27 琥珀のジャーリヤ

 黒くて厚い小さな扉。太ももまでも届かないであろうその扉を見下ろして、フェイリットは表情を堅くする。


 この扉の向こうが――皇帝の愛妾たちが住まう後宮ハレムだ。

 敷地は皇帝宮の三分の一にも及ぶ広さなのに、その入り口は三ヶ所のみ。

 女たちが入宮するとき初めてくぐる正面の大きな扉。皇帝陛下の寝室へ通じる伽の扉。――そしてフェイリットが目前に立つ、三つ目の扉。

 北向きに据えられたそこは、宮殿の中に於いてどこか物寂しく、見渡しても庭園の切れ端すら目に入れることができない。


「死の扉…」

 呟いて、薄ら寒さに震えてしまった。

 ハレムに入ったら最後、通常死ぬまで出ることは許されない。三つ目の扉は、この宮殿を去ることができる唯一の「出口」だった。

「生きた人がここから〝入る〟のは、きっと初めてでしょうね」

 面白そうに呟くのは同じ小姓である少年、トリノだ。

「なんか気持ち的に、あまりいい気分じゃないんですけど」

 死人を搬ぶための扉を前にして、トリノのように楽観することがいまいち出来ない。


 フェイリットは眉根を寄せて、何重もの扉の鍵がトリノの手によってひとつずつ外されていくのを静かに見ていた。

 ハレムに入宮するわけではないと、ウズに言われて疑問を持つべきだった。まさか死体を運びだすための扉からこっそり入って、またこっそり抜け出てこなければならないなんて。

「でもウズ様も僕も、ここから出たんですよ」

 がちり、一番最後の錠前が外されて、重い音をたてて扉が開く。

 そうだった、トリノも……。


 フェイリットは複雑な思いで自分の隣にいる少年を見やる。

 ――高貴な者の側に仕えるため、人為的に不能とされた従者たち。薬をウズから貰い、着替えたところに実はトリノもそうなのだと告げられ、受けた衝撃は小さくはなかった。

 しかもトリノは何もわからぬ幼い頃に「それ」が為されたため、まったく自分の意志はなかったという。自分といくらも歳の変わらぬ少年が――…そう考えただけで腹立たしくてならない。


「ウズ様が宰相になられてから、新たな宦官の当用はなされていません。きっとこのまま消えていくはずです」

 トリノは笑ってこちらを向いた。哀れんでいると、そう思われただろうか。

 フェイリットは申し訳ない気持ちで、トリノの瞳をじっと見つめる。

「僕も一緒に行きます。不安に思うことは何もないですよ」

 フェイリットの思考の機微は、とっくに察しているはず。なのに人を案じれる彼の言葉に、頭が下がる思いだった。

「ありがとう」

 ぽっかりと口の開いた小さな扉の前にひざをつき、フェイリットはトリノに笑顔を返した。




 後宮ハレムの中の大浴場ハマムは、散り散りに六つもあるものらしい。

 殆ど個人用の小さな浴場から、女たち全員を入れられるほど大きい大浴場まで。そのすべてが蛸壺たこつぼ型の末広がりで、一番奥の天井が円型の浴場まで、五つの部屋に区切られている。


 一番最初の部屋で服を脱ぎ、次の部屋は休憩場。長方形に広がっていて、奥から流れる空気でほんのりと暖かく、長椅子とふかふかの枕が並べられていた。うつぶせに休む裸の女たちを横目にちらと見て、フェイリットはため息せずにいられない。


 皆が皆、女らしさに溢れた豊かな身体をしていた。こうして比べても、やはり自分には女らしさというのがない。長年の剣技の稽古のせいで、丸みよりも筋肉が目立つ。もしかしたらウズは、この乏しい身体を見た上で「ハレムでの出世は望まぬだろう」と言ったのではないか。


「次の部屋は蒸し風呂です。毛穴が開くまで絨毯の上で寝ていてください」

「えっ、トリノは?」

「僕はここまでです。垢すりを言いつけてあった侍女が待っていると思うので…」

 腰だけに布を巻くトリノに比べて、フェイリットはもちろん素っ裸だ。こちらを見やったトリノの鼻面に手を当てて「ちょ、直視はだめ」と呟く。


「僕を男だって思わなければいいんですよ、ほら、他のジャーリヤたちだって目もくれないでしょう」

 宦官はハマムまでの立ち入りを滅多にしないが、したところで誰も何も言わない。苦笑して、それでも前を向きながらトリノは言った。

「それは…ごめんなさい…」

 うな垂れて言うと、トリノは声をたてて笑った。

「じゃあ、さっきの休息場で待ってますから。いっぱい汗かいてきてくださいね」


 最初の部屋の方角にトリノの背中が消えていき、フェイリットは蒸し風呂の中でひとり立ち尽くす。

 あちらこちらで、敷かれた絨毯の上に女たちがうつぶせに寝転がっている。三番目の部屋であるからか、今までよりここは随分と暑く、蒸気で視界も白い。

 ゆっくり寝て汗をかけと言われたが、すでにふつふつと額にしずくが浮いていた。

 絨毯へと移動するためにきょろきょろと見渡していると、ひとりのジャーリヤと目が合う。


 ―――うわ、美人。

 蜂蜜色の肌に、麦穂のように暖かい色の金髪が、きれいな輪郭を囲んで腰元まで落ちている。

 琥珀色の瞳も形の良い木の実型で、目が合うだけでこちらの動きを止めてしまう程の意志の強さが垣間見えた。

 慌てて目を逸らし、陣取りをどうしようか迷っていると、

「タブラ・ラサ?」

 いつの間にか先程のジャーリヤが目前に立っていた。タブラ・ラサ……なんだかどこかで聞いたことがある。フェイリットはしばらく考えるものの、ウズが自らを呼んでそう言ったなどとは思わない。


「違うのなら別の名前を名乗ったらどう」

 人違いでは、そう答える前にジャーリヤが繋げた。

「名前?」

「そう、ここにいる女たちは、皆おまえより目上なのよ」


 言われて、周囲を見渡す。その場に居合わせた十人ほどの女たちが、皆一同にこちらを睨みつけている。驚きつつも、フェイリットは慌てて頭を下げた。

「…申しわけありません」

 名前、名前…こんなところで本名を言うのはもっての外。フェイリットはやはり、一番使い慣れた名前を名乗った。

「フェイリットです」

 目前のジャーリヤを見上げそう返すと、何がいけなかったのか、あからさまに顔を歪められてしまった。


 逃げるようにもう一度ジャーリヤの前で礼をして、部屋の奥まで小走りに走った。周りに人が居ない絨毯を選んで、やれやれと寝そべる。

 フェイリットは他のジャーリヤたちを見ないように――また目が合うと厄介なので――ひたすら汗をかくことに必死になった。

 そうして四番目の浴場に入るころには、フェイリットは蒸気と暑さにふらふらだった。


 トリノには侍女が待っていると言われたものの、誰なのかわかるはずもない。見渡す限りたくさんの女たちが、皆一様に身体を洗ったり香油を塗ったりする姿が広がる。

 どうすれば良いのかときょろきょろしていると、隅で一人の女が手招いている。侍女の元へと歩いて行って、フェイリットは息をつく。

「あなたは…」

 見たことのある顔だった。ウズの小姓になったその日、トスカルナの宮から皇帝宮の手前まで、自分を案内した侍女だ。

 歳のころは二十の前半だろう。焼き菓子の色の濃い肌と、鳶色の瞳。

 彼女も愛妾のひとりかと思っていたが、ここで会うということは、やはりそうなのだ。

 少しだけ目線の高い彼女は頷くと、厚くて魅力的な唇を笑みの形にした。


「覚えていて下さって嬉しいですわ。言い付かっておりましたタラシャです。お身体を擦りますので、こちらの椅子に」

「…あの、ありがとうございます。愛妾ジャーリヤたちは、こんなのを毎日やってるんですか」

 頑張ったつもりだったが、時間にしてはさほども経っていないはずだ。自分より随分と先に居たであろうに、平然としていたジャーリヤたちを思い出す。


 一瞬驚いたような顔をして、タラシャは笑った。

「彼女たちも必死ですから。でも慣れると心地良いものですわ。……たくさん汗をかきましたね、お水を飲みましょうか」

 もっと短い時間でも良ろしかったのに、そう言いながら彼女は持っていた水差しから水を酌みフェイリットに飲ませる。喉を落ちた水は、檸檬の香りがほんのりと香った。


「…はあ、わたしどうしてここに居るんでしょうか」

 はたから聞けば大丈夫かと案ぜられるような呟きであったが、フェイリットにとっては切実だ。

 椅子に座ってタラシャに垢を擦られながら、考えはそちらに傾く。何せいきなりギョズデ・ジャーリヤだなどと言われ、大浴場ハマムで身体を磨かれているのだから。


「この奥に身体を浸ける湯槽がありますが、今日は香油をぬって終わりにいたしましょう」

 ここに来るまでふらふらになったフェイリットだが、肌がすべすべになるという香油はさすがに癖になりそうだった。垢擦り場から移って長椅子に寝そべり、背中から四肢へ香油を塗り込んでもらう。―――全身の凝りが和らげられて、心地よい眠気が襲ってくるのだ。誘われる眠気にまかせて、そのまま眠ってしまうほどに。


「そうでした、言伝てを預かっておりました」

「……ことづて?」

 眠気に回らぬ頭で、フェイリットは顔を上げる。

「はい。バッソスへ行く前に色々と準備がございますので、このままハレムにお留まりいただくようにと」

「…え! 私、やっぱりハレムに入らなきゃならないんでしょうか!」

 慌てて寝そべらせていた身体を起こし、背後のタラシャを振り返る。

「いいえ、ご安心なさって。バッソスまでの三日だけ―――あら?」

 背中から移り、腕に香油を塗りこんでいたタラシャが、声を上げる。


「なにか…」

「確かこちらの腕でしたわね、痛くありませんでした?」

 強く擦りすぎてしまいましたわ、彼女はそう言いながら申しわけ無さそうに首を傾げた。

 痛い…? そう考えて、フェイリットはようやく気づく。

 骨折していたはずの左腕が、痛みも無く動いていたことを。

「――うそ…」

 身体を起こして、左腕を見下ろす。握ったり開いたり、回しても痛くない。


 …まさか…昼間の変化で?

 そんなはずはない。と思うのだが、それしか原因を考えることができない。あの不完全な竜への変化が、負傷していた腕をくっつけてしまったのか。どうりで、最初の時より痛みが強かったわけだ。湧き上がるような力と、それにも増す激痛。そして行かなければと―――、

 …どこへ?


「申しわけございません。包帯をお取りしてよろしかったのですか? よければ持って参りますけれど」

 必死で「誰も居ないところへ」と回廊を走ったが、本当に人の居ないところを目指すなら庭園を突っ切った反対側になる。そこなら例え変化を終えてしまっても、植えられた木々が身体を隠してくれたはずだ。

 一体自分はどこへ向かって逃げていたというのか。皇帝宮を「表から」出たのでは、当然人にだって会う。それだけ冷静さを失っていたといえば、話はつくわけだが…。


「フェイリット?」

「あの、ハレムに三日間〝ずっと〟居なくては駄目ですか?」

「どうかなさったのですか?」

「軍医のアン少尉に、腕を診てもらえないかと思って」


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