8 charfe misuy(赤い涙)

 敗北感を抱えて、ネスの街を彷徨った。

 いたるところに目から涙のように血を流し、鼻や耳や口からも汚れた血を出し続ける男女が転がっている。

 これが、自分にしたことの結果だ。

 復讐のつもりだった。

 ある意味では、復讐は成功した、のだろう。

 たぶんヴァルサを石で投げ殺した人間たちの多くが、病で苦しんでいるはずだ。

 死者も間違いなく、かなり出ている。

 だが、それがどうした?

 モルグズは、気づいてしまった。

 いままで自分を生かしていたのが、復讐心であることに。

 しかし、復讐はすでに成し遂げた。

 いや、まだネスファーディスに対する復讐は残っているはずだ。

 とはいえ、もう心が折れていた。

 ネスファーディスに罪がない、とは言わない。

 それでも、力が残っていないのだ。

 あまりに凄惨なネスの街の光景や、必死になって人々を救おうとしている僧侶たち、そしてネスファーディスの姿を見て、ひどく自分が惨めな気分になった。

 率直に言って、ネスファーディスは見た目も地味だし、大したカリスマのようなものがあるようにも思えない。

 それでも、彼はこの魔術や神々の力で実在する世界で、合理的思考を行える数少ない人間の一人だ。

 これからも、ネスだけではなく、イシュリナシア王国全体のことを考え、的確な判断を下し続けるだろう。

 まず、どうやってこの病を王国の他地域に広げないようにするか。

 答えはあまりにも単純だ。

 ネス伯領や、近隣の感染者が出た地域を、外界とは徹底的に隔離する。

 病原体の存在は知らずとも、この世界の住人は「病の悪霊が増殖する」という形で、病気がどんどん感染していくことを理解している。

 それを止めるには、感染者を特定の地域に閉じ込めておくことが必要となる。

 おそらく、なんらかの軍事組織が動員されるだろう。

 白銀騎士団やイシュリナス騎士団といった騎兵ではなく、歩兵たちが主体となってネスの周囲を完全に包囲する。

 外に出ようとしたものは容赦なく殺される。

 しかしそれは、仕方のないことだ。

 人権意識などかけらもないこの地にあっては、むしろ当然の処置である。

 それでも、騒ぎが収まるまでは半月はかかるだろう。

 特に狙ったわけではないのだが、今は農繁期だった。

 ちょうど春蒔きの麦や果実などの収穫期を迎えているのだ。

 しかし、ネス近郊では収穫どころの騒ぎではないだろう。

 餓死者も出る可能性があると考えたが、そこでモルグズはかぶりを振った。

 これだけ農業生産性が高いのだから、緊急時に対する食料の備蓄などはある程度、行われている可能性か高い。

 ましてやグルディア王国と敵対しているのだから、いざとなれば攻城戦にも備え、そうしたものは大量にあるとみるべきだ。

 一方、グルディアでも今頃、リアメスのあたりは大騒ぎになっているに違いない。

 ネスはまだ、ましなほうだ。

 むしろ被害はリアメスからのほうが大きいだろう。

 もともと都市の規模が違う上、リアメスはさらにグルディア各地の都と、湖と船を通じてつながっているのだ。

 それだけではなく東のソルヴァール川を通じて他地域にまで疫病が達することも考えられる。

 イシュリナシア、グルディア、両国ともかなり国力に打撃をうけるはずだ。

 イシュリナシアだけでも、概算で数万程度の死者はでるではないだろうか。

 もし三万だったとすると、実に国民の一パーセントが失われる、ということになる。

 これは決して、小さな数字ではない。

 話を現代日本に例えれば、わかることだ。

 一億二千万人の一パーセントとは、つまりは百二十万人の死者、ということになる。

 現代日本でそれだけの死者が出たら、大騒ぎなどというものではない。

 だが、これで漁夫の利を得た国もある。

 イオマンテだ。

 魔術師たちの支配する王国は、なにもせずに競合する二つの王国が弱まるのを見ていたことになる。

 もっとも、イオマンテはかなり閉鎖的な国であり、積極的な外征などはせず、基本的に防衛戦争しか行わないようだ。

 それでも、イシュリナシアの人間も、グルディアの人間も考えるはずだ。

 ひょっとしたら、この大惨事の裏には、イオマンテが関わっているのではないか、と。

 すっと背筋が凍るような気がしてきた。

 死の女神の描いた絵図の意味を、今更ながら悟ったのだ。

 彼女の真の目的は、イシュリナシア、グルディア両国の民の魔術師への不信感を煽ることにあるのではないか、と。

 この二国はいわば宿敵どうしだし、共同してイオマンテに対処する、ということはまずありえない。

 だが、それぞれ個別にイオマンテに対して疑念を抱き、なんらかの行動に移す、ということは十分に考えられる。

 これはただの生物兵器テロなどではない。

 あるいはイシュリナシア、グルディア、イオマンテの三国を巻き込んだ、大規模な戦乱への布石なのではないか。

 自分がした行為の意味を、改めて考えてみると、そうした恐ろしい結論にたどり着く。

 いままでは三国はそれぞれいわば三すくみのような形で、あまり派手に争うことはできなかった。

 イシュリナシアとグルディアはしじゅう、戦争をしているが、たとえば今はグルディア商人がイシュリナシアに入ることも許されていたはずだ。

 しかし、これからはおそらく事態は違ってくる。

 イシュリナシア、グルディアともに国境閉鎖を行い、両国の緊張は高まるはずだ。

 それはイオマンテも同じことである。

 死の女神の、ゼムナリアの笑い声が聞こえるような気がした。

 やられた。

 結局、自分はただの道具としてあの忌むべき女神に利用されただけなのだ。

 瞼の裏でヴァルサが哀しげな顔をしている。

 その目から、赤い涙が流れ落ちた気がした。

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