黄緑の愛
PURIN
黄緑の愛
朝起きていつも通りにリビングに行ったら、嫁が野菜になっていた。
な… 何を言っているのかわからねーと思うが… なんてベタなことを言ってる場合じゃない。
「おはよう。今日寒くない?」
嫁の声でそう言ってこちらを振り向いたその人の、首から下は私のよく知る人間のものだった。でも首から上は、野菜になっていた。
目も鼻も口も耳も髪もない、黄緑色で、葉っぱが何枚も重なった、球体状のあの野菜… それが、頭の代わりに、首の上にのっていた。
恥ずかしい話、洗濯や掃除ならやるけど、てんで苦手な料理関係のことは嫁に任せっぱなしだから野菜の区別もロクにつかないんだよ。
あれキャベツ? それともレタス?
…だから、そんなこと言ってる場合じゃなくて!
「ちょっ… どうしたの、それ…?」
「おはよう」と返すのも忘れて、恐る恐る問いかけてみた。
「? それって、どれ?」
首をかしげる嫁。キャベツだかレタスだかわからん野菜が嫁の首の動きに合わせて、こてんと斜めになった。
「頭だよ頭! どうしたの⁉︎ 変なもんでも食べた⁉︎」
「え、何か変な風になってる?」
「思いっきりなってるよ! 鏡見て!」
近くの姿見を指差し、見るように促した。
そうしてから、(しまった、自覚ないっぽいからいきなり見たらビビっちゃうかも!)と焦ったが、まったくの杞憂だった。
「別にどこもおかしくないじゃん。何、ドッキリのつもり?」
鏡を覗き込んだ嫁が、そう笑ったのだから。
パニックのあまりに笑ってしまった感じでもない。本当に面白くて笑ったようだった。もし表情があったら、微笑みを浮かべているところだろう。
いや待て待て、そっちこそドッキリでしょ⁉︎ 今ちゃんと自分の顔見たろ⁉︎ なんで普通に受け入れてんの⁉︎ 野菜になってたでしょ⁉︎ そもそも、口もないのにどうやって喋ってんの君⁉︎
つっこみたいことはたくさんあったのに、考えがまとまらなくて、言葉が出なかった。
混乱しながらも、とりあえず嫁が用意してくれた朝食を向かい合って一緒に食べた。
食事はどうするのかと観察していたら、嫁がお箸で掴んだおかずは、人の顔だった頃には口があったあたりまで運ばれると突如として姿を消し、同時に咀嚼する音が聞こえてきた。
「んー、美味しー!」
嬉しそうな声を上げる嫁。どうやら、食物を口内に瞬間移動させることで食事ができるらしい。
余計にわけがわからなくなったが、いつの間にか嫁も私も仕事に行かなければならない時間になっていた。
嫁には今日は休んだ方がいいんじゃないかと言ったのだが、本人は「は? なんで?」と普通に行く気満々で準備をし始めていたので諦めた。
私達は別々の会社に勤めているのだが、いつも途中までは一緒に行く。
その道中で嫁が周囲の人達に驚かれたり、変な目で見られたりということは私が感じた限りでは一切なかった。なぜか。
いつもの道をいつもと同じように通り、いつもと同じ言葉で嫁と別れて、自分の働く会社に辿り着いた。
仕事をしている間も、嫁に起こったことが頭から離れなかった。
そうこうしているうちに昼休みになった。
思いついたことがあったので、嫁にメッセージを送った。
「いきなりごめん。今自撮りして送ってくれる?」
もしかしたら、今朝の自分は死ぬほど寝ぼけて幻覚を見ていただけなんじゃないか、周りの人達が誰も気にしてなかったのは、嫁が普通の人間に見えていたからなんじゃないかと思い始めたのだ。
流石にもう寝ぼけてはいないはずだから、嫁の自撮り写真はちゃんと今までと変わらない人間の顔に見えるはず。早く安心したかった。
返事はすぐに来た。
心臓がバクバクし始めた。
「さては私に会いたくなっちゃったんだな? しょーがないなーありがたく受け取れ!」
画面をスクロールし、その言葉とともに送られてきた写真に、恐る恐る目をやった。
…うん、野菜だ。まごうことなく野菜だ。今朝見たのと同じ。
どうしよう、私これ、目か頭が死ぬほど調子悪いんじゃないかな。
早退して病院行った方がいいかな…
静かにパニクりながら画面とにらめっこをしていたら、友人が「どうしたの?」とスマホを覗き込んできた。
「あっ、奥さんの写真? 相変わらず笑顔がかわいいねー。
綺麗な黄緑色だし」
「…ふえ?」
自分でも間抜けだとしか思えない声が出た。
「い、今何て言った?」
「? 奥さんの笑顔が素敵で、綺麗な黄緑色だって言っただけだけど? 昔っから全然変わらない人だよねー」
どういうこと⁉︎ 昔からって⁉︎
慌ててスマホの嫁の写真専用フォルダを開いた。
黄緑。
一面の黄緑だった。
さっきの自撮りだけじゃない。今まで撮った嫁の写真。
顔が全部野菜になってた。
初デートの時の嫁、初めて家にお邪魔した時の嫁、誕生日を祝ってくれた嫁。
そのすべてが。まるで、生まれつきそうであったかのように。
私の記憶には、人間だった頃の嫁の笑顔も泣き顔も怒った顔もちゃんとあるのに。
どうやら、私以外のすべては、嫁をもともと野菜の頭を持った人として認識しているらしい。そして、それを変なことでもなんでもないと思っているらしい。嫁本人も含めて。
唐突に誰も味方のいない世界に放り込まれてしまったような気がした。
「おかえり~」
どうしたらいいのかますますわからなくなって、仕事がまともに手に付かないまま終業時間を迎えた。
帰宅するのが怖かったけど、他に行くところもないから帰るしかなかった。
帰ったら何事もなかったかのように今まで通りの人間の頭部を持った嫁が出迎えてくれるのではないかと淡い希望を抱いていたが、現れた黄緑色に一瞬で打ち砕かれた。
「…ただいま」
どうしたものかと戸惑う私に、嫁ははしゃいだように報告してきた。
「今日ね、あんたの大好物だよ!」
リビングのテーブルを見やる。美味しそうなクリームシチューが湯気を立てていた。大きめに切られたジャガイモやニンジンが、白い泉から顔をのぞかせている。
いつも嫁が作ってくれるのと同じクリームシチューだ。
2人でいただきますをして、スプーンでひとすくい。そっと口に入れた。
身体中に暖かさが染み渡った。いつも嫁が作ってくれるのとまったく同じ味だ。
「聞いてよ、今日ね…」
向かいの席から今日の出来事を話す声が聞こえてきて、顔を上げた。
視界に入ったのは野菜。でも、この楽しそうな話し方もちょっと低めの声も、間違いなく嫁のものだ。
ふと視線を下におろしてみた。
左手の薬指に、きらりと光る結婚指輪。私とおそろいの結婚指輪。傷一つなく、汚れの一つもない。
「一番の宝物だよ」
嫁がそう言ってくれたことを、思い出した。
そうか、今でも大切にしてくれているのか。あの言葉通りに。
それから、いつも通りに一緒に食事を終え、いつも通りに一緒に片づけをし、いつも通りに一緒に談笑し、いつも通りに一緒に入浴し、いつも通りに嫁に「おやすみ」と伝えた。
嫁も、すべてをいつも通りにこなしていた。野菜になっていること以外は、すべてが、いつも通りの嫁だった。
自室のベッドの中で耳を澄ますと、隣の部屋から嫁の寝息が聞こえた。よく眠っているんだ。いつも通りに。
明日になれば嫁は人の顔に戻っているだろうか。それとも、まだ野菜のままなのだろうか。
でも、どのみち何も気にする必要はない。
だって、どんなになっても、嫁は私の大好きな嫁のままなのだから。
明日も、朝起きたらいつも通りにリビングに行こう。そして、今日は言えなかった「おはよう」を、ちゃんと言おう。
野菜になったって、嫁は何も変わりなどしないのだから。
黄緑の愛 PURIN @PURIN1125
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