10 had se:f era sa:mxama zorosima zersef.(あの建物は実りの神々の寺院よ)
ゼムナリアとかいう死の女神は、ひょっとするともっと多く世界を知っているのかもしれない。
しかし、まったくそこにすむ生物の価値観が違うとしたら、たぶんつまらないと思ったのではないだろうか。
ここと似ているようで、異なる世界が、地球だったのかもしれないとすれば、いろいろと納得がいく。
今更、考えても仕方ないことではあるが、どうもあの女神の性格からしてありそうなことのようにも思えた。
ただ「死を司る女神」がそうした人格神ということがそもそもおかしいのかもしれない。
この世界の人々は、人格を持つ神や女神の思考に振り回されている可能性がある。
ふと、さきほど見た妙な建築様式の建物のことを思い出した。
had wob se:f ega: cu? erig fo+sots vitogo dew vu+cari cedc. (あの建物はなんだったんだ? 丘が二つくっついたみたいな屋根だった)
ヴァルサが答えた。
had se:f era sa:mxama zorosima zersef.(あの建物は実りの神々の寺院よ)
実りの神々というのは、いままで聞いたことがない。
sa:mxama zerosi yenis fa:nxadma zerosizo.(実りの神々は豊穣の神々を意味する)
nadin zerosi ers sa:mxafe zerosi cu?(どんな神々が実りの神々なんだ?
asxaltia,solaris,welsionmilis,ta,,,(アシャルティア、ソラリス、ウェルシオンミリスと……)
solarisという単語を聞いて凍りついた。
それはラテン語の「太陽」という名詞の形容詞形なのである。
強いて日本語にすれば、太陽の、太陽的な、とでも訳せばいいだろうか。
さすがにここまでくると、偶然では片付けられない、かもしれない。
ある仮説が自然と脳裏に浮かんだ。
そもそも自分が最初にこの異世界にやってきた人間である、という保証はないのだ。
ひょっとすると、昔からこの世界には地球人が訪れていることも考えられる。
それがラテン語母語話者だったとしたら。
「彼」の話していた言葉がこちらの言語に影響を与えた可能性は否定できない。
ラテン語が日常的に話されていたのは、モルグズが地球にいた頃から千五百年以上も前の話だ。
現代でもカトリック教会では典礼語としてラテン語は用いられているが、それは古代のいわゆる古典ラテン語とは微妙に違っている。
solaris wob ers zeros cu?(ソラリスはなんの神だ?)
ers solsuma zeros.(太陽の神)
鳥肌がたった。
ラテン語話者がかつてこの世界を訪れていたという仮説は、かなり有力なものに思えてくる。
しかし、太陽や太陽神の名という重要な名詞がラテン語に近いというのは、そのラテン語話者は歴史的にも重要な役割を果たしたのではないだろうか。
とはいえ、他に情報がない。
ネルサティア語の書物が読めるようになればもっと確かめられるはずだとも思ったが、そこで重要な点に気づいてしまった。
実は、モルグズはラテン語の単語を数えるほどしか知らないのだ。
動詞の活用の仕方もきちんと覚えていない。
言語学の知識もほんのちょっと齧った、あるいはつまみ食いした程度で、まともに読み書きの出来る言語は英語くらいのものだ。
それも読むのはなんとかなるが、英語特有の言い回しなどを会話できるほどでもない。
モルグズの持つ言語学の知識は、中途半端、にわかもいいところなのだ。
地球の言語についても、文法的な特徴やユニークな点は知っているが、語彙そのものはさっぱりである。
たとえばハンガリー語には受動態、つまりなにかを「される」という表現がない、といったことは知っている。
だがハンガリー語の他の文法に詳しいわけでもない。
ナバホの語の独特の音韻や文法についての知識はあるが、当然、ナバホ語は話せない。
こんなことになるのなら、もっと勉強をしておくべきだった。
広いが、あくまでも浅い知識。
それがモルグズが地球から持ち込んだものだ。
農業、あるいは他の技術でもなにか一つでも専門的な知識を有していればこの世界にも有益なことができたかもしれないが自分には不可能だろう。
そしてそんなことをする気にもなれない。
wob nafato del cu?(なに考えているの?)
ヴァルサがこちらを見て訊ねてきた。
今のnafato delというのは、直訳すると「考え続けている」となる。
セルナーダ語には、幾つもの「相」と呼ばれるものが存在するのだ。
こういう上っ面の知識は知っているんだよな、と少し自虐的な気分になった。
相は地球でも多くの言語に存在する。
時制と似た、主に時間に関係する概念だが、厳密には別物だ。
セルナーダ語には、日本語や英語と同様に、時制に「未来形」は存在しない。
あるのは過去形と現在形、より正確には非過去の二種類だけだ。
時制による動詞の活用も、当然、二種類しかない。
それでは未来のことをどう表現するかといえば、たとえば英語ではwillのような副詞を使っている。
その後ろに動詞を置くことで、未来の出来事をあらわせるわけだ。
ちなみにwillには「意思」という意味もあるので、「将来的にする意思がある」ということを示すためにwillに動詞を後続させて未来を表すという表現になったのかもしれない。
日本語は、英語に比べると未来に関する表現は貧弱だ。
「太郎は明日、登山にいく」という文章では明日、以外には未来を意味する単語はない。
「太郎は登山にいくだろう」という言い方もあるが、「だろう」というのは推量を表しているので、「本人の意思がまだ定まっていない」という解釈も可能なのだ。
というより、もともとそちらが本来の用法で、未来にする可能性がある、という意味も含むようになったのかもしれない。
日本語はもともと、文法的に少し厳密とは言い難いところが幾つかある。
未来時制があれば、時間の表現ももう少ししっかりした言語になっただろうが。
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