7 sewr kotsogo!(風が変わった!)

 もしティーミャの呪文がなかったら、と考えるとぞっとする。

 今頃、全身がずぶ濡れになっていたはずだ。

 それ自体は、ある程度は覚悟していた。

 問題は、そろそろ春が近づいてきたとはいえまだ冬であり、体があまり濡れると低体温症になる危険があるということだ。

 それなりに防寒対策はしていたが、冷たい海水を浴び続けていればかなり危険なことになっていただろう。

 もっとも、いま船を操っている男は、体中に冷水をうけても平然としていた。

 短髪で髪が真っ白な、おそらくは五十は超えている老人だが、肌は潮焼けしており、逞しい筋肉の束が衣服の上からもうかがえる。

 すでに漁村を出てから、だいぶたっている。

 実のところ、ティガスというこの男の説明によると、このあたりは南からの寒流が流れているのだという。

 彼の説明によれば、アクラ海には北から暖流が流れ込むが、その潮流はまず西に向かい、左回りにぐるりと巡った後、今度は冷たい流れとなってちょうどエルナスのあたりでは北に向かうのだという。

 つまり、まっすぐ南に向かうともろに潮の流れに逆らうわけだ。

 そのため、エルナスに向かうにはある程度、まず沖合に出て、沿岸を流れる潮から脱し、そこである程度、流れの穏やかなところから南にむかうほうがかえって楽なのだそうだ。

 つまり、急がば回れ、ということである。

 とはいうものの、さすがにこれだけの嵐の海では、かなりティガスも苦労しているようだった。

 船全体が、木の葉のように激しい嵐の海で無茶苦茶に揺さぶられている。

 叩きつけるような雨と稲妻、そして暴風と逆巻く波とで船そのものが大きく上下、左右にと揺れている。

 こんな状態の海に出るなど、いまさらながら正気の沙汰ではない、とモルグズは思ったが、もう陸からだいぶ離れている。

 三人の仲間たちは、とにかく船から引き剥がされないようするだけで精一杯のようだった。

 この嵐のなか、海からエルナスに近づくものがいるとは、常識的にはまず考えられないだろう。

 そうした意味では、やはり陸路、門を強行突破するよりはよほどましと言いたいところだが、正直に言ってモルグズは後悔していた。

 果たして、イシュリナシア側の監視の目をかいくぐる以前に「生きてエルナスまでたどり着けるのだろうか」という疑問に襲われたのだ。


 hahaha,ers eren woz!(はは、とてつもない嵐だっ!)


 海の男というのは恐ろしい。

 ティガスは、笑っていた。


 zamiv foy!(死ぬかもしれないぞっ!)


 モルグズの罵声めいた言葉を聞いても、ティガスは楽しげだった。


 mende era ned! suynuma reys zamiv suynunxe! ers algam!(問題ない! 海の男が海で死ぬ! 自然なことだっ!)


 erv ned suynuma reys!(俺は海の男じゃねえっ!)


 そのとき、いきなり船体が一気に持ち上げられたかと思うと、今度は急激に落下した。

 あまり無駄話をするのも、危険なようだ。

 笑い事ではなく、舌を噛む危険がある。

 しかし、本当にウォーザの加護などあるのだろうか、と疑いたくなってくる。

 すでにモルグズは、何日も船で過ごしているような気分になっていた。

 暴風のために当然、帆はたたまれている。

 一体、ティガスがどのように操船しているのか、モルグズにはまるで見当がつかなかった。

 そもそもあたりが真っ暗で、ときおり稲光であたりの様子が照らされる他には、照明らしいものもまったくないのだ。

 体のあちこちが痛むのは、船体に幾度も体を派手にぶつけたからだ。

 すでに船の底には、かなりの水が溜まっていた。

 外から来た海水と、空から降る雨水が混じり合っているのだろう。

 ティガスが、桶をよこしてきた。


 sa:zalm peyi:r suyzo codtse! (これで水をすくって捨てろ!)


 こういうときはすくって捨てろ、とセルナーダ語では表現するのか、と感心している場合ではなかった。

 他の三人は、とてもではないがそんな作業が出来る余裕はなさそうだ。

 仕方ないので、モルグズ一人で、桶を使って船内の水を外にむかって排出しはじめた。

 とはいえ、船のなかの水かさはしだいにましているような気がする。

 焼け石に水、という言葉が脳裏をよぎった。

 それにしても、奇妙な感じだ。

 外部からの水を遮断するティーミャの術が効いているせいで、水が自然とよけていくのである。

 だからこの状況でありながら、まったく体が濡れていないのは、逆に不気味だった。

 ティガスにとってもかなり奇妙な状況のはずなのだが、今の彼はそんなことを気にした様子もない。

 というより、その余裕すらもないのだろう。

 時間がたつにつれて、だんだん嵐は強まってきたようにも思える。

 本当に大丈夫なのか、と不安になってきた。

 ウォーザがここで自分たちを嵐で沈めてもなんの特もしないことはわかっているのだが、どうもあの神は気分屋で、やることなすこと、大雑把という印象がある。

 「ついうっかり」、船を沈めてしまった、などということはありそうで恐ろしい。

 そのとき、レクゼリアが低い声で言った。


 pinxo:r thewenatho!(thewenaうぉ張れっ)


 pinxorというのが、布を広げる、張る、のような意味であることは知っていたが、thewena、一般的なセルナーダ語ではおそらくsewenaの意味がわからない。

 だが、この状況から考えて、船の「帆」ぐらいしか考えられなかった。

 ついに、彼女もあまりにも過酷な状況に、正気を失ったのだろうか。


 uwowthama yurva era!(ウォゥざの言葉だっ!)


 つまり、神託ということになる。

 ふいに、いままでとティガスの顔つきが変わった。

 

 sewr kotsogo!(風が変わった!)


 信じられないほどの俊敏な動きで、ティガスが帆を開き始める。

 この船の帆は縦帆の三角帆だった。

 つまりは、現代日本でいうならヨットの帆が一番、似ている。

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