第一幕:宰相の小姓

02 空を嫌う


 物心がつく頃にはもう、夕暮れの空が嫌いだった。

 世界があかがね色に沈むひと時が、怖くて怖くてしようがない。その迫りくる焦燥は、どこかとらえどころのない不安と似ていた。たとえば大切な居場所が、ぱっと消えてなくなるような。あるいは知らない場所にひとり、道を失って途方にくれるような。


 くしゃくしゃに泣きはらした顔のまま、フェイリットは空を見ていた。

 夕陽の色のすじ雲が、ゆっくりと流れていく。鮮やかな雲は山すそを深く隠して、海のように広がっている。その雲海の向こうに見えるのは、あかがねと黄金と群青とを溶きあわせたような空。見るものが見たなら、誰しもが褒めそやすであろう、美しい山頂の景色だった。


 それがフェイリットにとって、心をかき乱すだけの厄介な景色だとしても。

 おもわず身震いをして目をそらせば、その先に大柄の男が立っている。落ち葉を踏む音はほんの微かで、普通の人、、、、が聞いたなら無音にも思えたことだろう。


「サミュン」

 その男――育て親の名を呼んで、フェイリットは顔をそむけた。

 夕陽が怖い。

 克服するように、と彼の忠言を受けたのは、ずいぶんと昔だ。幼い頃に捨てたはずの恐怖は、未だフェイリットの中にくすぶり続けていた。こうして毎日見上げても、いっこうに去ってくれないのだ。

 内緒にしてきたものを、ついにサミュンに知られてしまった。ばつの悪さと不甲斐なさで、フェイリットはしおれる。


「こんなところにいたのか」

 泣き顔を見つけたはずなのに、サミュンは何も言わなかった。静けさのなか、さくり、さくりと落ち葉を踏む音だけが近づいてくる。

「そろそろ雪も降るころだ。そんな薄着では、風邪をひくぞ」

 あさってを向いた視界のすみに、大きな影が写りこむ。横目で見上げたサミュンの頰には、燃える夕陽が射していた。頰を覆う濃金の髪に、風がふわりと吹きつける。そこからのぞいて見えたのは、顔の左側を裂く物々ものものしい傷痕だった。額から顎にかかるまで、左目を抉って斬りつけられた瘢痕はんこん。生まれて間もないフェイリットを、故郷くにから連れ逃げる際に負ったものだ。かつて剣豪として名を馳せ、王の片腕とまで称されていたのに。その〝王弟サミュエル〟の地位を、彼はいとも容易に棄てたのだった。


「まだ怖いのか」

 焼けた色の空に、ちらと目をやってサミュンは言った。その声に咎める響きはない。獅子に似た彼の金髪が、ゆったりと風になびいている。

 フェイリットはサミュンから視線を避けるようにうつむき、ため息を漏らした。

「子どもみたいに、夕焼けをみて泣き叫んだりしないわ。ただ、ちょっと気味が悪いなって思うだけで……」

 本当のことなのに、口から出たのはどこか言い訳じみた言葉だった。だからサミュンがわずかに微笑んだのも、フェイリットの頭に手をかぶせてくれたのも、素直によろこぶことはできない。

「怖がることはなにもない。じきに、おまえはあそこへ還るのだからな」


 燃えつづけて見えた夕陽の色は、やわらかな空の青に溶け込んで、ゆっくりと深い紫へと変わっていく。ひと時の静けさをやぶって、夜の鳥や虫たちが鳴きはじめていた。


「美しい場所だ」


 サミュンの瞳は遠くを見つめていた。ようやく夜のとばりを下ろした空でも、極彩に染まる雲でもない。その遥か先にある国――メルトロー王国なのだ。


 かつて彼がその身を仕え、欲しいままに名をかがやかせた過去の国。メルトロー王国は、山の北側に位置する、緑に囲まれた美しい国だと聞く。しかしいくら素晴らしく、豊かな国だと説かれても、気持ちが進まないのは仕方のないこと。


「サミュン……わたし、あんな所に還るのはいや。たとえそれが、どんなに誇らしいものだと説かれても、いやなの」

 あえぐように言いきったフェイリットを見て、サミュンは傷のあるほうの瞼を、わずかに引きつらせた。



「……おまえはなのだぞ」


 

 普通の人間ではない。それは忘れようとしても、忘れられない事実だった。見かけだけなら、ほんの十五の女の子でしかないのに。

 突きつけられた言葉に、フェイリットは顔を伏せるしかなかった。


「そして、おまえの主人あるじは定められている。あそこへ還り生き続けるか、ここへ留まり死にゆくか。二つの選択しかないのだぞ」


 王をたすけ、千年を生きる竜。

 竜などというものは、フェイリット本人にとってさえ、御伽噺のなかだけにるものだった。まして自分がそれ、、だなんて。契約を結ばない竜は短命で、二十年も生きられないと知っても、実感がわかないのは当然のように思えた。

「わたしは、ここに居られるだけで幸せなのに」

 大好きなサミュンと、ずっと一緒に居たいだけ。けれどもフェイリットを連れ出した張本人サミュンは、フェイリットがもとの道に戻ることだけを考えている。十五年間もずっと。そして明日からは、十六年めになるのだ。

「馬鹿を言うな」

「でも……」


 サミュンは呆れ果てたと言わんばかりにため息を吐き、背を向けた。その大きな背中にも、深くやいばで抉られた、大蛇のような傷跡がある。

 なにもかも、フェイリットを守るため。その重みに嫌気がさすことがあっても、感謝を忘れたことなどない。

「ここで育ったんだから。メルトローが故郷だと言われても、今はここのほうが大切に思うの、わかるでしょ」

 サミュンをまっすぐ見上げると、フェイリットは訴えた。

「お願い、サミュン」


「だめだ。おまえがここで生きてこられたのは、あの方の庇護ひごのおかげだ。そのご恩を忘れてはならない。俺もおまえも、あのお方の計らいがなければ、十五年前に死んでいた。おまえが国にもどるのは、定められた約束で、俺の責務だ」

 サミュンの堅い口調は、その思考までもかたく縛りあげている。

「〝あの方〟だなんてやめてよ! 私欲と権力ばかりを肥やそうとする老いぼれじゃない!」

「フェイリット!」


 かっとなって声を荒げたのは、フェイリットばかりではなかった。サミュンの怒声に身をすくませ、フェイリットは震えた。

「あの方は、おまえの父上だぞ」

 その震える華奢な肩に両手を置き、サミュンが息を吐く。

「滅多なことを言うものではない。たとえ親子であろうとも、侮辱は死刑。わかっているだろう」

「……わかっているわ」

「けっして、もうそのようなことを口走るな、サディアナ、、、、、

「……はい」

 本名を呼ばれたことにどきりとしながら、フェイリットは肩を落とした。


 サミュンの目には、フェイリットの〝想い〟が子どものわがままにしか映らないのだろう。気づいてしまっては、落胆せずにいられない。荒げた息がしずまる頃には、もう後悔なのか諦めなのか、区別のつかない悲しみだけが心に残った。

 フェイリットの様子を見て、サミュンがふと笑う。仕方ない、と呆れるような笑みでも、彼のいつくしみは確かなものだった。そうして身を屈めると、フェイリットを覗き込むまま、そっと語りだす。


「――昔、空には沈むことのない太陽があった」

 フェイリットは驚いて、サミュンを見上げた。このあたりに古くから伝わる、子どものための説話だ。


「太陽は片時も休まず、まばゆく気高い光を地上へと降らせていた。神は、そんな太陽が好きだった。片時も側から離さず、明るく美しい彼女を愛していた。


 だが、ほどなくして月が生まれる。触れることもためらうほどの、淡く儚い輝きを放つ娘だ。

 神はひと目で月を愛してしまう。


 太陽は嘆き悲しんだ。だがいくら太陽が嘆き、叫んでも、神の瞳はすでに彼女から離れていた。

 嫉妬した太陽は、『ならば月を燃やしてしまえ』と自らを炎に包ませる。もくろみは失敗に終わり、月は太陽から逃げ去った。


 神は平等な愛を与えてやれなかったことに後悔し、誓った。

 太陽と月とを交互に愛でると。


 しかし元々ひとりだけ愛を得ていた太陽にとっては納得がいかない。でも正直に嫉妬を打ち明けてしまったら、そのとき本当に神に嫌われてしまうかもしれない。彼女はくやしさのあまり、月が昇るたびに涙を流した。

 太陽の流した涙は炎へと変わり、紅く地上に降り注いだ」


「……懐かしい、サミュン」

 幼いころに毎夜せがんで、聴かせてもらった物語。いつしか、そんなことも忘れてしまっていた。明日になれば十六歳。けれども、大人になりきれたようには感じない。フェイリットはじっと空を見て、サミュンの話した物語に浸っていた。

 空にはもう太陽はなく、白く輝く月が浮かびあがっている。


「お前は月になる。やわらかな愛を落とし、暗闇を照らす美しい月に」

 物語を聴かせる優しい声のまま、サミュンは続ける。

「月は太陽になることはできない。太陽もまたそうだ。だが、お前は違う。望めば太陽にも、また月にもなれるだろう。激しさを愛し、やさしさを生め。強さを誇りに持ち、弱さを慈しむのだ」

 サミュンの金髪に、月の光が照っていた。淡くかがやく美しさは、まさに暗闇に浮かぶ月そのもの。

 愛する人の横顔を眺めて、フェイリットは幸せを噛みしめていた。それが次の瞬間、いともあっさり崩れ去ろうとは、思いもよらないことだった。


「さあ、準備をするんだ」

「え……?」


 フェイリットは青ざめて、彼の顔を仰ぎ見る。

 サミュンの顔には苦しみも、悲しみさえ浮かんではいなかった。

「迎えの者が到着している」

「そんな、突然、どうして」

 どうして黙っていたの? 半ば悲鳴にも似た声で、フェイリットは叫んだ。


 生まれたときから待っていた――いや、待たされていた。

 メルトロー王国からの〝迎え〟が来るのを待って、日々を生きてきたとも言える。まだずっと先だと思っていたのに。まさか、こんなにも唐突だなんて……。


「お前はメルトローで千年もの長きにわたり、名を刻むはずだ。かの伝説の竜、エレシンスをも凌ぐほどのな。剣豪だと謳われはしたが、俺にもできなかった大役だ」

「そんなの、うれしくも何ともない!」


 サミュンの懐に飛び込んで、フェイリットはわめき散らした。がっちりと太い腰に、腕を回してしがみつく。

 離れたくない、好きだ――そう告げても、きっと彼は何も返してくれないだろう。だから黙って、その腕に力を込めるしかなかった。胸が痛い。手足が痺れて、目の奥がじわりと疼く。声を上げて泣いてしまいたかった。

 待っても待っても、彼の力強い大きな腕が、抱き返してくれることはない。

「そんなのいや……!」

 わかっているのに、辛かった。


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