05 金の髪、湖水の瞳


 その日のうちに、草原に張っていた天幕の撤収が決まった。

 ワルターは給仕の少年たちに指図しながら、外幕をくぐり出る。太陽はすっかり真上にさしかかり、じわりとした暑さが肌を焼く。

「おはようございます。ワルター・サプリズ大佐」

「アンか」

 目の前に立つ長身のアン・トスカルナの姿を認めて、ワルターは苦笑した。撤収にごった返す混雑のなかでも、彼女の声は張りが強くよく通る。


「なぜ笑うの」

「いや。ちょっと思い出しただけだ」

「コンツェの言っていた、陛下の武勇伝ですか」

 聞きましたよ、と呆れたように息を吐いて、アンは渋面をつくった。ワルターが「いや」と言って首を振っても、わかっているのだろう、彼女は再びため息を吐く。目線がなぜ、と問い続けている。


「陛下の武勇伝に、まさか少尉が含まれていようとは誰も思わんだろうな、と思ってな。このお堅い少尉どのが」


 いよいよその目を鋭く細めて、アンが首を傾げる。

「もう忘れて欲しいものですね。私にも若気の至りというものはありました」

「ふはは、陛下の毒牙にかかったって誰も責めはせんさ。あいつの女癖の悪さは周知だ。とくにトスカルナ家のアン嬢とあっては」


 成人もせぬうちからあっちこっちと女をたぶらかして、泣かせてまわった男だ。ごくごく身近にあったアンがその対象から外される謂われはない。


「まったく……八年も前の話でしょう、蒸し返されても困ります。その分では、コンツェにも話したんですね?」

「なんだなんだ、心配するなよ。俺がコンツェに話したのは八年前の武勇伝ではない。最近あっただろう、アンリの街の」

「ああ」

 納得したのか、アンはわずかに苦笑する。


「俺に口外するなと釘を刺しにでも来たのか?」

 面白そうに聞くと、アンは小さく咳払いをした。

「あの少女のことです」

 テントを片付けていた小姓たちの、「飲み物をお持ちしますか」という問いを片手で断りながら、アンは呆れたように肩を竦めた。

「ずいぶん楽をしているようですね」


「おもしろい。同じことをコンツェも言っていたな。しかしおまえまで言うとは思わなんだ。給仕を雇ってないのか」

「ええ、私は何でも自分でしますから」

「然様で。おまえはどう考えているんだ、あの娘をどこへやるか」

「医者としては、患者の完治を見届けたい」


「医者としては、か」

「なんです、その言い方。他意はありませんよ」

 アンの区切りをつけた返答に苦笑して、ワルターは歩き出す。足はアンの天幕へと向かっていた。

「目覚める気配はないのか」

「ええ。天幕の中だけでは限界もあります。このまま眠り続けたらいっそう衰弱するだけ」


 目覚めていれば、家を調べて帰してやることもできる。しかしそれが叶わない今、副都アンリに住処すみかを与えてやるか、誰かが王都へ連れ帰る選択肢も考慮しなくてはならない。

「だが、残念ながら陛下はもうすぐお見えになる。娘の身寄りをどこかで探すのにも時間が足りないわけだ」

 ワルターの言葉に頷いて、アンはため息を漏らした。

「私が連れ帰ってもいいでしょうか。治療もできるし」

「ああ、そうしてくれると助かる。いきなりコンツェに預けるのもどうかと考えてたところだ」

「私もです」


 ワルターは歩みを止めて、後ろを歩くアンの瞳を振り返って見つめる。その青い双眸が、視線を受けて柔らかく細められた。

「口には出していませんが、コンツェはあの娘をいたく気に入っています。うまくくっつけてあげたい。私はあの子にいろいろと助けられましたから」

「そうだな…」


 アンの背には縮れた大きな傷がある。戦争でうけた傷ではなく、幼少にできたものだと以前彼女に聞いたことがあった。肩口から腰まで、ばさりと斬られたような痕だ。だが、それが幼少にうけた傷でないことなど、ワルターにはわかりきっていた。まさしくその頃に、自分たちは出会ったのだから。


「陛下にも早くお后をお決めになってもらわねばな」

 ほんの一瞬、アンの表情に陰りがさす。それに気づかないふりをして、ワルターは視線を足元に移した。


「たとえ連夜宴を催しても、女に本気になることはないでしょう、あの方は」



   *


 アンのテントを訪ねると、当の本人はどこかへ出かけているらしい。

 怪我人のために撤収を遅らせた天幕は、最低限の道具しか残されていないようだった。端のほうにぽつんと置いてある椅子を引いてくると、コンツェは寝台の横にそっと座った。


「早く目覚めてくれよ」

 眠り続ける少女を覗き込み、不安を抱えたままひとりごちる。

 蒼白だった顔は幾分ましになったが、それでも白い頬に赤みがさすことはない。この長い睫毛まつげがふわりと開いて自分を見つめたなら。白い頬が薔薇色に輝いたなら、どんなにいいだろう。


 コンツェは一瞬ためらい、それでも見るものがいないのを確認すると、少女に向けて手をのばした。そっと、金髪を指に絡めてすくう。するりと梳けて、おちる。やわらかく、なめらかな感触だった。それはどこか、雛鳥の羽毛を思わせるものだ。


「うう……」

 髪を梳いたのが刺激になったのだろう。身じろいで、少女がかすかに目を開く。

 金髪はぼさぼさに四方へ散ってしまった。風が外から吹き込んで、彼女の前髪をふわりと撫でていく。やわらかそうな印象は変わらない。

 再び触れたい衝動がこみ上げ、コンツェは小さく首を振った。


「あ、」

 すると、少女の瞼が今度は大きくぱちりと開いた。コンツェの視線とぶつかる。苦しそうに何かをつぶやくが、コンツェは首を傾げることになった。イクパル語ではない。語学に乏しい彼だったが、それだけはわかった。

「大丈夫か?」


 見るからに、少女は驚いたようだった。大きく開かれた瞳の色の美しさに、コンツェはぼんやりと口を開けた。透き通った水色の瞳。森中の湖水のような。透明なその球体に、口を開けた自分が映っている。


「ここは……イクパル?」


 少女は小さく呟いた。

 その呟きをやっと聞き取って、コンツェは頷く。

 少女の話した言葉は、今度はコンツェにもわかった。同時に、彼女の身体が小刻みに震えていることに気がつく。湖水色の瞳には、はっきりとした怯えが浮かんで見えた。


「俺はイクパル帝国軍近衛師団の中隊長で、コンツェだ。心配しなくとも、君は無事家まで送り届けるよ」

「わたしは――フェイリット。あの、ここは? わたし、どうして……」

「アルマ山の中腹で、瀕死だったのを見つけたんだ」


 フェイリットが頬を引きつらせたのを、コンツェは見逃さなかった。何か事情があるにせよ、聞き出すのが困難ならそれでいい。しかしそれに勝る好奇心が、コンツェにはあった。

「左腕骨折に出血多量の深い切り傷がいくつか。俺は医者じゃないが、君の負ったのは並大抵の怪我じゃない……なにがあったのか、教えてはくれないか」


 フェイリットは自らの左腕を見おろし、息を呑んだ。麻酔が効いている、と言ったアンの言葉に偽りはなかったらしい。痛みを感じていないのか、動かそうと揺さぶっている。


「やめたほうがいいぞ。後から泣くことになる。外れた骨を入れ直すのは吐くほど痛いんだ」

「……メルトロー王国に行くはずだったの」

「ひとりで?」

「連れがいたわ。でも……途中ではぐれてしまって、ううん、というより、わたしが逃げてきたの」

「それは……、」

 考えたところで、コンツェは気づく。


 ――人買い。


 奥地ではいまだに、食扶ちを減らし生活資金を得ようと、子供を売る風習が残ると聞く。

「まさか、人買いに売られたのか」

 売られた子供は奴隷になるか、娼婦になるか。運が良ければ主と結婚することもできるが、それは多妻制の残るイクパル帝国やリマ王国のみでの話だ。メルトロー王国では、普通の生活はまず望めない。

 コンツェの目前で弱る少女は、まさに運のいいほうの人間かもしれなかった。


「人買い? ……そう、似たようなものかも」

 わずかな間をあけて考え、フェイリットが頷く。

「じゃあ追っ手にやられたんだな、その傷は」

「違うわ。逃げてる途中で――」


「おお! お姫様のお目覚めだな」

 ばさりと乱雑に外幕が上がり、長身の女性が顔を出した。赤い短髪と頬に散った火の子のようなそばかす。アンの日焼けした顔に並ぶ二つの青い目が、こちらに向かって細まる。

「アン少尉」

 コンツェは名を呼ぶと、はっとして顔を赤らめた。

 勝手に入ったことが、ばれてしまった。加えて、その後ろからずんぐりした、これまた長身の体躯が現れる。


「……大佐」

「おう、王子のキスで目覚めたか?」

 考える必要もなく、ワルターだった。二重の恥ずかしさで、頬がさらに熱くなる。


「おはよう。っていってももう夕方だ。お嬢さん、そろそろ腕が痛くなるころだと思う。注射で鎮痛剤を打つか、それとも痛み止めの薬を飲むか。どっちがいい?」

 がつんがつんと軍用の長靴ちょうかを鳴らし歩き、アンは側にあった卓に乗る、銀の盆を無造作に掴んだ。


「何か違いが?」

 フェイリットは不安げな眼差しをアンに向けている。

「早いか遅いかだけだよ。さして変わらない。注射なら効きは早いけど、ちょっと痛い。薬は効くまで時間がかかるから、やっぱり痛い」


 選べ、という言葉とは裏腹に、アンの手は注射器を持ち、薬を入れているところだ。フェイリットはコンツェを見遣るが、彼は何も言う気はなかった。アンに従うのが一番だからだ。

 それを見たフェイリットはひょこりと肩をすくめて、苦笑した。


「名前を聞いてなかったね、私はアン・トスカルナ。近衛師団の軍医だよ」

「俺はワルター・サプリズ。近衛師団長だ」

「フェイリット、です」


 恥ずかしそうに、フェイリットは笑った。


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