06 闇夜の男


 暗がりの中、人の話し声や馬のいななきが天幕ごしに聞こえくる。帰路の準備に追われる兵たちが、忙しく行き交っているのだろう。

 目が覚めて、フェイリットは思わず自分の両手を見つめていた。

 竜の――忌まわしいあの獣の毛皮が、むき出しになっていては困る、そう思ったからだった。


 けれどあの時千切れたであろう人間の皮は、何事もなかったように元に戻っている。

 ……ヒトの皮を被った、ヒトじゃないもの。

 フェイリットは小さく震えて、目を閉じる。


 皮膚が千切れて、竜に変わるときの痛みといったら。思い出すだけで吐き気が込み上げる。視覚、聴覚、嗅覚、触覚――感覚のすべてが急激な変化を起こすのだ。

 ぐるぐると回転する視野にふらつき這いまわると、今度は皮が千切れて絶叫する。


 ――あんな思い、もう二度としたくない。


 そうして気がつけば、暁の空を飛んでいた。

 ふと手元を見れば、びっしりと覆う黄金の毛皮。上を仰げば真っ赤に燃える朝焼けの空が、遥か彼方にまで続いている。

 これは現実のものなのか、と、恐ろしさで身をよじり、黄色い爪で身体を掻き毟った。そうしてもがいているうちに、空高くから落っこちるはめになったのだろう。


「まさか生きてるなんて」

 普通の人間があの高さから落ちたなら、きっと即死だったはず。

 重症とはいえ数ヶ所の骨折と切り傷ですんだのは、他ならぬ自分の忌まわしい血のせいだ。実感がわかないまま、竜なんて御伽噺を、誰が信じるものかとさえ思っていたのに。


 破壊の神、覇王を生む化け物、伝説の軍鬼……その呼び名は無限と言っていい。

 ある時は怪談、ある時は野心の夢として長らく語り継がれていた〝竜〟の存在。

 その多くは誇張も多い。国一国を一夜で滅ぼし、王に永遠の力を与え、その地にほうじょうを降らせると。


 そんな都合のいい物語、あるわけがないのに。


 竜も所詮は〝ヒト〟だ。少しばかり、血のねじれ曲がった人間。主と結べば永遠に近い時を生きることもできるが、斬られれば血が出るし、死ぬことだってある。

 軍神やら軍鬼だのと讃えられるのは、幼い頃からの鍛錬のたまもの。それが、優れた身体的特徴だとしても、何もせず一端いっぱしの人間くずれが最強などなれるものではない。


 否、自分もそうだとフェイリットは思う。

 伝説に聞く、唯一表舞台にのし上がった最強の竜――エレシンスと自分が雲泥ほどに遠いことも、わかっている。


 たとえいま捕らえられたとしても、未熟なフェイリットが役に立てることはない。

 不老長寿を叶えることはできるが……。それも、王がだらだらと長生きしたところで、国は都合よく栄えてはくれないのが世の常。

 そこに伴う竜の武力や才智が、豊穣を約束するのだから。


 伝えられる伝承や説話をみな良いように解釈し、畏れている。まさしく、夢物語として。


 メルトローの国王は、果たしてそれを知っているのだろうか。

 役に立たない未熟者の「竜」がいることを。


「とりあえず今するべきことは」

 この状況をどうにかしなくてはならなかった。ゆっくりと起き上がり、フェイリットは確かめるようにつぶやく。

 なにしろ自分が居るのは、メルトロー王国の敵・イクパル帝国なのだから。


「早くしないと。今頃きっと……」

 いや、きっとではない。もうすでに、カランヌが〝はぐれた王女〟に向け追っ手を差し向けたことだろう。

 早く、それまでどこか遠くに逃げてしまわなければ。

 ……でも、どこへ? 


 頼るつてが何もない自分は、結局何もできないではないか。

 寝台から起こした身体の具合をあれこれ確かめ、フェイリットは顔をしかめる。


 ――左腕がひどかった。

 添え木と包帯でぐるぐる巻きに固められている。かなり複雑な折れ方をしているにちがいない。残った右手と両足は切り傷なのか包帯だけ。歩くだけなら、なんとかなるかもしれない。


 そろそろと寝台を降りて、纒いつく布地に気づく。膝頭まである、着心地のいいしろじの衣装だった。するすると滑らかで光沢があり、手触りもいい。

 山深くに育ったフェイリットには、触れたことのない素材だった。

 高価であろう布を、うっかり転んで汚さないよう、恐る恐る歩く。そうしてフェイリットは、時間をかけて天幕からすべり出た。

 逃げるなら、今のうちしかない。そう決意して。


 暗闇の中、あちらこちらに松明らしき炎が見える。コンツェが明日の明朝に帰還すると言っていたから、その最後の準備なのだろう。

 いつの間にか、不思議と夜目が利いていることに驚く。松明しか目に入らなかったのが、動いている人々や引かれている馬の姿、運ばれる荷などが昼間のようにはっきりと見える。


 これなら本当に、誰にも見つからずに逃げることができるかもしれない。考えて、フェイリットは歩き出す。少し足を引きずってしまうが、仕方ない。薬が効いているのか、痛みはなかった。


 そうして、テントを離れ暗闇に紛れようとした刹那。


「っ⁈」

 唐突に、何者かの手がフェイリットの腕を掴む。

 誰もいないと気配で察していたはずなのに……。反射的に片手で自らの顔を覆う。見上げた先で見つけた顔は、考えていた人物――カランヌのものではなかった。


「――トリノか? ワルターはどこだ」

 ほっとしたのもつかの間。全身を闇で包んだような風体の男が、こちらをじっと見下ろしている。闇中に溶けこむ黒髪と、同じような闇色の目。それがわずかに細まって、フェイリットを見る。


 恐ろしい。

 何かに絡めとられるような、いやな心地がした。まるで猛禽に爪をかけられた兎のような。


 ……この男と目を合わせてはだめ。本能が警鐘を鳴らすのに、フェイリットは顔を覆う手を下ろしていた。思わず見つめ、考えてしまう。男の漆黒の瞳は、夜闇とは違い見通すことができない。それが恐さの原因なのだろうか、と。


「おまえは、」

 深い声音で言って、男は鷹のように鋭い眼をフェイリットに近づけた。

 松明も持たず、暗がりで顔もわからないのに違いない。接近した鋭利な印象を与える風貌は、まるで陰影を計算しつくされた彫刻のよう。

 誰かと人違いされているだけなのに、それをどう言ったらいいかわからない。

「あの、」

 かろうじて声をあげると、男の目に驚きが形どられる。その漆黒の瞳のなんと恐ろしいことか。獲って喰われそうな印象まで受けて、思わず身を引いてしまう。

「……新参の、……侍女かなにかか」

「―――ち、ちが」


 暗闇の中の黒い相貌を見上げて、フェイリットは必死に声を絞り出した。言ってしまってから、はたと気づく。そうだ、と、頷いてしまえば楽だったのに――今は早くこの男から離れたい。そうしなければならない。恐怖に似た、それとも違うような恐ろしい……焦燥。


 この男の前に、もう一時いっときでも居たくはなかった。


「――たいていの顔は知ってるんだが」

 男は何かを考えるように眉を寄せ、その大きな手でフェイリットの顎首を掴んだ。

 恐ろしさに喉の奥で吐息を詰まらせ、フェイリットは小さな悲鳴をあげる。

「どちらにせよ、おまえは私の顔を知らないようだ……まあ、ちょうどいいな」

「えっ……、わ!」


 男の手が腰を掴み、あっという間に横抱きにされてしまう。暴れようと試みても、巧みにかわされて意味なく手足がばたつくだけだ。

「いやっ!」

 ちょうどいい? この男は、いったい何を考えているのか。

 身体を抱き込む腕の強さに、身の毛が粟立ち震えがおこる。


「は、はなして!」

 恐怖で、気が狂いそうだった。

 渾身の力を込めて、男の腕から逃れようともがく。無理だとわかっていても。

 そんなフェイリットの唇を、何かが覆う。

 それが何なのか考える間も無く呆然とするフェイリットを見下ろし、

「――黙れ」

 ただひと言、冷たい声で男は言うのだった。


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