第二十五章 suyn(海)
1 suyn era.(海だ)
どうやらティーミャは、もうおかしなヴァルサを装った誘惑はやめたようだ。
あるいは極秘裏にリアメスと連絡をとり、断念したのかもしれないがわからない。
ただ、この数日で彼女の誠実さというか、真面目さというのは理解できた。
これは演技ではなく、むしろリアメスが自分に彼女への親近感を抱かせるため、というのがなんとなく透けてみえるのも恐ろしい。
しかしリアメスの想いを考えるのも、また罠だといまは理解していた。
彼女はいまは亡きグルードの妄執のために生きているようなものだ。
そしてその事実すらも、ある種の憐憫として他者を支配する道具にしている。
リアメスに接するほど、彼女のグルードに対するひたむきな想いを感じてしまう。
厄介なのは、それがすべて事実である、ということだ。
彼女は自らのそうした感情を理解し、それを己の目的のために利用している。
自分の感情も、他人の感情も、すべて道具なのだ。
こんな恐ろしい人間は、地球でも、この世界でも、他に見たことがなかった。
結局、あれから街道を外れて移動するしかなかった。
ティーミャによれば、イシュリナシアの魔術師は、こちらの居所を掴みあぐねているという。
また電子戦めいた話になるが、どうもイシュリナシアの魔術師たちは、いろいろと混乱しているのではないか、という話だった。
isxurinsiama yuridesi ers ned narha,gow dasvos li foy.(イシュリナシアの魔術師たちは愚かではない。だが、恐慌をきたしているかもしれない)
王都エルナスを襲った疫病により、イシュリナシア王国の機能がさまざまな意味で低下している可能性はある。
むろん、エグゾーンはそれを狙ってスファーナや他の病の女神の僧侶や信者を動かしているのだろう。
当然、彼女はいまだにゼムナリアとも手を組んでいるはずだ。
だが、もはやどの神の道具であろうが、そんなことは関係ない。
しかし、あのときナルハインが言った言葉の意味は、なんなのだろう。
やはり、イシュリナスには秘密があるとしか考えられなかった。
そしてその秘密を知ってしまえば、なにか自分は衝撃をうけるのだろう。
怖くないといえば嘘になる。
それでも、イシュリナス寺院だけはなんとかしなければならない。
たとえ神を滅ぼすことは不可能でも、寺院に大打撃を与えることは、出来るはずだ。
すでに、エルナスは文字通り、目と鼻の先である。
不安なのは、ティーミャの体調だった。
いままでは人と接触することを避けてきたが、エルナスに入るとなれば、「馬鹿の罰」というふざけた名前の病に注意しなければならなくなる。
彼女が戦力でなくなれば、もう幻術にも頼れない。
さらに不気味なのは、イシュリナシア側の動きだった。
おそらく徹底的にイシュリナス騎士団や白銀騎士団、そして王国軍の兵士たちがこちらを探し回っていると思っていたのに、彼らとほとんど遭遇していないのだ。
もちろん街道を避け、農村の端などを歩いているせいもあるが、それでもさすがにそろそろ、こちらの存在が露見してもいいのではないかと思う。
そう考えると、ある可能性が浮かんでくる。
つまり、むこうは「エルナスに罠を仕掛けている」のかもしれない。
騎士や兵士たちとの戦闘になれば、モルグズを誤って死なせてしまうこともありうる。
それをネスファーディスは危惧している、ということは充分に考えられた。
やはりこちらの持つ知識にこだわっているのかもしれない。
ネスファーディスの考えが、読みきれない。
ふいに、エィヘゥグが声をあげた。
mavi:r! ers suy!(見ろ! 水だ!)
水がそんなに珍しいのかと奇妙に思ったが、やがてエィヘゥグの驚きの意味を理解した。
森の木々のむこうに、何軒もの木造家屋が立ち並んでいる。
さらにその先に、青いものが見えた。
suyn era.(海だ)
思わず、独り言が漏れた。
考えてみれば、このセルナーダの地にきてから、海を見るのは初めてである。
グラワール湖というかなり大きな湖は見ているが、やはり海とは違う。
そういえば、磯の匂いが漂ってきた。
cu:nu era mxuln.(妙な匂いだ)
レクゼリアが顔をしかめた。
だが、それもある意味では当然である。
もともといわゆる磯の香りというのは、プランクトンや海洋生物などの死骸が放つ腐敗臭なのだから。
さすがにプランクトンの存在はおそらくセルナーダの人間には知られていないと思うが、これは海の生き物の死体の匂いだと説明すると、一様にみなぎょっとしたような顔をした。
とはいえ、これは決して悪いことではないのだ。
プランクトンや魚介類が豊富だからこそ、この匂いがするのである。
さらにいえばここがアルヴェイス川の河口に近いことも、たぶん関係しているのだろう。
沖積平野を流れる大河の河口は、大量の栄養分を含んでいる。
それだけ、海の幸も豊かなものとなるのだ。
おそらく、いま自分たちが目にしているのは、漁村だろう。
よく見ると、漁に使うらしい小さな船が幾つも停泊している。
船。
エルナスの都は、当然ながら堅牢な城壁に囲まれているはずだ。
そして門の管理は、いつも以上に厳重なものとなっているだろう。
ただ、エルナスは港湾都市である。
つまり「陸路だけではなく、海路も使える」ということだ。
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