第7話

 私が一歩踏み出した場所は無明の闇だった。突然の暗転に目眩めまいを起こしたのかと私は動揺した。元に戻ろうとバランスを崩しながらも一歩後ずさると、私は尻餅して地面に手をついた。目眩めまいが収まるのを待った。視界には鶉斑うずらふのような暗い雲がゆっくりと漂っていた。そこはそれまでの運動場とは似つかわしくない場所だった。私はどこにいるのか理解出来なかった。そこは闇で雨が降っていた。見えない地面は柔らかく、手の感触から一面苔むしているように思われた。そう自分に言い聞かせるまで少し時間がかかった。視覚を急に断ち切られた知覚は他の感覚が立ち上がるまで通信障害を伝えるテレビの静止画面のように虚ろだった。突然のアドリブを要求された俳優のように触覚、聴覚、嗅覚は戸惑いながらも急拵きゅうごしらえで脳裏に信号を送った。苔という認識を否定すると、この闇では私は私でいられなくなるような気がした。心に浮かぶ言葉や映像をそのまま受け取った。視覚喪失で得られた知覚を積み重ねて出来た塔は、拙い設計と出来合いの資材で作られた塔のようでもあった。しかし「某」という私は是とあまり大差の無い塔をこれまで作り上げてきた。それらは蜃気楼のように空漠ではあったが、それらの塔はそれはそれでいて地味ながらも温もりと艶を放っていた。頬に噴霧のような霧雨を感じた。時々、大粒の水滴が頬や身体に落ちてきた。「樹雨きさめ」だと私は思った。「森」。闇に浮かび上がっては消える綿毛のような文字を追いかけた。栴檀せんだんの木の匂い。アシダカグモがずいぶん遠い存在に感じられた。足には水たまりがあった。そこへ両手を浸そうか躊躇した。水たまり、池、河、海、想いが定まらなかった。放浪していた私の意識は、再びゆっくりと五感に戻ろうとしていた。階段の踊り場で踵を返す動作が懐かしかった。慣れ親しんだ私自身の肉体を隅から隅まで思い出そうとした。しかし視覚無くしては細部を思い出すことは出来なかった。片方の手で別の手に触れた。掌をこすり合わせながら顔の近くに寄せた。皮膚の擦れる音を聞き、皮膚の臭いをかいだ。それらの感覚を水の中にいると微かに感じた生物に向けた。足下の水からは何の返事もなく、私の心に光は宿らなかった。私は栴檀の木を思い浮かべ合掌した。「祈り」という言葉が浮かび、「記憶を手繰り寄せる行為」という返事を聞いた。時を希釈させる水。水は税吏のように記憶を徴収した。私はずっと大蛇の河を泳いでいた。私は合掌していた手を足下の水に浸した。


 水たまりはほんの数センチの深さだったが、ゆるやかな流れを感じさせた。両手でその水を掬い匂いを嗅いだ。その水には栴檀せんだんの匂いが仄かにあった。私は濡れた靴を脱いだ。そのとき初めて私は上履きのままだと気付いた。足下の水は生ぬるく、足の裏にはきめ細かい砂が感じられ、しばらく静止していると水の流れが伝わった。そうやって体が少しずつ地に戻って来た。私は水辺を歩きたいと思った。腰の辺りの柔らかい地面に上履きを置き、手を地面に這わせ水辺と靴の距離を計った。水辺まで約50センチ。仄かな文字が再び浮き上がり消えた。左足を前に投げ出すと、踵かかとからつま先までぬるい水が足を覆った。もう片方の上履きを左手に、私はゆっくりと立ち上がった。暗闇で立ち上がることは容易ではなかった。視界がない分、平衡感覚がなかなか定まらず、立ち上がっては数度尻餅をついた。ようやく柔らかい地面の上で姿勢を制御できるようになると、私は少し腰を落とし左足を軸足にして右足を踏み出す姿勢を作った。私は足先に意識を集中させ慎重に一歩先の着地点を探った。一歩だけ離れた場所も苔と湿った砂の入り交じる地だった。右足がそこに足場を固めると、私はゆっくりと重心を移動させ一呼吸置いた。そして平衡感覚を失わないように左足を右足の隣に慎重に移動させた。霧雨が止んだ。気圧が急に萎えた。なぜその突然の変化を私は感知したのか少し戸惑った。闇は予想以上に複雑だった。一瞬この闇は私ではないかと知覚が意識を掠めた。足先に集中しもう半歩だけ先の地表を探した。そこに苔の感触はなく、乾いた砂があった。つま先から踵までをゆっくり注意深く地表に着地させると、砂は生き物のように濡れた足にまとわりついてきた。身体全体を包んでいた湿度が体温をさらいながら消散した。左足はそれまで苔を感じていたが、みるみるうちに足裏の苔の感触が消え、それと入れ替わるように乾いた砂の感触が沸き上がった。瞬く間に砂はくるぶし辺りにまで絡みつき苔は完全に消失した。まるでこの闇からすべての苔が一瞬にして消滅してしまったようだった。熱風が吹き、乾いた空気が喉の湿りを乱暴にさらった。栴檀せんだんの実の香りは既になく、私の肺がその熱風を取り込むと、皮膚の汗腺が一斉に開いた。慌てて熱風を吐き出すと、鼻腔から熱い液体が流れ出た。汗のにじんだ手で鼻をこすると、べったりと鼻血のついた手が絵となって見えた。そして広大な砂漠に一人佇むシルエットが立ち上がった。高鳴る動悸が歩を戻すことを要求した。直ぐさまその要求に従い、慎重に二歩後退した。そこは乾いた砂の地のままだった。私は身体全体に冷たいものを感じ、同時に置かれた状況を可笑しく思った。私は見えない巨人となった。一歩踏み出すとそこは河で、一歩踏み出すとそこは砂漠だった。更に歩を進めると森もあり火山もあり氷河もありえた。巨人は片足で環境の変化を楽しめるとても小さな星に一人住んでいた。しかし住人はその星を見ることが出来なかった。いつか目覚める夢の中にいるに違いないと思った。私はその場に座り込み、夢から覚めようと努力した。しかしいくら辺りを見回しても光は見つからなかった。私は足下の乾いた砂を掬った。砂の付いた手を顔の前まで近づけた。何も見えなかった。私は少しやけになり、その砂を口にした。その砂には錆さびのような鉄の味がした。私は方向感覚を失った。それだけのことだ。改めて方向を変えこのまま進んでも、水辺に置かれた上履きから離れる可能性は大きかった。三歩圏内にその上履きはあるはずだった。しかし水辺も上履きも消失したと胸では感じていた。思い描いていた地図はここでは用を成さなかった。私はその地図の感覚を掻き消した。喪失感に囚われないように砂の上にあぐらをかいた。私はまだ地と結ばれていると自分に言い聞かせ、何かしらの変化を待つ為に心を落ち着かせようと思った。しばらくして私は消え入りそうな声を聞いた。「あれは天の恵みだったのだよ」。その声は失われた場所から響いているようだった。「なぜ水辺に沿って歩かなかった」と左手にあるもう片方の乾いた上履きは伝えた。私はその上履きを、力を込めて暗闇に投じた。上履きがくるくる回り空気を切りながら弧を描く。そんな絵を思い浮かべながら耳をすました。しかし音はついに訪れなかった。空を切る上履きの音も、着地する音も、着地によって散乱する砂の音も、いくら待っても音は生じなかった。それはあたかも上履きが手元を離れた瞬間、異なる世界に流失してしまったようだった。私は両手を合わせ、その手を祈るようにすり合わせた。皮膚の擦れる音、匂い、感触がそこにはなかった。もう一度、手をすり合わせ、顔に近づけその手で鼻を覆った。その手は鼻も顔も捉えることが出来なかった。私は深い眠りに落ちた。

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