第8話

 「ふぅぅぅぅ、ふぅぅぅぅ」という息の長い呼吸を聞く。その呼吸音を聞くと、先ほどまで私を絡めていた不安がひとつひとつ切り離されていった。不安が一つ残らず消えてしまうことの不安さえ消えてしまいそうだった。大蛇の河は以前私にこう伝えた。「この大河の流れの先には恍惚に似た無の地帯が潜んでいる」。抜け穴に錨を降ろし私を結んでいた糸。無の地帯への入京を拒もうとしていた不安。不安はもうどこにも見つからないような気がした。拒む理由も初めからなかった。しかし私にはまだ先を知りたいと思わせる何かが存在した。その先は立ち戻ることが許されないと理解していても、そこから立ち戻り、その先を他に伝えたいという欲が残されていた。私はもう地がどこにあるのか分からないでいた。「ふぅぅぅぅ、ふぅぅぅぅ」その呼吸音が聞こえてくると、私の意識は遠のき夢見る心持ちになった。抜け穴の夢をみた。アシダカグモが顔を覗かせ、しおり糸を細長く私に垂らした。私はその糸を頼りに宙にぶら下がっていた。それは闇夜の空中ブランコで、この糸もいつかは切れると予感した。


 流れ星のように糸を引くおぼつかない光が現れると、しおり糸が発光しているのだと思った。その光は至る所で流れ始め、私は夜空に輝く流星群を眺めていた。光の糸は次第に絡まり始め、それは光る蜘蛛の巣のようになった。光っては消え、光っては消え、その網は広がり絡まり続け光のまゆになった。私はその核にいた。私は光る殻にいるさなぎだった。「ふぅぅぅぅぅぅぅぅ、」再び息の長い呼吸音が聞こえた。私は意識をまどろみから引き戻した。踵を返すように光る繭を後にした。実務的にその光から離れる為にまぶたを閉じた。いつの間にか引き際を私は習得していた。そう確信を得ると、私は見えない森を得ていた。肉体感覚はすでに溶け落ちていた。しかし身体に染みついた習慣は、残されたいくつかの夢や記憶を拾い上げては森の木々の枝葉に添えた。私は慎重にもう一歩だけ左に移動した。そう知覚すると南国へ向かう時期がもうそこまで来ていると皆が囁いた。夜空には数限りない瞬きが生まれていた。森はそれを数えながら夜明けが訪れるのを静かに待っていた。世界は密やかに新たな位相を組み立て始めていた。

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カフカスの虜 Wallace F. Coyote @wallacefcoyote

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