5 turma ika(三つの月)

 夜風が気持ち良い。

 さすがにこの時間になると、まず丘の下の人々に見咎められることもないだろう。

 そう思い、再び外に出たモルグズは、呆然と空を見上げていた。


 hadi wob ers cu?(あれらはなんだ?)


 我知らず、口から声が漏れる。

 ヴァルサが、説明を始めた。

 まず夜空の中央に、さながら女王然として輝くほぼ真円の銀色の月を指差す。


 had ers layka.(あれはlayka)


 日本語だと「ライカ」のように聞こえる。


 続いて、昼間、見たときも気になっていた赤い、ちかちかと瞬く小さな天体を指して言った。


 had ers arika.(あれはarika)


 「アリカ」の名は昼も聞いている。

 最後に、銀の月の近くにある、地球の月よりもいささかこぶりな青い天体を見ながらヴァルサは言った。


 had ers nesxerika.(あれはnesxerika)


 「ネシェリカ」というのが青い月の名のようだった。

 この世界には、月が三つあるらしい。

 昼間に「三つのikaの一つ」と言っていたのはそういう意味だったのだ。

 ikaが「月」であることは明白だ。

 ただ、かつて日本人だったモルグズとしては、正直、月を「イカ」と呼ぶのはなんとなく奇妙な感じがした。

 イカというと、海にいるほうの「烏賊」をどうしても連想してしまう。

 もっともこの世界にも烏賊がいるかどうかは知らないが。

 それにしても、月が三つとは。

 もしこの宇宙の物理法則がかつて知っていた宇宙と同じであれば、一つの惑星に衛星が複数、存在してもおかしくはない。

 ただ、月が三つもあれば、海辺の住人はいろいろと大変だろう。

 もし三つの月が同じ方向に存在すると、潮汐力が大きくなるからだ。

 地球の大潮などは、月と太陽の重力の相互作用の結果である。

 だが、月が三つとなると、他にもさまざまなことを考えなければならない。

 たとえば摂動だ。

 地球の月も、地球と月、太陽それぞれの重力が複雑に影響を与え合うため、ごくわずかではあるが軌道が不安定になっている。

 この惑星のように三つも月があるのでは、それぞれの月の重力が相互作用し、さらに軌道がおかしくなることも考えられた。

 こうした複数の天体どうしで働く重力の計算を多体問題と呼ぶが、これはいわゆるカオス理論の先駆けともなったほど極めて複雑なものである。

 特にライカのような大きな月の満ち欠けは、地球よりも重大な影響を海面に与えるだろう。

 ライカのまわりはまるで昼間のように、夜空が青くなっているほど明るかった。

 さらに謎なのは、アリカだ。

 この赤い月がちらつく理由が不明のままだ。

 ふとある天体のことを思い出した。

 イオという木星の衛星である。

 この衛星は太陽系では地球を除き、唯一、火山活動があることで知られている。

 木星の潮汐力があまりにも巨大なため星そのものが歪み内部に熱を発生させているのだ。

 ひょっとするとアリカの月面でも、似たような現象が起きているのかもしれない。

 モルグズがアリカを凝視していることに気づいたらしく、ヴァルサが言った。


 arika era arkema zerosa.(アリカはarkeの女神)。


 この天体は、女神として扱われているようだがarkeの意味はわからない。

 ヴァルサが目を細めた。


 ta layka era la:kama zerosa.(そしてライカは愛の女神)


 la:kaが愛を意味する名詞だとは知っていたので、ぎょっとした。


 layka ers marnas lakaresima ika tus.(ライカは恋人たちの月 marnas tusである)


 またtusが出てきたが、ふいにヴァルサがこちらに体を寄せてきた。

 わずかに紫がかった月光のもと、こちらを見上げるようにして微笑む少女の顔が、妙に大人びて見える。

 ライカの月光には、ひょっとしたら愛を惹起するような魔力でも含まれているとでもいうのだろうか。

 冗談半分でそんなことを考えたが、現実に魔術が存在する世界では、地球の常識がどこまで通用するかわからない。


 sxiv fog.(俺は寝たい)


 そう言って、モルグズは逃げるようにして塔のなかへと戻っていった。


 kap sxiva fog.(私も寝たい)


 背後からあくびをするような声にやや遅れてヴァルサの言葉が聞こえてくる。

 どこか不満げな気がするは、気のせいだと思いたい。


 mig sxiva fog...(とても寝たい……)


 おそらくヴァルサも、相当に疲労が溜まっているのだろう。

 そのとき、地下へと続く扉をモルグズは目にした。

 あの階段を下った部屋の奥には、今もアーガロスの死体が転がっているはずだ。

 なぜか罪悪感がないのが、我ながら不思議だった。

 確かにろくでもない魔術師ではあったが、自分は人を殺したのだ。

 いま一つ、実感がわかない。

 ところで自分はどこで眠ればいいのだろう。

 まさか地下室に戻って寝ろ、とはさすがにヴァルサも言わないだろう。

 どこで、と訊ねたかったがその表現がわからない。

 仕方なくモルグズは言った。


 sxiv col cu?(俺はここ、寝るか?)


 するとヴァルサが間違いを訂正した。


 ers ned col.colnxe era se+gxon.(ここ、ではない。ここで、が正しい)


 nxe、日本語の「ニェ」のような言葉はいままで聞いたことがなかったはずだ。


 colnxe.jolnxe.hadnxe.nalnxe.(ここで。そこで。あそこで。nalで)


 少女は歌うように言った。

 nal、もまた初めて耳にする言葉だ。

 ここ、そこ、あそこ、とくればあとは「どこ」だろうか。

 近称、中称、遠称とくれば残るは「不定称」が自然な気がする。

 いかにも日本語的な表現のような気もするが、試してみる価値はあるだろう。


 sxiv nalnxe cu?(俺はどこで寝るか?)

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