03 飛翔する
フェイリットは
何も言わないサミュンの顔をちらりと見て、皿の中身をぐるぐると
「それにしても、美しくお育ちになりましたね。そのきれいな瞳など、まるで森の湖水のように透明でいらっしゃる。お肌の色もまるで、」
「やめてください。お世辞なんて」
〝お客〟の賛辞を遮ると、フェイリットはうんざりとため息をついた。自分のたかが知れた容姿など、褒められても嬉しくはない。それに今、ひどい顔をしているに違いないのだ。泣き腫らした目はぼんやりと重たく、顔全体が熱っぽい。鏡を見なくても、岩のようにむくれた顔なのは確かだった。
「……ご気分を害されましたか。申し訳ありません」
〝お客〟は自らをカランヌと名乗った。メルトロー王国まで、フェイリットを送り届ける役目なのだという。
フェイリットの暮らすアルマ山は、蛇のように大陸を這う山脈で、南北を区切る国境でもある。そのため、北のメルトロー王国に行くには、地元の民だけが知る険しい道をたどらなければならなかった。北側の山すそに降りたあとは、待たせている馬車に乗り、都を目指す手はずらしい。
ひととおり説明を終えると、カランヌは穏やかな表情を浮かべて言った。
「まさか食事をご一緒できるとは思っていませんでした」
感激だ、といわんばかりに、涙を溜めた目をしばたたかせる。
食事をともにしている感覚は持てなかった。カランヌはあたりまえのように微笑み、こちらをじっと眺めるばかり。サミュンがせっかく用意したパンにも、スープにさえ手を付けていない。
まるで珍しい生き物を観察して、食事すら手につかない、とでもいうように。
「無礼講だ。今日は門出なのだからな」
ゆっくりと酒を
「サミュン、……わたし」
「顔を拭け」
いつの間にかこぼれていた涙を、フェイリットは袖で乱雑にぬぐった。もう、何を言ってもだめなの?
「サミュンはここに残るの?」
サミュンはそっけなく、首を横に振った。スープのおかわりを三人分の皿に注ぎ足し、
「食べろ。早めに寝て、日が明けないうちにここから出て行くんだ」
よどみなく告げるのだった。
「サミュエル・ハンス様、そのようなことを申されてはサディアナ様がおかわいそうです」
「サディアナなんて呼ばないで!」
いきなり血相を変えたフェイリットを見て、カランヌが申し訳なさそうに顔を伏せる。
「フェイリットと呼ばれることはもうなくなる。メルトローに帰ったら、サディアナ王女に戻るのだからな」
「サミュン!」
メルトロー王国第十三王女、サディアナ。
病弱なため、隔絶された城のてっぺんで、生まれてこのかた病床を離れられない悲運の王女―――という噂が流れるようになったのは、いつの頃からだったか。
しかし当のサディアナ王女は、メルトローを脱し山奥で育ったのである。フェイリットという名を隠れみのにして。
「おまえは極めて濃い血をやどす竜だ、サディアナ。普通の人間として、幸せに生きようなどとは思わぬことだ。……お前の母親のようにはな」
メルトロー国王の二十番目の公妾。それがフェイリットの、生まれて一度も会ったことのない母親だった。
一国を強大なまでに育て、大陸制覇も叶えることができるという、竜。
母は人間ではなかった。そして、それを死ぬまで父に告げなかったのだという。
父――メルトロー国王は、自分の公妾の中に〝竜〟がいたことをひどく悔しがった。
存在に気づき血の契約をしていれば、〝竜〟は死ぬことはなく、より強大な国家を手に入れることができていたのに、と。
本来なら千年を生きると言われる竜は、主を持たない場合、二十年も生きられない。
自分の血を主に飲ませて初めて、契約が結ばれるのだという。
同時に、世界が手に入る。
そんな、御伽話もびっくりするような存在が母であり、自分であることに、フェイリットは納得できていなかった。きっと、母も同じだったのだろう。人間であることを貫いた母は、死に際にひとつだけ、国王の実弟であるサミュンに願った。
――娘を連れて逃げてくれ、と。
竜の血を持つ赤子は、戦乱を招く。野心を持つ者なら誰もが欲しがる竜が、極めて扱いやすい形――赤ん坊として存在していること自体、危険なことなのだった。
「国王陛下は、危険な状態からお前を守ることに賛同した。だが同時に十六を迎えたら帰すことも約束させた。血の契約をし、生涯をかけて仕えよと。お前はもう寿命が近い。お前の母リエダ様でも、お前を生んだその年十八歳の若さでお亡くなりになったのだからな」
「……誰とでも契約ができる?」
「それができるなら、きっとリエダ様はそうしていたはずだ」
サミュンは哀しげに笑った。
「――どういう……」
「お別れだ」
フェイリットはあわてて立ち上がると、サミュンのそばに駆け寄る。
「いや……サミュン、どこにも行かないで、一緒に来て」
サミュンは答えず、静かに食事を再開した。食卓には麓の村からとりよせた、めったに食べることができない山羊肉まである。この料理の多さが、きっと彼の偽りのない気持ち。精一杯のはなむけなのだ。
サミュンの胸に飛び込みたい。その衝動を必死に堪えて、フェイリットは力なく笑う。もとから叶わない夢だとわかっていた。
サミュンの心は、空よりも遠い場所にあったから――。
*
そうして、フェイリットはうっすらと目を開けた。あれから寝てしまったのだろうか。だが、何かがおかしかった。
――背負われている……?
思う間もなく、フェイリットは暴れだしていた。
「サディアナ様!」
カランヌが、慌てたように振り返る。その背から転げ落ちて、フェイリットは彼を睨みつけた。
「どういうことなの?」
立ち上がらせようとするカランヌの手を振り解き、喉元を目がけて殴りつける。カランヌは大きく咳き込んで、その場に膝をついた。
今居る場所は、食事をしていたはずの山小屋ではない。木々がうっそうと林立した、森の中だ。いつからかカランヌに背負われ、山を延々と下っていたことに間違いない。
「……さすが隙がない。サミュエル・ハンス生き写しでらっしゃる」
「冗談言わないでよ」
フェイリットの厳しい眼差しを受けて、カランヌは小さく首を振った。
「あなたが寝ている間に運び出せと言ったのはサミュエル様なのです」
カランヌの言葉に、ようやく我に返る。サミュンなら、考えかねない筋書きだ。
「そんな…」
最後の別れくらい、させてくれるものと思っていたのに。
フェイリットはふらつきながら、周囲を見回した。子供の頃からこのあたりを走り回っているから、自分のいる位置はだいたいわかる。
「戻るわ。別れくらいさせて」
土のついた膝を眺めていたカランヌの顔が、曇る。
「それはなりません……麓に馬車を、待たせてありますから」
「大丈夫よ、逃げたりしないわ」
言い終わるや否や、フェイリットは駆け出した。
「サディアナ殿下!」
カランヌの悲鳴にも似た叫びをうしろ背に聞きながら、フェイリットは森の中を突き進む。
「お待ちください!」
ぱしぱしと折れゆく小枝を踏みつけながら、見たことのある木々に手をつける。ここで遊びながら育った。山を駆け、サミュンに怒られながら、こっそり麓の村に下りたこともあった。村の男の子とけんかして、傷だらけで帰っても、サミュンはあたたかく迎えてくれたのだ。美味しいご飯と、沸かしたてのお風呂。
何も聞かないけれど、すべてわかってくれる。それがサミュンなのだ。
フェイリットは泣きながら走った。この森には、思い出が詰まりすぎている。
湖水を抜けると、小屋が見える。見慣れた丸太作りの家を見つけて、フェイリットは息をつく。家がないのでは、という不安があったのだ。
けれども、ふと流れた
「そんな!」
どうして自分は鼻がいいのだろう――。この臭いの元が何なのか、はっきりとわかってしまう自分が嫌だ。
「サミュン、サミュン!」
泣きながら、軋む家の扉を開け放つ。
今さらながら、あの時のサミュンの言葉の意を理解した。
――お別れだ、と。
扉を開けたことで、より強く錆びくさい臭いが鼻孔に流れ込む。
まぎれもない、大量の血のにおい。
入り口を開けると小さな客間がある。そこを抜けていくと、食卓も兼ねた手狭な土間。その土間の、開け放された扉の前で立ち止まり、フェイリットは嗚咽を漏らした。
「サミュン!」
扉を開けて目に飛び込んだのは、一面の赤。
血に塗れたサミュンの体が、無残にも床に転がっている。
「ひどい……」
恐れていたことが、起こってしまった。駆け寄って抱き起こすと、サミュンの体はぐったりと重みを増す。こんなにも重いのに、彼の瞼は閉じられたままだ。
「サミュン、サミュン、起きてよ……サミュエル……」
彼の手に握られた短刀は、元の色がわからないほどに血で濡れていた。サミュンの胸に顔を埋めて、フェイリットは悲鳴にもならない声を震わせる。もう、鼓動は聞こえない。
「こんなに血を流して……痛かったよね。わたしのせいで、こんな、こんな辛い思いを」
自分で腹を貫いて、それでも死ねずに喉を掻ききって……。ずいぶんもがいたことだろう。苦しんだだろう。
「どうしてサミュンが死ぬのよ。どうしてわたしに死なせてくれないの!」
人に死ぬなと言い置いて、自分だけ。
「ねえ、置いていかないで!」
叫んでも、サミュンは何も言わない。
不思議なことに、さっきまであれほど流れていた涙が、一滴も出てこなかった。
泣きたい。大泣きすれば、きっと彼は起き上がって、その大きな手で子どものころのように頭を強く撫でてくれるだろう。抱きしめてくれるだろう。
「起きて、サミュン……」
顔をぐしゃぐしゃに歪めてサミュンを抱きしめた。まだ温かい。呼吸も、脈拍も止まっているのに、身体だけが温かい。
「起きてよお……」
彼の肩を揺さぶると、手から小刀が滑り落ちた。開かれたその手の中に、何かが大事そうに握られている。
「これは……」
一枚の小さな紙片。くしゃくしゃに折りたたまれているのを丁寧にほぐしてやると、懐かしい彼の字で一言、
〝愛している――……、〟
「サディアナ様」
追ってきたカランヌが、いつのまにか背後に立っていた。なぜだか、気配をまったく感じない。けれどフェイリットにとって、カランヌが早々に現れた驚きよりも、悲しみのほうが勝っていた。
「どういう……こと?」
今度はカランヌがたじろぐのがわかる。
「―――自ら命を絶ったのでしょう」
「どうしてなのよ! どうして彼が死ぬ必要がある?」
振り返ると、カランヌはその場に両膝をつき、怯えたように肩を震わせていた。
フェイリットの金髪が淡くかがやき、風もないのにゆらゆらとなびいていたせいで。今さら怒りを堪えるには、遅すぎる。
カランヌのこの世の者ではないものを見る目つきを、フェイリットは苦笑して見つめた。
「なぜなの」
「サミュエル様は陛下と……十六年前、約束をなさいました」
「十六歳になったわたしを、王国に帰すことでしょう?」
カランヌは震えながら、首を横に振った。
「ちがうのです。約束はふたつありました。ひとつ目は、あなたの言ったとおりです。もうひとつは……十六年間あなたを育てたサミュエル様が、万が一にも主として選ばれることのないよう……自決、しろと」
「そんな……」
「サディアナ様、どうか怒りを、お静めください。サミュエル様は、」
カランヌの言葉を聞き終わらぬうちに、フェイリットは倒れこむ。突然襲い来た壮絶な目眩で、ちかちかと視界が点滅している。
「サミュエル様は貴女様の、」
「……サミュン……は、……?」
体が痛い。
もがいているうちに、びちびちと皮膚がちぎれていく。皮膚がぴん、と突っ張る感覚から、ぶちりと弾けて血肉が飛んだ。それをきっかけに激痛が全身を走る。だらだらと血が噴き、散っていく。
その壮絶な光景は、たとえ自分の身体でも嘔吐を誘うもの。
フェイリットは悲鳴を上げるだけでは耐えられず、床に両手をつき首を振った。
「いやだ! いやだ!」
「くるし……い、サミュ……」
引き裂けた皮膚から血が流れ出し、体の上をぬるりとつたう。こんなにも苦しいものだとは。気絶してしまえたら楽なのに、それが許されない。
どんどん研ぎ澄まされていく意識が、眠るな、と告げていた。視界が血塗られたように、赤く赤く染まってゆく。
……そして。
彼女は短い咆哮をあげると、山小屋の天井を突き破り、
――高く空へと飛翔した。
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