無意識なのだろう。もう痛くはないはずの左腕をわずかにさすりながら、フェイリットは言いづらそうに答えた。

「待って。もう遅いから、うちの小姓に送らせる。テギ!」

 奥の小部屋で診療記録をつけているはずの小姓の名を呼ぶ。

「はい」

 返事はすぐに返ってきて、それからしばらくしてテギが仕切り布を潜って出てくる。


 ガタン!

「わっ、」

 突如鳴った音と、驚いたようなフェイリットの声。背後で上がったそれらの音に何事かと振り返ると、寝台脇の椅子をひっくり返して慌てて戻している彼女の姿を見止める。

 先程から、なんだか様子がおかしい。

「だっ大丈夫です、一人で帰れます」

 より一層心配させるようなことをしておきながら、フェイリットはアバヤを深々と被り直して告げた。その瞳まで伏せられて、瞼の向こうに隠れてしまう。


「あれ?」

 テギがフェイリットを見やってふと首を傾げた。

「君は…」

「ア、アン、ありがとう!」

 今度は何だと聞く前に、戸口に居たフェイリットがまるで逃げでもするかのように慌てて礼を残し、診療所から出ていってしまった。

「…どうしたってんだ」

 後ろ背を見送りながらつぶやいていると、隣にテギが歩み寄って来る。

「あの子…女の子ですか?」

「当たり前だろ。アバヤを着てるくらいだ」


 イクパルの城下の女たちは、アバヤという名のヴェールで身を隠す。一方の男たちは、カントーラという簡素な白布を纏う。半ば民草の慣習となりつつあるこれは、ずいぶん前の皇帝の治世から始まったものだ。女は家で絨毯を織り、男は外で遊牧に勤しむ。そんな長年の風習が、「女は人前に姿をさらさぬもの」という認識を強め、結果あのような衣装ができあがったのだった。男がアバヤを着たり、女がカントーラを着たり、そういった逆のことはまずしない。とはいっても軍衣はカントーラに近いものなので、それを常用しているアンにとって声高に言えることでもないのだが…。


「なんか、似てます」

「似てる?」

「この前話した小姓ですよ」

 ふわふわと揺れる、彼女が出ていったあとの仕切り幕を見つめてテギが訝しむ。

「ああ、新しく入ったっていう。誰付きかぐらいわかるだろう?」

 彼らが一番最初に気にするだろう、「主人」の名。新入りなら尚のこと誰かが聞いていておかしくはない。

「それが…未だに誰も話しかけられないんですよ、早食いで」

「なんだそれは」

 話しかける隙もないほどの早食いだなどと。思わずアンは苦笑する。

「最初は驚きました。あんな綺麗な顔しておいて、まるで犬か狼かっていう」

「じゃあ尚更あの子じゃない」


 アンは何度か夕食を供にしたことを思い出しながら、首を振る。

 村出の娘にしては、きちんと整えられた作法だった。イクパルの作法は食べ物を指で掴んで食べるのだが、それにもちゃんと美しい作法というのがある。城下の民や村での食事法も、おそらくは指か杓のようなものだろうが、アンやエセルザのような宮廷の作法は誰かに教わりでもしないかぎり身につくことはない。


「誰かに…?」

 ふとした疑問を口に乗せると、テギが脇で首を傾げた。

「取り敢えず追い掛けてもいいでしょうか?」

「ん? ああ、」

 やっぱり女の子ならこの夜道は危ないですよ、そう言いながらすでに戸口に立ってこちらを見やるテギに頬を緩める。

 この暗がりの中、アデプの迷路を正確に歩けるほどフェイリットも詳しくはないはずだ。それにここは軍轄の区域。どんな危険があるか、知れたものではない。


「頼んだよ、行っといで」

「はい」

 仕切り幕をぱっと飛び出て、テギは軽い歩調で駆け去って行った。

 その背中を見送りながら、アンははて、と考える。フェイリットは一体、ウズルダンのところで何をしていたのだったか。



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