29 紺碧の空に舞う黄砂

 「なんだありゃあ……」

 息を切らして走りながら、テギは大きく顔をしかめた。

 遥か前方を走る〝アバヤを着た少女〟――黒い小さな影はあっという間に親指ほどの大きさになり、どんどん向こうへと離れていく。


 あの長くてぼてぼてしたものを着込んで、あそこまで早く走れるとは。さして間も置かず診療所を飛び出したというのに、もうどうにもならないほどの距離ができている。


 このまま追うか、諦めて帰るべきか。走りつづけながらテギは考える。

 幸いの一本道も、じき蛇の道のように曲がりくねるだろう。地理ゆえの視界の悪さに加えて、宵の時刻にあの「黒」は余計見づらい。ここで足を止めたら、追いつける可能性は無くなるだろう。

 両わきに建つ黄土色の家壁は、すっかり日が暮れた紺碧の夜空に浮き立つように迫ってくる。


 ―――追うか、諦めるか。

 やはり、気になる。あの少女が本当にアンの言うただの「少女」であるのか、テギの推測どおりの「小姓」であるのか―――今ここで突き止めねば、もう二度と知ることができない気もする。

 目を凝らせば見えるほどの黒い小さな影を、意を決して追い走った。

 右手に行けば、先回りで少女と鉢合わせられる道がいくつかある。背中を追い続けても隣に並び立てる可能性はかなり低い。テギは迷わずその道に折れ入って、〝アバヤの少女〟を目指した。



 あの透明な水色の瞳は、新入りの小姓と同じだった。

 あんなに薄い色の瞳は、混色の進んだイクパルではもう見かけることがない。姿が見えだしたのは一週間より前。象牙の肌に、銀に近い金髪を持つ、明らかに北方の人間。


 同じ北方色のせいか、その淡とした出で立ちはどこかトスカルナ宰相を彷彿とさせるものがあった。宰相の銀の髪と灰の瞳、……イクパル人より遥かに薄い肌。いくら前宰相・トスカルナの血を引くと聞いても、生粋のイクパル人の息子があの白銀の容姿では、あまりにも説得力が無さ過ぎた。今でこそ宰相としての辣腕を振るっているが、就任したての二年前は決してそうではなかったのだ。あの〝冷厳〟というに相応しい美しさ。わずかに擦れて出されるその声でさえ、「色」を漂わせる。それは当時の宮廷で、ウズルダン・トスカルナが「皇帝に見初められた」のだと、思わないものはいなかったほど。


 宰相を「冬」とするなら、あの小姓はまだ冷たさの残る「春」だろう。初めて姿を見せた時、どれだけの者が溜息をついたことか。

 サプリズ大佐付きのトリノだけは平然としていたが、あれは宰相とも関わりがあるので目が慣れている。

 色の白さだけならトスカルナ宰相のようだったが、それともまた違った。ターバンの隙間からのぞく金色の巻き毛が、その淡とした冷たさを打ち消すのだ。どこか柔らかい印象を与える形のいい瞳の、かつて目にした事のない透明な色合いを、皆いつしかじっと眺めていた。

 名前は、主人は、―――テギたちは様々の質問を用意して、彼を待ち受けていたのだが、

「……あれじゃあな、」


 せっかくの容姿も、食事の仕方で台無しになった。

 小姓たちが集まり食事を摂る厨房の一角で、賄いとして出されるイムとタナ。それを、唖然とするほどのがっつきで平らげお代わりまでして、あっという間に消えていく。

 休憩ならたっぷり半刻は与えられているだろうに、いったい毎回何をそんなに急いでいるのか、さっぱり分らない。聞こうにも、話しかけるのを思わず躊躇ってしまうほどの勢いなのだ。

 さすがに一週間もたてば慣れるものの、代わりに面白がって見物する者や、時間を計る者が出だす始末。もうすでに皆、話しかけようとしていたことすら忘れている。


「っ! 見つけた!」

 やはり脇道を選んで正解だった。狭い道をひょいと抜けると、こちらに走り来る〝アバヤの少女〟の目前に出た。

「何ですか?」

 進行を遮り立つテギに驚き、〝少女〟は足を止める。

「なにって……」

 あんなに走っていたのに、彼女は息一つ切らせてはいない。

 身長も、今耳にした声色も、そして印象的な瞳も――すべてがあの小姓と似通っていた。

「君、厨房に来る小姓だろ」

「……へ?」


 はっきりと言ってやったつもりだったのに、水色の瞳は怪訝そうにわずかに細められただけ。

 テギは眉根を寄せて、少女のほうへと近づいていく。

「犬みたいに食べたり妙に作法がよかったり、誰の小姓なのかも明かさない。おまけに男か女かもわからない…君はいったいなんなんだ?」

 じりじりと近づくと、少女が同じ分だけ離れていく。横目で必死に逃げ道を探っているように見えるが、無駄だ。

「言っておくけどその先は行き止まりだ」


 ぐねぐねと走るアデプの迷路は、門を潜って城の囲いに入っても同じ。こんなに面倒な造りなのは、敵の突入をぎりぎりまで伸ばし、また間者の進入を阻むため。とは跡付けで、本当の理由は遥か昔に遊牧の民が集まり建国されて、次第に大きくなったから……という何とも偶発的なもの。

 意図無く拡張され続けたアデプは、人を「迷わぬように」造られてはいない。どんなに感覚に長けた人物でも此処に住むなら最低で一、二年経たないと路を覚えるなど不可能。


「行き止まり?」

 声変わりも終えていない、透き通った声が返される。テギは頷いて、視線の先を〝小姓〟の向こうへと移した。

「この先は練兵場に続いてる。馬の嘶きが聴こえる? たぶんまだ、兵士達がやり合ってんだろうな」

 ふっと、少女の目の色が変わったように見えた。今し方無駄だと言ったはずの方角に、いきなりまた走り出す。

「ちょっ…! まって!」


 小姓の特質はたいてい二つに分かれる。宮殿の中で文官の偉人について雑用をこなす者と、武人についてゆくゆくは軍属へと育てられる者。テギは軍人よりだが、どちらかというと文官に近い。ともすればあの小姓は軍人づき――なのだろうか。見かけにはそぐわないが、「小姓」などというものは皆そういうものだ。こじ付けでしかなかったが、ならばあの身体能力にも頷ける。


 細い路地はだんだんと広がって、ぱっと突然広くなった。方々に兵舎や軍轄の建物が散らばっていて、その最奥に造られた丘に練兵場が位置している。ここからでも目にできる土埃が、宵闇の空に黄色く舞う。

「待って、危ないってば! 練兵場は小姓が入っちゃ…!」

 ぱたりと、黒い影が足を止める。ようやくその背中に追いついて〝小姓〟の視線の先を辿ると、

「エトワルト中隊長…?」


 今し方の帰りなのだろうか、軍衣を着た中隊長が驚いたように二人を見ている。アンの繋がりから何度か見たことがあるが、こうして面と立ち会ったことは未だ無かった。

 濃茶の髪色に、一瞬黒く見える深い茶色の瞳。切れ長の目なのに、何故だかきつさを与えない、優しげな顔立ち。

「コンツェ!」

 アバヤの〝小姓〟は小さくそう叫ぶと、なんと中隊長の元へ飛びついてしまったではないか。


「お前は…アンのところの?」

 ほとんど飛びかかったに等しい小姓を、すんなりと受け止め後ろ背に隠して、中隊長は驚いたようにこちらを見やる。

「…はい、その子を送るように言われて」

 視線だけでアバヤの裾を追いかけて、テギは頷いた。

「そうか、ありがとう。戻って俺が引き受けたって、アン少尉に伝えてくれないか?」

「承知しました」


 テナンの王子で、近衛騎兵連隊の第一中隊長。変な職差だったが、こうしてみるとそれも頷けた。王族にはけっして見られることのない親しみのこもる微笑みが、脳裏に焼きつく。

「お前も気をつけて帰れよ」

 敬礼するテギを残して、彼らは兵舎の方へと消えていった。


 ……結局今日も、わからずじまいか。

 あんなに息を切らせて追いかけつづけた自分に疑問を残しながら、まあ明日確かめればいいか、テギはそう一人ごちる。

 どうせまた、昼あたりに顔を見せるのだろうから。



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